「コンプレックスの塊でした」“天才サッカー少年”だったローランドが歌舞伎町に飛び込んだ本当の理由

「コンプレックスの塊でした」“天才サッカー少年”だったローランドが歌舞伎町に飛び込んだ本当の理由

©山元茂樹/文藝春秋

 ローランドが佇めば、木枯らしが吹き抜ける冬の街にだって花が咲く。憎たらしいくらいに華のある男だ。イベントが増える季節を前にしてイメージチェンジ、それまでは肩にかかるほど長かったブロンドヘアを顎のラインまで短くした。だが髪を切ってもローランドはローランド。撮影現場の前をパトカーが通り過ぎると、優雅に微笑んで手を振った。

 1992年、東京都八王子市で生まれたローランドは高校卒業後、周囲の反対を押し切って縁もゆかりもないホストの世界に飛び込んだ。すると歌舞伎町の最年少記録を次々に塗り替え、それがさも当然であるかのように、ホスト界の頂点にまで登り詰めた。そんな男の存在をメディアが放っておくわけがない。あっという間にローランドは“時代の象徴”になり、存在自体がブランドと化した。

 だが今から10年前、彼はプロサッカー選手を夢見て、名門・帝京高校でひたすらボールを追い続けていたのだという。この男は、一体何者なのだろうか――。自伝的漫画『 ローランド・ゼロ 』(宝島社)を刊行した彼に、“ローランドとなる前”の半生について振り返ってもらった。(全2回の1回目/ 後編に続く )

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 小さい頃はどんな子供だったかと尋ねると、「もう無敵だと思ってましたね」と、ローランドらしい言葉が返ってきた。「サッカー少年で、基本的にすごく明るいタイプの子どもだったかな。あとは選民思想というか、自分はどこか他の人とは違うぞというようなところもあって。でもこのときは本当に、地元とか、東京都でも、サッカーですごいちやほやされて、自分って才能持ってる側の人間なんだろうな、というふうには思っていて」

 少年時代は八王子の街で、ひたすらサッカーに明け暮れていた。「サッカーは10年くらい、本気でやっていましたね」。さらりと口にするが、中学時代にはJリーグの下部組織チームにも所属していたという。本気でプロを目指していたのだ。

「小さい時から公園で、サッカーの練習がないときも毎日トレーニングしてたんで、その風景をすごく覚えています。足も速くて、小学生のときは誰からもサッカーの天才だ、絶対プロになると言われていたんで、自信がありましたね。周りから言われたら、自分もそういうふうに思うじゃないですか。女の子と遊ぶぐらいだったらサッカーしてたほうがいいっていう考えでしたし、将来こんなに女の子大好きになるとは思わなかったですよ、自分が(笑)」

■「僕はもう母が一番大事ですよ」

 そんなローランドは、ミュージシャンである父親の背中を見て育った。仕事や仕事道具に対するプロフェッショナルとしての姿勢を父から学び、今も尊敬しているという。彼の幼少期について語られた記事では、よく父親とのエピソードが登場する。そこで、やっぱりお父さんが好きなのかと尋ねると「全然比べ物にならないぐらい、断トツで母のほうが好きです。僕、インタビューでは結構母の話もするんですけど、父の話の方が採用されやすいだけで」。

 歌舞伎町ホストというイメージのせいか、これまでローランドの言葉はしばしば実際よりもオラついた横柄な口調でメディアに書かれてきた。だが本物のローランドは非常に丁寧で知的な話し方をする。本人の美意識で演出されるものも当然あるにせよ、彼の言葉には、きちんと躾けられた家庭の香りがする。

「父に関しては本当に健康で生きてくれたら、まあまあ好きにしてくれって感じで。あまり干渉もしてこないですし、仕事頑張ってるなとか、やっぱりライブでの姿も素敵だなと思うくらいです。父のことは好きですけれど、ちょっとね、チャラチャラしているから(笑)。僕はもう母が一番大事ですよ」。

■母の財布に入っていた“肩叩き券”

 とはいえ、「母を大事にする」という生き方にも、父親からの影響はあるのかもしれない。父親は、少年時代のローランドに「男の幸せは、惚れた女に振り回されることだ」と教え、徹底してレディファーストを貫く姿を見せつけた。「僕の母は、外出したときにドアノブに触れることがない」。すべてのドアは母が近づくと、父の手によってスマートに開けられるからだ。

 そんな母をローランドは「真面目というか道徳的な人間というか、彼女がモラルに反する行動を取るのを見たことがない」という。他人に対して正しくいろ、相手を傷つけるような人間にはなるなと教えられた。「僕はテレビに出るときも、誰も傷つけないような発言をしようとか、そういうことは意識してるんですよ。それはやっぱり母の影響じゃないかな」

 ローランドには、今も鮮明に覚えている光景があるという。「中学生の時、母の財布に僕が幼稚園の頃プレゼントした肩叩き券が大事そうに入っているのが見えて、あの時の気持ちは忘れられないです。生まれ変わってもこの母親の元に生まれてきたいなって。母に関しては世界一の母だと思うぐらい、すごく好きですね」と、一切の照れなく語る。

 ローランドには他にも双子の妹と6歳下の弟がいるが、この双子の妹のことも溺愛しているというから、彼の女性に対する接し方は一貫している(とはいえ、妹からは「キモい」と叱られることもあるという)。高校進学を機に15歳で家を出たローランドが、後にホストとして成功した一因は、この家庭で過ごした時間にもあったのではないだろうか。

■帝京高校で思い知らされた“身の丈”

 高校は、スポーツ推薦の特待生として帝京高校へ入学。名門と知られるサッカー部に所属し、親元を離れて寮生活を送ることになった。だが、それまで天才と呼ばれてきたローランドにとって、そこは身の丈を思い知らされる非情な場所でもあった。

「自分は天才ではないんじゃないか」という思いは、実は中学時代から芽生え始めていたという。「小学生のときなんて半径100メートルぐらいの人間関係。その中で一番うまかったら、自分が世界で一番だと錯覚できるんですけど、中学でJリーグの下部組織のチームに入ったら、コミュニティが一気に広がって、自分より上手い人たちの存在を知ってしまった。俺って一番じゃねえんだ、って徐々にわかってしまったんです」

 幸か不幸か、彼の世代はいわゆる“プラチナ世代”だった。「日本のサッカー界の中で、もう一番の当たり年だっていう、日本のサッカー史上最も優れた選手たちのいる年代。だから上手いやつ、凄いやつが、高校へ行ったらもっといるわけですよ。それが日本だけじゃなくて、世界を見ればネイマールとか、バルセロナのフィリペ・コウチーニョだったりとか、同じ世代でも凄い選手がいて」。

 だが、ローランドは諦めなかった。凄い奴らの中で腐ってしまう時期もあったが、自分も負けまいと血の滲むような努力を重ねた。そして高3の年、チームは都大会決勝で敗退。サッカー部では引退を迎え、ローランドのサッカー人生にも終わりが告げられた。

■コンプレックスの塊だった

「周りにはプロになってる選手が、同じチームメイトにすらいるわけじゃないですか。自分の身の丈を全部知ってしまった時の絶望感と劣等感とコンプレックス、それこそ世界の全“卑屈な人間”の代表としてスピーチできるぐらいでしたよ」。

 それまで全てを賭けて、ストイックに練習を続けてきた。その結果、彼は「もうピッチには必要ない」と告げられた。天才と言われ、自分でもそう信じ、自己肯定感の塊で育った反動もあったのかもしれない。それまでのローランドの純粋すぎる真っ直ぐさは、人生を呪い、才能のある他人を妬み、自分自身に生まれてきたことを後悔する方へと向かった。

「自分を嫌いになるって、人生で一番悲しい、やっちゃいけないことなんですよね。でもあの時の僕は、夢も目標も失って、死にながら生きているような感覚でした。なんで俺はこんなに不幸なのにこいつは幸せなんだろう、なんで俺だけが、って。あれだけ頑張ったのに、努力は報われねえじゃねえか、って。無駄な努力はないって大人が言ってたけど、あれは嘘だなとか、もうコンプレックスの塊でした」

■なぜホストの道を選んだのか?

 そんなくすんだ思いを抱えたまま、ローランドは先生や両親に勧められるがまま、推薦で大学進学を決めた。そして入学式の日――。新たな人生の幕開けとなるはずだった日に、彼は周りを見渡しながら、「ここは俺の居場所じゃない」という強烈な違和感に、居ても立っても居られなくなった。

 その日が、彼にとって人生の岐路だったことは間違いない。入学式直後に退学届を提出し、大学を早々に辞めたローランドは、新宿ALTAの前に立ってホストクラブのスカウトを待った。「あの日、一番初めに声をかけてきた店に入ろうと思っていたんですよ。運命は運命に任せるタイプなんで。声をかけてきたのは小さな店だったんですけれど、もちろん二つ返事でついて行きました」。

 しかし、なぜそこで選んだのがホストだったのか? それは、中学生の時に見たドラマ『夜王』が強い印象に残っていたからだという(※原作・倉科遼、作画・井上紀良による漫画作品。北海道から上京してきた的場遼介が新宿・歌舞伎町を舞台に繰り広げるホストの物語であり、2006年には連続ドラマ化された)。

「ドラマの衝撃が忘れられなくて、17、18のもがいていた時期に漫画を読み直したんです。子供の頃、あれは僕の中でセンセーショナルなドラマだったんですよね。なんだこれ??って」

■ライバルの上条聖也に痺れた

 舞台となるのは、決して煌びやかなだけじゃないホストの世界。綺麗な女たちが男に貢ぎ、何千万という金額が飛び交う中で、男たちがより高い売り上げを目指してしのぎを削る。「主人公の的場遼介にはあまり関心がなくて、僕は断然、ライバルの上条聖也派だったんですよ。僕のルックスも聖也風なところがあるでしょう(笑)。赤い薔薇の花束を抱えてポルシェのオープンカーで登場するシーンのカッコ良さにも痺れたし、どんなことをしても勝つというこだわりや、その裏で大変な努力をしていたりというところに、すごく共感したんです」

 彼の自伝的漫画である『ローランド・ゼロ』は、その『夜王』を描いた漫画家・井上紀良が作画を担当している。物語の中では、漫画というバーチャルな世界でローランドが聖也と出会い、存在を認められるシーンが出てくる。それは「うれしかったです」とローランドは言う。

「ローランドである特権というか、『ここまで頑張ってきてよかった』と思う瞬間でしたね。僕にとって『夜王』がバイブルだったように、この作品が誰かにとってバイブルであってくれたらいいなと思うし、僕も誰かの“聖也”でありたいと思います」

■「もうこの世界で前に進む以外ない」

 男ばかりの世界で本気でサッカーにのめり込み、プロを目指していたローランドは「女の子なんて、お化けくらいに見たことなかった」という。それなのにホストに、しかも「伝説のホスト」になってみせると決心した。そこには大きな距離があるように思える。それを埋めたものはなんだったのだろうか。

「『自分は世界を変えられるんじゃないか』という、ポジティブな勘違いです。僕の持論で、『ステップアップに必要なのは“ちょっと素敵な勘違い”』というのがあって。いろんな人に成功の秘訣を聞かれるたびに、『ちょっと素敵な勘違いだよ』って答えるんですけど、それこそが俺という人間を支えてきたものなんですよ。よくよく考えると、それまで彼女もできないほど厳しくストイックにサッカーに打ち込んでいた自分が、歌舞伎町でもやれるんじゃないかと思うなんて、素敵な勘違いもいいところですよね(笑)」

 他人から見ると、それは自暴自棄と映るかもしれない。知らない場所へ、しかも歌舞伎町という世界に飛び込むのは怖くなかったのかと問うと、ローランドは静かに言った。

「あの時の僕は、夢も目標も失って、死にながら生きているような感覚だったんです。魂が抜けて、もはや死ぬことにすら恐怖がなかったというか。だから親に『ホストになる』と告げて、勘当同然で家を出て、退路を断って行きました。戻れる場所や、泣いて帰っても温かく迎え入れてくれるようなよりどころがあると、大多数が甘えてしまう。『ここでやるしかない、もうこの世界で前に進む以外ないんだ』と心を決めて、歌舞伎町のホストクラブの寮に入りました」

 だがその道もまた、厳しく険しいものだった。ローランドは店で初めてついた女性客のことが未だに忘れられないという。「話しかけて、一生懸命に歩み寄るんだけど、全然口をきいてくれなかった。他のホストと彼女との会話の蚊帳の外にやられて、ただ天井を見上げて一晩やり過ごして」。サッカーの道を諦め、「死にながら生きて」いたローランドの“大逆転”は、そんな一夜から始まった。

( 後編に続く )

撮影=山元茂樹/文藝春秋

伝説のホスト ローランドが明かす「女の子と話せなかった新人時代」を支えた“劣等感と反骨心” へ続く

(河崎 環)

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