「麒麟がくる」でも再燃した“架空キャラ問題” 大河ドラマの創作はなぜ批判されるのか

「麒麟がくる」でも再燃した“架空キャラ問題” 大河ドラマの創作はなぜ批判されるのか

「麒麟がくる」で駒を演じた門脇麦 ©AFLO

 明智光秀(長谷川博己)を主役にした大河ドラマ「麒麟がくる」(NHK)が2月7日(日)に最終回を迎える。クライマックスは光秀、最大の見せ場〈本能寺の変〉。その最終回に秀吉(佐々木蔵之介)の家臣・黒田官兵衛(濱田岳)も登場すると発表された。官兵衛は本能寺の変のあと秀吉が光秀を追いつめる〈山崎の戦い〉で活躍する。 

 大河ドラマに知っている人物が出てくると「待ってました!」とワクワクする。最終回直前の第43回に森蘭丸(板垣瑞生)が出てきたときも、もう出ないかと思っていたら、出た!とテンションが上がった。そう、大河ドラマとは「待ってました」の娯楽である。

■“歴史ドラマ好き”は架空のキャラが嫌い?

 好きなものは何度でも繰り返し見たい。同じ芝居を見て、名場面が出てくるたび、「待ってました!」と喝采する。演じる俳優や演出によってどこが違うか比べて楽しみたい。最たる例が〈本能寺の変〉である。

 信長に長らく仕えてきた光秀が何を思ったか謀反を起こし、天下統一目前に信長は死ぬ。この衝撃の事件の真相――信長と光秀の間に何が起こったか、実際、信長が死ぬときはどんなふうだったか、そこに妻の帰蝶(濃姫)はいたのか、いないのか、その後、光秀はどうなったか……等々、作品ごとの解釈や創作を楽しむ。大河ドラマではこれまで15作も本能寺の変を扱ってきた(「麒麟」をのぞく)。

 大河ドラマをはじめとした歴史エンターテインメントは、それを見て歴史を学ぶという側面もあるにはあるが、それよりはすでに学んだことの復習と新しい学説をいかに取り入れてアップデートしているか、そこを楽しむ視聴者が多いのである。

 だからこそ「麒麟がくる」ではオリジナルキャラ・駒(門脇麦)が歴史ドラマ好き視聴者の厳しい視線の矢面に立たされた。

 駒は戦災孤児で、光秀の父に助けられる。彼女は麒麟という架空の動物が平和な世の中に現れるという伝説を信じていて、それが光秀の人生に影響を与える。

 育ての親のような医者の東庵(堺正章)と旅芸人の伊呂波太夫(尾野真千子)は各々の職業を生かし、戦国の世をかいくぐり、あちこち出入りし、身分の高い人達とも交流できる万能キャラ。駒は彼らの人脈を受け継ぐように、秀吉、家康(風間俊介)、商人の今井宗久(陣内孝則)、将軍・足利義昭(滝藤賢一)等々、重要人物と関わっていく。

 東庵は正親町天皇(坂東玉三郎)、伊呂波は関白近衛前久(本郷奏多)と関わり、駒と3人で、光秀と重要人物をつなげる役割をする。あともうひとり、家康の手下で、庶民のなかに混じって暗躍する菊丸(岡村隆史)がいて、終盤、家康と光秀を繋いだ。

■「ご都合主義」との批判もあるが……

 これらオリジナルキャラの働きを「ご都合主義」と指摘する視聴者もいるが、そこはドラマ(フィクション)。歴史的局面を繋ぐために機能する人物を作ることは大目に見たいところ。

 だがしかし、知ってる武将たちと比べて、知らない架空の人物にはどうも親しみがわかず、応援しにくいと思う人の気持ちもわかる。やっぱり知ってる人物のほうが応援しやすい。「麒麟がくる」では主人公の光秀とゆかりのある人物として、三英傑のみならず、斎藤道三(本木雅弘)、朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)、斎藤利三(須賀貴匡)、のちの細川ガラシャことたま(芦田愛菜)などが出てくると、有名な場面が見られるかなと期待し、身を乗り出して見てしまう。

 だが、道三以外は、期待していたほど活躍しない。にもかかわらず、オリジナルキャラの出番が多いと、それより有名なあの場面を描いてほしいと思ってしまうわけだ。

■久秀や家康の“オリジナルエピソード”を評価する声

 とはいえ、歴史ドラマ好きの視聴者も、なんでもかんでもオリジナルなものが嫌いなわけではない。「麒麟がくる」で光秀に多大な影響を与える存在として描かれた松永久秀(吉田鋼太郎)は、光秀と久秀がこんなに強い絆で繋がっていることは創作にもかかわらず、その友情は視聴者から好意的に受け止められた。久秀は爆死(これも史実ではないのだが)することで人気の武将。彼の爆死が描かれず残念という声もあったが、死に方がかっこよかったのでオンエア後は盛り上がった。

 また、家康が竹千代時代、人質の身から逃げようとしたとき光秀に助けられ、干し柿をもらう心温まるエピソードもドラマの創作だが、やはり好意的に受け止められている。

 大河ドラマ「義経」の演出家・黛りんたろうは著書『大河ドラマ「義経」が出来るまで』で「ドラマと名がつく以上、フィクショナルなイマジネーションが入ることを前提としている。ドラマの真実は、虚構の上に成り立つ真実であり、そこがドキュメンタリーとは根本的に異なる」と、歴史ドラマにおける虚構の必要性を説き、例として、大河ドラマ「秀吉」(1996年)で、秀吉と石川五右衛門が幼馴染だったとし、秀吉と明智光秀が青年期に出会っていた、という設定にした結果、「ドラマとして大きく膨らませることができたし、大いに共感もよんだ」と書いている。

■「真田丸」では“あのキャラ”が叩かれた

 視聴者は、すでに知っている人物たちをいっそう魅力的にする創作は歓迎するが、オリジナルキャラによってお気に入りの人物やエピソードが削られることに引っかかりを覚え、「うざい」とすら思ってしまうこともある。

 例えば「真田丸」(2016年)のきり(長澤まさみ)。真田昌幸(草刈正雄)の家臣・高梨内記(中原丈雄)の娘で、真田幸村こと真田信繁(堺雅人)の幼馴染として最後まで付き従うことになる。彼女には一応、モデルがいるが、かなりの創作が入っているのと、コメディリリーフという役割で、歴史的に重要な部分には関わらず、賑やかし的な動きをするので「うざい」と言う声が散見された。いまだにネットで「真田丸」「きり」と検索すると「うざい」がサジェストされる。

 それでも、なぜ、歴史的に重要ではないオリジナルの人物――主に庶民よりの人物がいつも出てくるのか。それは本来、庶民ニアリーイコール視聴者の視点であって、視聴者が共感しやすいように庶民を描いているはずなのだ。

■庶民代表としてのオリジナルキャラ

「麒麟がくる」の落合チーフプロデューサーは駒についてこのような発言をしている。

「駒の存在は朝ドラ的な感じを交ぜている。若い方が見ても口当たりがいいように分かりやすくしています」( 「スポーツ報知」2020年1月17日 )

 武将やヒーローではない無名の登場人物が主人公になったはじめての大河ドラマは「三姉妹」(1967年)。幕末の動乱のなかで生きる旗本の娘・3人を主役にして、勝海舟、西郷隆盛、坂本龍馬などを彼女たちの視点から描いた。原作の大佛次郎は、大河ドラマ第2作の「赤穂浪士」(1964年)の原作者でもあり、「赤穂浪士」はそれこそ架空の人物が大活躍。隠密浪人・堀田隼人(林与一)、盗賊・蜘蛛の陣十郎(宇野重吉)、お仙(淡島千景)は庶民代表のように大いなる共感を獲得した。

 のちに庶民の目線で大河ドラマを描いたNHKプロデューサー・近藤晋はその理由を著書『プロデューサーの旅路 テレビドラマの昨日・今日・明日』でこのように書いている。「主人公が、必ず武将であったが、これをやめよう。視座が常に『上から』であったが、これを変えよう」「現代にアピールし得る視点に立ち、町人を主人公にして、庶民の側から『大河』を作ろう」

 そして「黄金の日日」(1978年)で、実在したとはいえほとんど記録が残っていない商人・呂宋助左衛門(市川染五郎、現松本白鸚)を主人公にする。さらに「獅子の時代」(1980年)では架空の人物である会津藩士・平沼銑次(菅原文太)と薩摩藩士・苅谷嘉顕(加藤剛)を主人公にした。

 どちらも名作として誉も高い作品だが、主人公がオリジナルの大河はなかなかハードルが高く、「三姉妹」は大河史上(といってもまだ5作しかない時代だが)初の平均視聴率10%台の19.1%、「獅子の時代」は21%とその前後作と比べると芳しくはなかった。だからというわけでもないとは思うが、オリジナルキャラを主人公にした大河ドラマは極めて少ない。

■架空キャラの成功例は?

 庶民の視点を大事にするにしても、主人公の周辺にオリジナルの登場人物を配置し、視点に幅をもたせるほうが無難である。前述の「赤穂浪士」は有名な大石内蔵助と四十七士とそれを追う架空キャラの配分がよく視聴率も31.9%と好成績だった。

「麒麟がくる」と同じ池端俊策が書いた「太平記」(1991年 原作:吉川英治)には、旅芸人一座がオリジナルで登場し主人公と絡み、宮沢りえが演じる藤夜叉は足利尊氏(真田広之)の子供を生む。原作小説に書かれたオリジナルキャラをドラマ化にあたり、役割に厚みをもたせ、物語をドラマティックにした。

 著名な歴史人と魅力的なオリジナルキャラによって、いまでいう「歴史秘話ヒストリア」のようなドラマ仕立ての歴史ものとは異なる、歴史をもとに豊かなイマジネーションを湧かせて描く創作ドラマとしての大河ドラマは魅力的なものになる。かつての成功体験が伝統として残っているのだろう。

■駒は“大河の歴史”に刻まれるか

 もっとも「赤穂浪士」や「太平記」に出てくる架空の人物は、大佛次郎、吉川英治の小説のなかですでに登場済みのオリジナルキャラなので、彼らがドラマではどう描かれるか比較するという楽しみがまたひとつできるのである。逆に、面白いのか面白くないのか指針のないものに対して、視聴者は強い警戒心を抱く。昨今の原作ものの映画やドラマが好まれることとも近い反応だろう。

 視聴者の多くは見知らぬ人物に賭けるほどの余裕はない。テレビドラマは気軽な娯楽なのだから、安心して見たいのだ。ただ、「真田丸」のきりは最後の最後で信繁に長年寄り添ってきた想いの実るいいシーンがあって、ようやく視聴者も彼女に拍手を贈った。

 このように最初は馴染みのない人物でも結局のところ1年間通して見ていると情が湧いてくることもある。「麒麟がくる」の駒も最終回ではきっと愛情をもって拍手を贈られるのではないだろうか。そのときやっとオリジナルキャラは大河ドラマの歴史に刻まれる。

(木俣 冬)

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