「なぜ神様はいつも私を苛めるのでしょうか」 義兄が証言台で明かした中国人“毒婦”の素顔

「なぜ神様はいつも私を苛めるのでしょうか」 義兄が証言台で明かした中国人“毒婦”の素顔

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 2006年、“中国人妻の夫殺人未遂事件”が世間を騒がせた。お見合いツアーを経て結婚した中国人妻の鈴木詩織と、親子ほども年の離れた夫、鈴木茂。その詩織がインスリン製剤を大量投与するなどして、茂が植物状態に陥ったのだ。夫の目を盗んで性風俗で働いていたことや、1000万円で整形した等との噂も影響して、センセーショナルな報道が相次いだ。そんな中、事件記者として取材を進めていた、田村建雄氏は、獄中の詩織から300ページに及ぶ手記を託される。取材の様子を『 中国人「毒婦」の告白 』から抜粋して紹介する。(全2回中の1回目。 後編 を読む)

◆◆◆

■証言台の義兄

 11月21日、東京高裁805号法廷。何(※詩織の義兄)の証人陳述は、お定まりの人定尋問から始まった。

「名前は?」

「何兆全です」

「職業は?」

「いまは会社員です」

「職歴は?」

「中国国防省、人民解放軍、警察などです」

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 証言台の何は、私や馬、陳と会っている時の闊達さはなく、声も消えいるように小さかった。それでも、背筋をピンと伸ばし、必死に裁判長の問いに答えようとしていた。緊張しているのだろう、脚が少し震えている。そんな何を詩織が縋るように見つめている。

「自分の具体的な仕事は刑務所の刑務官などを務めておりました。自分の家族は妻と子ども2人です。そして被告の2人の子どもを預かっております。被告の中国での生活は普通でした。

 日本にあこがれていたということは私は直接聞いておりません。日本に来てからは幸せに暮らしているとばかり思っていました。連絡がとれなくなったのは06年の2月ごろからです。被告の両親はじめみんな心配していました。被告人の子ども達も不安だったようです。子ども達には、“お母さんは仕事が忙しいからなかなか連絡が取れないんだよ。新しい仕事が一段落したら、お土産をたくさん持って帰ってくるから”と言い聞かせていました。逮捕され裁判を受けていると手紙で知ったのは今年の8月ごろです」

「それも傷害、殺人未遂事件だと聞かされ、とてもビックリしましたし、最初はまったく理解できませんでした。被告は、これまで夫への不満を言ったこともないし、お金に困った様子もみせませんでした。それに金遣いが荒いタイプでもありません」

■自分ひとりで乗り切ろうとしていた詩織

 詩織は逮捕されたことはもちろん、夫、茂との離婚話が暗礁に乗りあげていたことや、金銭的に切羽詰まり、風俗でアルバイトしていたことなど、家族に何ひとつ洩らさず、自分ひとりで乗り切ろうとしていたようだ。気丈というか頑固というか、あまりにも自己中心的であったのかもしれない。もし他人に相談し、愚痴をこぼせるようなタイプであったら、傷口はこれほど広がらなかったのかもしれないと私は思った。そうした彼女独特の性格は逮捕された後の手記の中にも仄見える。

〈なぜ神様はいつも私を苛めるのでしょうか。私はもう世間を責めなく闊達になりました。徐々に自分のことが分かるようになりました。

 私は人との付き合いが非常に下手で生来独善的な性格なのです。

 私はあたかも、都市の喧騒から離れている辺鄙な山岳地帯にある一本の草のようで、喧騒と派手を必要としません。〉

 詩織は手記では時折文学少女のような表現をするが、出来るだけ正確に訳す。

〈雑草は、ひじょうに生命力のあるもので、人々に繰り返し踏みにじられても腰を曲げられても、時間がたつにつれて、またまっすぐにそびえ立つようになり、新たに発芽します。嵐のような人生の洗礼を受けてさらに強靱になるのです。

 踏み躙られても嵐にあっても、真夏の酷熱の下でも雑草は耐えられます。冬の厳しい寒さの中でも立派に生きていきます。〉

■「被告が正しく生きられるよう指導していただきたい」

 再び何の証言に戻ろう。

「被告の性格はやさしく従順で、両親にも良い態度で接していました。2人の子どもにたいしても、とてもやさしく、いつも心配していました。

 今回のインスリンの事件を聞いて、私にはいまだに内容がよく理解できませんが、被害者やその家族に対しては、大変深く同情します。私は、被告に法律は守りなさい、罪を認め、悔い改めて遣り直し、被害者に償いなさい、といい聞かせます。そして日本政府には、更生のチャンスを与えて頂き、被告が正しく生きられるよう指導していただきたいと思っています。

 彼女は根がまっとうな人間ですので必ず更生できると信じています。私が、子どもたちを預かっているのは親類だから当然のことです。子ども達に、現在の母親が置かれている状況は話しておりません。被告が刑を終え将来中国に戻りたいといったら、援助し、働く場所も探してやるつもりです。収監中はできるだけ手紙を書き励ますつもりです」

 異国の法廷で、どちらかといえば、みすぼらしい風体で、おどおど訥々と訴える何の証言が裁判官たちの心をどれだけ動かしたかは不明だった。ただ、必死さだけは伝わったようだ。法廷を出てきた何に、私は「御苦労さま」とだけ声をかけた。いずれにしろ、これで、すべての審理は終わったのだ。

■デジカメとワカメの味噌汁

 翌日、私は詩織から「至急、面会希望」の電報を受け取った。慌てて拘置所を訪れると、宅下げをするので、義兄の何に子どもたちへの土産を買って持たせて欲しいという依頼だった。

「デジタルカメラと、あの子たちは日本の味噌汁が大好きなので、ほら、あれ、なんといいましたっけ……」

 実は、この話題に移ったのは、裁判の見通しや、何の東京でのホテル滞在の状態などを話し合った後なので、面会時間は残り少なくなっていた。

「ホラ、ホラ、インスタントの味噌汁で柔らかいの」

 私には思いつかない。

「ネギ? ダイコン? シジミ?」

 出鱈目に言ってみるが、詩織は首を振るばかり。

「ホラ、ぬるぬるした」

「なめこ?」

「違う!」

 やはり分からない。時間は刻々と過ぎ、詩織は焦り始めていた。

「みどりぽい、ぬるぬる」

「ワカメ!」

「ソレ! ソレソレソレ!」

 アクリル板製の仕切り窓を隔て、長期の懲役囚になろうかという被告と私の、実に日常的な事柄での切羽詰まったやり取りに、女性刑務官が横を向いて必死に笑いを堪えている。それに気付いて私も詩織も、思わず声を出して笑ってしまった。

 何十回と繰り返された詩織と私の面会で2人が心から笑ったのは、多分それが最初で最後だったと思う。

■買い物に同行した最終日

 もともと何とはその日会う約束をしていた。だから、その日の内に日本橋のビジネスホテルにいた何を連れ出し近くのデパートに行った。しかしデパートには詩織から渡された3万円で買えるデジカメは無かった。仕方なく地下鉄で秋葉原の大型家電販売店に移動し、そこのカメラコーナーで購入することにした。

 さすが秋葉原は中国人観光客ご用達の街だ。中国語で対応できるスタッフもいるし、商品説明書も中国語仕様になっている。しかも、普及品が豊富でディスカウントプライス・プラス・タックスフリー。

 何は、かなり真剣、というより執拗に中国語スタッフと交渉し、小一時間かけて2万円程のデジカメを購入した。

 次はワカメの味噌汁だ。同じ秋葉原にある食品卸し問屋のような店舗に行き、山ほどのワカメの味噌汁、そしてラーメンなどを購入した。私にすれば、いずれも同工異曲のインスタント食品なのだからと思えるが、何は何度も逡巡し、ここでも数十分を費やした。

 結局、私は何の東京滞在の最後の日の世話役のようになってしまった。

■東京駅の新幹線ホームへ見送りに

 翌23日は何がいよいよ中国に帰る日である。弁護士は仕事があり、留学生の陳も都合がつかないという。こうなれば毒を食わば皿まで。朝7時30分、東京駅の新幹線ホームまで私が送ることとした。新潟からのハルピン行き飛行機は正午すぎに出る。従って午前7時30分の新幹線に乗れば新潟に9時30分。そこから飛行場までの移動時間を計算に入れても10時すぎには新潟空港に到着できる筈だ。言葉や案内の文字が解らず少しぐらい迷っても、2時間以上あるので十分間に合うだろう。

 私はホームに行き、車両の中まで付いていって、指定された座席に何を座らせた。たまたま隣が新潟まで行く初老の男性だったので、何が中国から来た人間で日本語がまったく分からないから着いたら飛行場へのバス乗り場を教えてやって欲しいと依頼した。

 何は出発の時、周囲の客をものともせず、満面の笑みをたたえ、元気いっぱいに両手を振って私に別れの挨拶をした。

 やれやれである。詩織の裁判で、月刊誌の仕事が大幅に遅れていたので、私はその足で北関東の小都市に出張取材に出かけた。

■「何さんが変なことに……」

 昼少し前だろうか。一仕事終え、喫茶店で取材メモの整理をしていると私の携帯電話が激しく振動した。オンにすると留学生の陳の切羽詰まった声が耳元で大きく響いた。

「田村さん! 何さんが、なんか変なことになっている! いま、船の上にいるというのだけれど、どうも飛行場に向かっていないらしい……」

 私は呆然としたが、直感的に海だ!と思った。

「何さんは、また電話するといって一旦切ったのだけれど僕には、もう良く分からないよ! どうしたらいい?」

 何はどう間違えたのか、新潟港から船に乗り、「変だ」と思い、その船上の公衆電話から陳に連絡してきたらしい。

「陳さん、今度何さんから電話が来たら船の乗務員に代わってもらい、私の携帯に電話をくれるよう頼んでください」

「分かりました」

 間もなく船の乗務員から電話が来た。佐渡行きのフェリーだという。私は事情を説明し、佐渡に着いたらそのまま何を新潟に戻る船に乗せて欲しいと懇願した。幸い船のスタッフの中に中国語を話せる人がいるという。ラッキーだ。

 佐渡―新潟間は約2時間半。いずれにしろ、予定の飛行機には間に合わない。( 後編 に続く)

結納金や来日費用で約300万… 40人近い中国人花嫁を山形県に連れてきた仲介人が明かす“日中見合い結婚事情” へ続く

(田村 建雄)

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