『進撃の巨人』にそっくり!? 実現しなかった『エヴァンゲリオン』幻の完全新作劇場版

『進撃の巨人』にそっくり!? 実現しなかった『エヴァンゲリオン』幻の完全新作劇場版

2016年、上海で開催されたイベントに展示された際のエヴァンゲリオン像 ©時事通信社

 1995年に放送され、社会現象にもなったアニメ『エヴァンゲリオン』。新型コロナウイルスによる緊急事態宣言を受け公開が再延期されたが、シリーズ最新作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』も企画されており、四半世紀以上たった今でも多くの注目を集め続けている。

 この伝説の作品がどのようにして生まれたのか。企画段階から放送当時、そして存在した幻の新作劇場版について、『 ゴジラとエヴァンゲリオン 』(長山靖生著、新潮新書)より抜粋して引用する。

◆◆◆

『エヴァ』の原案は1991年頃に着想され、その企画が通って具体的な製作がはじまったのは、放送開始の2年前だった。その間に漫画版の連載がはじまる一方、TVアニメ『エヴァ』の第壱話から第拾弐話までが作られた。

 そこで本放送が開始されたので、最終話までの残り14回分は約半年の期間で作らねばならない勘定だ。画質を保っていては製作不可能なことは、初めから分かっていた。それでも第拾九話までは、ある程度のクオリティーで作れたが、第拾伍話の段階でスケジュール管理は既に崩壊しており、スタッフの疲弊は限界に達していた。

 リタイアする者も現われ、第弐拾壱話の頃には、当初考えた形での完成は無理だとはっきりした。徹夜続きの庵野監督自身がいちばん消耗していると知っていたから、多くのスタッフは我慢したが、ある関係者は「家族を捨てるか、『エヴァ』を捨てるか、ってくらいキツイ状況」と後に話してくれた。だから最終二話があのような画面構成になったのは、やはり作画が追いつかないのも一因だった。

■「5点の終り方をするくらいなら、マイナス100点のものを」

 また元々考えていた最終二話のアイディアは、子供向けアニメとしては衝撃的すぎ、局側からクレームが出たとも噂されている(たとえば「最終回から一個前は、最大限のドンパチをやっちゃう」予定だったと庵野監督が洩らしている)。最終話の脚本が出来たのは打上げ後で、作画は実質3日しかなかった。

 TV放送が終了後の96年4月28日の「SFセミナー」で、庵野監督は「ものすごく大変な内容、用意していたんですよ。もうこれ以上は無理だというのがあったんです」と語っている。詳細は語られていないが、「劇場版」(今は「旧劇場版」と呼ばれているが、本章では「新劇場版」企画以前の時代を扱うので、「劇場版」という公開当時の名称を用いる)の原型だったと思われる。

 作業速度が落ちるなか、庵野監督は未完成のまま放送を打ち切り、完結編はレーザーディスクやビデオのみという形も考えた。あるいは「人類補完計画」の謎は置き去りにし、アスカが回復してシンジも心の負担が軽くなるといった無難な収束もあり得た。しかしそんな「5点の終り方をするくらいなら、マイナス100点のものを」というのが、あの結末だったと庵野監督は語っている。

■苦悩する作者

 番組制作の末期、監督は鬱状態に陥り「死にたい」と繰り返して周囲をいっそう苛立たせた。それはTV放送終了後も続き、感情の振幅の大きさにスタッフは困惑した。

 庵野は『スキゾ・エヴァンゲリオン』で、自殺願望が昂じて一度はガイナックスの屋上に立ち、実際に飛び込めるか試してみたと述べている。これに対して『パラノ・エヴァンゲリオン』では、キャラクター・デザインを担当した貞本義行とアニメーターの摩砂雪が「ちょっとあいつの罠なんじゃないかなって(笑)」「そんなに苦労してるとは、思っちゃいけないんですよ(笑)」と茶化している。

 しかしそういう「苦悩する作者」がファンを魅了するのは昔からの定番だ。ドワンゴの川上量生会長は庵野監督を評して「殉教者の目をしている。世間の人が考えるクリエイターらしい特徴をすべて備えている」と述べている。ここで「いっしょに死んであげる」的女性や、「来世までも付いて行きます」的弟子が出てくると、太宰治や三島由紀夫みたいなことになりかねない。自殺願望アピールは回避行動でもあるので、庵野監督の周囲にそれを笑ってくれる仲間がいたのは幸いだった。

■一度は発表された完全新作の「劇場版」

 TV版『エヴァ』の最終二話では物語全体が回収し切れていないことは、製作者側にも分かっていた。放送後もファンの関心が持続していることを受けて、放送終了後1ヶ月の1996年4月に、最終二話を当初の脚本に沿ってリメイクすると発表された。さらに、そのリメイク版とは別に、完全新作で全ストーリイを描く「劇場版」の製作・公開も発表された。「それぞれの世界観は同じなのか、ズレがあるのか」が、またファンの議論を呼んだ。

 このふたつの企画は並行して進められ、96年11月には、97年春にTV版の総集編とリメイクした第二五話・第二六話をセットにした完結編『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』を、さらに同年夏に完全新作の「劇場版」を公開すると発表されている。

 しかし予定の期日に間に合わず(今となっては「例によって」なのだが)、97年2月14日に緊急記者会見を開いて、庵野監督が謝罪。その際、春にはTV版第壱話〜第弐拾四話に一部新映像を交えて再編成した『DEATH』編と製作途中の『REBIRTH』編の一部を公開し、夏には完全版『REBIRTH』編たる『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』を公開すると告知された。

 こうして97年3月15日に公開されたのが『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』だった。『DEATH』編は単純な総集編ではなく、時系列によらない独特な詩的センスで編集されており、TV版の筋を把握していなければ理解不能だった。

「劇場版」の製作が期日に間に合わないこと自体、プロの仕事としては問題だが、出来上がった作品も尋常ではなかった。ふつう、こういう作品をプロは作らない。また庵野監督の姿勢は“芸術家”のそれとも違っていた。それはきわめて趣味的・オタク的な、独りよがりを貫いた表現だった。趣味に命をかける人生もあるのである。

■『進撃の巨人』に似ていた「完全新作版」

 実現しなかった「完全新作版」は、どんなものになるはずだったのだろう。これは2時間映画として『エヴァ』を作り直すという企画だったが、21世紀に入ってから公開された「新劇場版」とはまた別のプロットだった。その基本設定は、後の『進撃の巨人』にそっくりなものだったという。

 その世界では、街はA.T.フィールドに守られており、外界とは大きな橋一本だけでつながっている。そこに使徒が襲ってくる。しかもその使徒は人を食うのだ。

 庵野は、人にとってのいちばんの恐怖を考えた際、「食われる」ことだと考えたという。これは『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』や『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』の記憶と結びついている(2014年のイベント『庵野秀明の世界』でのトーク)。

■強烈だった「人間を食う怪獣」

 ギャオスは『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』(1967)と『ガメラ 大怪獣空中決戦』(95)のどちらでも人を食う。付け足すとギャオスに先行する『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』(66)でも、バルゴンは長い舌を伸ばして人を飲み込んでいた(ゴジラも人を食う設定だ)。

 人間を食う怪獣のイメージは強烈で、トム・クルーズもあるインタビューで、子ども時代に日本製『ガルガンチュア』(『サンダ対ガイラ』の海外題名『The War of the Gargantuas』)で、飛行場で巨人が女性を捕まえてクチャクチャ食べてしまうシーンに衝撃を受け、映画はすごいと思ったと語っている(日本版では地面に散る赤い花束で女性の死が暗示されていたが、海外版では食いちぎられた服がはっきり映されていた)。

 EVAには母の魂が溶け込んでいる。パイロットはエントリープラグに入り、そのなかをLCLという羊水様の液体で満たして戦う。

 これは明らかに母と胎児のアナロジーだが、幻の「完全新作版」では、パイロットはエントリープラグを使わずに、EVAの子宮に直接入って一体化するという表現を考えていたという。そして出るときは摘出手術。タイムリミットがあって間に合わないと取り込まれて「人としては死んでしまう」設定だったという。

 庵野秀明は、メジャーな商業アニメの現場では忌避されるような過激な表現もタブーとしない。ストーリイといい、製作態度や発表方法といい、斬新さをねらってというより、自分の思いを優先させるアマチュア的真摯さが感じられる。

 そうした庵野監督の姿勢は、何に由来しているのだろうか。

(長山 靖生)

関連記事(外部サイト)