「今日やらないと、チャンスは二度とないのかも」 夫殺しの中国人“毒婦”が迎えたXデー

「今日やらないと、チャンスは二度とないのかも」 夫殺しの中国人“毒婦”が迎えたXデー

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 2006年、“中国人妻の夫殺人未遂事件”が世間を騒がせた。お見合いツアーを経て結婚した中国人妻の鈴木詩織が、親子ほども年の離れた夫、鈴木茂に、インスリン製剤を大量投与するなどして、植物状態に陥ったのだ。夫の目を盗んで性風俗で働いていたことや、1000万円で整形した等との噂も影響して、センセーショナルな報道が相次いだ。そんな中、事件記者として取材を進めていた、田村建雄氏は、獄中の詩織から300ページに及ぶ手記を託される。取材の様子を『 中国人「毒婦」の告白 』から抜粋して紹介する。(全2回の1回目)

◆◆◆

■「まだまだ真実が語られていないことが山のようにある」

 ここで疑問が浮上する。インスリンの手渡し場所だ。検察冒陳では茂と久美子の元夫が入院していた病院のバス停となっている。詩織が故意に事実を曲げているのか、それとも詩織や久美子が当時の捜査陣に真実を語らなかったかだ。その点を捜査関係者に質すと、こんな一言が返ってきた。

「あの事件はまだまだ真実が語られていないことが山のようにある。ナゾがいくらでも出てくるんだ」

 一方、詩織は「手記に書いたとおりです」と答えるのみだ。

 インスリン事件までの流れを、引き続き詩織の手記をもとにたどる。

 04年3月30日。結婚から約10年が経とうとしていた。熱湯事件による茂の傷も癒えはじめていた。子どもたち2人は依然として中国に預けたままで、離婚話も膠着したままだった。そうした曖昧な状態のまま時はすぎていくように思われたが、詩織の「小田部を出たい」という気持ちはけして萎えてはいなかった。

 間もなく田植えの季節がやってくる。茂は苗を育てるための棚場作りの作業をしていた。詩織も棚場の中の雑草を取り、骨組みの上にビニールをかけて黒い紐で風で飛ばされぬようしっかり結ぶ。はたから見れば働き者の夫婦が助け合っているように見えたが、修復しがたい齟齬が生じていたのはいうまでもない。それに、茂は、まだ体調が万全ではなく、昼を過ぎる頃には激しく息を切らすほど疲労した。詩織も慣れない作業にへとへとになる。それでも2人は顔を真っ赤に上気させ肩で息をしながら働いた。

 やがて夕暮れが近くなり、詩織はひと足先に家に戻り、風呂と夕飯の準備をする。風呂の準備が終わったころ、茂が戻ってきた。この日、茂は、相当疲れたのだろう。家に着くなり動けなくなった。

 茂の額に触れると、相当熱がある。体もホコリだらけだ。詩織は夕飯の前に、茂を風呂に入れ全身をそっと洗ってあげた。そうしながらも憎悪と慰撫がないまぜになって心の奥底で揺れ動いていたのが判る。それがよけいに茂へのいたわりの行動となって現れる。

■音のない居間で思う「私のここでの生活って何?」

 詩織は2階にあがり電気毛布の電源をいれ、風呂から出た茂の体全体に、火傷のクスリを塗り、布団に寝かせた。

 再び階下に戻り、手早く夕食の準備をし、お茶とともに、お盆にのせて2階に運ぶ。最近では茂の体を冷やさないように布団の中で食事をさせることが多いのだ。食事の後、熱があったので茂に風邪薬を飲ませた。クスリを飲み終えると茂はすぐに横になった。

「お茶はどうする?」

「そこに置いて」

 詩織はドアを閉め1階に戻って風呂に入ると、居間で一人静かに梅酒を飲み、タバコを吸った。テレビのお笑い番組がひどく煩わしく感じられスイッチを切った。詩織は宇多田ヒカルの歌を聞きたいと思ったが、CDは、火傷騒動のとき、誰かが足で踏み壊れてしまっていた。

 詩織は、その音のない居間でまた思った。

「私のここでの生活って何?」

 04年3月31日。

 朝、茂の熱を測ると、38度近くあった。

「今日は休むベ。頭が痛い」と茂がいった。

「風邪ならば休むのが一番。今日は休みましょう。私が腕によりをかけるから何か食べたいものはある?」

■「私に本当にできますか?」

 今晩は、茂を風呂に入れないで、布団の中で汗をかかせれば風邪は治ると詩織は思った。そんな時、詩織は突如、とても重要な、あのことを思い出したのだ。

〈この様子だと、茂さんは明日も休む必要があると思います。それなら、私には、やるべきことが、あるではありませんか。それを忘れかけていました。彼が風邪をひいたときに私がやらねばならないこと。どうしますか? 私に本当にできますか?〉

 詩織の計画は、クスリ(インスリン)を打って茂の体を弱らせ、その上で離婚と親権の話をすれば、体力、気力ともに弱まっている茂は、法的に争うことも子どもを隠したりすることもないだろう、というものだ。ただ、インスリンは注射なので、茂が普通に寝ているだけでは痛さで目を覚ましてしまうだろう。だから睡眠薬を飲ませて熟睡しているところにインスリンを打つ。

 冷静に考えれば、すぐに発覚する、計画ともいえないような計画だ。離婚をし、子どもの親権を得たいだけならば、既に日本の国籍を得ていた詩織は、法的に争っても必ずしも負けるわけではない。それに子どもたちは中国にいるし、茂が無理やり連れ戻しに行っても、母や親戚の者たちが、そう簡単に応じるはずもない。さらに、詩織は風俗のアルバイトで金を稼ぐことを知っていたし、そうした場所で自分の商品価値が高いことも承知していた。だから黙って家を出て子ども達に送るだけの金を稼ぐこともできた。しかし詩織は「茂さんが風邪をひいたときに私がやらねばならないこと」に拘泥していた。

■注射の痛みが恐ろしい

〈私は今夜も自棄酒を飲み始めました。梅酒です。注射は私にはできません。正確にいえば怖かったのです。小さいときから、よく熱を出し注射をされました。あの痛みが恐ろしいのです。針に抵抗があるのです。私は小学校5年生になっても、注射の日には物陰で泣いていました。

 長男が予防接種を受けたときも、私は子どもを抱きしめながら自分が泣いてしまったほどです。私は、多分他人に注射する前に、失神してしまうでしょう。久美子さんからクスリを受け取った時は夢中で、針が苦手だということを思い出せなかったのです。

 夜もふけ、梅酒がつきたところで就寝しましたが、怖い夢を見ました。

 黒い獣のようなものが大きな声で怒鳴っており、私は必死で逃げています。あまりの怖さに目覚めると、茂さんが、お茶が飲みたいと私を呼んでいたのです。

 私は「ちょっと待ってね」と返事をして、胸の動悸を静めてから、お茶をいれにいきました。その時の茂さんの声は本当に怖かったです。〉

 そして運命の04年4月1日を迎える。

■もし今日やらないと、チャンスは二度とないのかもしれません

〈普段と同じように朝食を作りました。その合間を利用し、茂さんが脱いだ下着を洗いました。それからご飯を2階に運び、風邪薬を飲ませました。昨日よりは熱は下がったようですが、今日も休んだほうがよさそうです。

 午前中は家事に忙殺されました。浴室を洗って、シーツや毛布を洗い、1階の掃除をしました。再び昼食を作り、茂さんに食べさせ、また風邪薬を飲ませました。私は昼食も食べず、近くの葡萄の木を剪定します。葡萄の木を切りそろえると心がなぜか落ち着きます。4時を過ぎたので、風呂を沸し始めました。

 風呂は薪で沸します。薪の風呂が好きな人は、誰でも大歓迎ですよ、などと考えていたら茂さんの友人、梶田さん(仮名)がぶらりと訪ねてきました。風邪をひいて寝ているというと、すぐ帰りました。

 そうこうしているうちに夕方になりました。

 茂さんに「何を食べたいですか?」と聞くと、「竹の子」といいます。

「竹の子ないよ。そういえばさっき梶田さんがきて、風邪が治ったら竹の子一緒に採りにいこうと言っていたよ」

「おー」

 茂さんは嬉しそうに頷きました。私は、何か栄養がある食べ物をと思い、冷蔵庫の中のすみからすみまで探し、肉と野菜で「お鍋」を作りました。

 その時、私は再び、“することがある”と思い出したのです。そう睡眠薬です。でも考えただけで慌てて、何か陰でこそこそしているような気分に囚われました。だから1階で私はウロウロしていました。でも、息苦しく蒸し暑く、なかなか考えがまとまりません。

 茂さんはめったに風邪などひかない人です。彼が風邪をひいたときしか睡眠薬は使えません。

 もし今日やらないと、チャンスは二度とないのかもしれません。

■私は生きて幸せになりたいのです

 ともかく、今、私には3つの道があります。ひとつはチャンスを逃しこのまま永遠にここにいる。ふたつめは離婚をし、子どもたちと別れる。3つめは私がクスリの注射に成功する。

 それらのどれを選択するのかは、私の決断次第です。もし子どもと別れるなら私は生ける屍になります。もし、このまま、草刈りをしたり洗濯したりしなければならないなら、死んだほうがましです。でも私は生きたいのです。生きて幸せになりたいのです。そのためには子どもたちと一緒に暮らすことです。私の望みはそれ以外何もありません。

 私は、決意しました。絶対に、成功させます。そう思い定めると勇気が湧いてきました。

 それでも、睡眠薬を飲ませるときは、放心状態でした。自分の手が何をしているのかもわかりませんでした。多分、日本へ来てからの長い苦しみや悲しみが私の手を支配していたのです。茂さんがご飯を食べ、風邪薬と思い込んで睡眠薬を飲むのをぼんやりと見ていました。〉

■注射器の感触

 詩織は、とうとう茂に睡眠薬を飲ませ、暗黒の日々に?がる第一歩を踏み出してしまった。睡眠薬は詩織の手記には久美子が準備したとする記述もあるが、警察の捜査では、かねてから詩織自身への薬として医者から処方してもらっていたベンゾジアゼピン系睡眠導入剤の含まれる精神安定剤メイラックスとセルシンが準備された、と食い違う。睡眠薬を茂に飲ませる2日前、メイラックス28錠、セルシン14錠を病院で処方してもらっている。そのメイラックスとセルシンを茂に密かに飲ませたというのが警察の見方だ。

そしていよいよインスリンだ。

「注射せざるを得ない気持ちをわかってくれますか」 夫を殺した風俗嬢・詩織の呆れた“言い訳” へ続く

(田村 建雄)

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