「ダークなズートピア」? “食べる”と“セックス”が曖昧な『BEASTARS』、生々しい描写の意味

「ダークなズートピア」? “食べる”と“セックス”が曖昧な『BEASTARS』、生々しい描写の意味

アニメ公式サイトより

 漫画『BEASTARS』が単行本第22巻をもって完結し、アニメ版の第二期の放映が始まった。

 この作品は、擬人化された肉食獣と草食獣たちが共存する世界を舞台とする。主人公はハイイロオオカミのレゴシ。チェリートン学園に通う高校生で、演劇部で冴えない裏方をしている。ある日、演劇部員のアルパカのテムが、何者かに「食殺」されるという事件が起きる……。

『BEASTARS』からまず想起するのは、ピクサー/ディズニー映画の『ズートピア』(2016年)だろう。『ズートピア』も主なテーマが擬人化された肉食獣と草食獣の共存ということで、類似性を考えないではいられない。

 作者の意図はともかく、ここでは『BEASTARS』を『ズートピア』への意識的な「返歌」として読んでみたい。

?*以下の記事では、『BEASTARS』漫画版の内容と結末が述べられていますのでご注意ください。まだ作品をご覧になっていない方、これからご覧になる予定の方は以下の記事を読まないことをお勧めします。

■『ズートピア』では描かれない「性」が描かれる

 その際にまず予想される読み筋は、「多文化主義」である。どちらの作品においても肉食獣と草食獣の対立がもたらす社会的分断、そして融和の可能性がテーマになっているということで、現実社会の寓話として読むならばまずは多文化主義や多民族社会をめぐる物語として読めるだろう。

 だが『BEASTARS』は『ズートピア』には明示されないテーマを導入している。それは「性」である。思春期の童貞肉食獣であるレゴシと、性的に奔放な(それこそ「肉食系」の)ウサギのハルとの関係は、ディズニー映画にはとても不可能な性のテーマを導入している。その中心は主人公レゴシの男性性であろう。

 ひるがえって『ズートピア』においてもまた、多文化主義はじつは表面上のテーマにすぎない。「何にでもなれる」というこの映画のスローガンが表現するのは人種(種族)の壁を超えることができるということ(多文化主義)だけではない。主人公のウサギであるジュディは女性でもあり、男社会である警察で活躍する。そのようなフェミニズム的なテーマが、『ズートピア』の本体なのだ。

『ズートピア』のフェミニズムと『BEASTARS』の男性性の探究。この二つは、現代という時代を考えるときに、みごとな対をなしており、現代における女らしさと男らしさの問題を考えるにあたって、非常に示唆的だ。

『ズートピア』の主人公ジュディは田舎町の農家の娘である。小さな頃から警官になる夢を見ていた彼女はアカデミーで必死の努力をし、首席で卒業して動物たちが共存する理想都市ズートピアで警官となる。ところが最初にあてがわれた仕事は駐車違反の切符切り。同時にズートピアでは、肉食動物14人が行方不明となるという事件が起きている。ジュディは偶然にそのうちの一人、カワウソのエミットの捜索をすることになり……。という物語である。

 この物語は、肉食動物たちの凶暴化によって、肉食と草食の間に「人種的」対立が生じ、主人公のジュディ自身が子供時代にキツネにいじめられたトラウマから、思わず肉食動物への恐怖を煽動するようなことを言ってしまい、「バディ」となって協力関係を築いていたキツネのニックと一旦決別するという、「多文化主義」をめぐる物語のように見える。

■『ズートピア』で女性差別に遭うのは主人公よりも…

 だが、この作品にはもう一本の太い筋が引かれている。それは、ジュディの女性としての成長とキャリアというフェミニズム的な筋だ。

 ジュディの警官としてのキャリアにとっての障害は、ウサギであるということだけではなく、女性であることだ。アカデミーを首席で卒業したにもかかわらず駐車禁止の取り締まりに回されるジュディは、「ガラスの天井」に突き当たっているといえるだろう。

 ただし気をつけるべきなのは、この物語が「単なる」フェミニズムの物語なわけではないということだ。じつのところジュディにとって女性であることはそれほど大きな障害としては表象されない。むしろその障害に苦しんでいるのは、ヒツジの副市長、ドーン・ベルウェザーだ。

 彼女は副市長とは名ばかりで、男性のライオン市長の下で秘書扱いをされている。「ガラスの天井」に直面しているのはジュディよりはドーン副市長である。そして彼女はその苦境を解決するために、肉食と草食の対立を煽って肉食を排斥しようとしてしまう。

 ここでは、ドーンの「フェミニズム的」な怒りは社会的分断の煽動と市長のライオンが代表する肉食動物の排斥という「間違った」形を取ってしまっている。

■主人公はフェミニズムの問題を「ずらす」

 では、ジュディはドーンが直面した問題をどうやって解決しているのか? それは、自分の主体形成をフェミニズム的問題ではなく多文化主義的問題へとずらすことによってである。

 彼女は「何にでもなれる(努力さえすれば)」という実力主義的な多文化主義の理念でキャリアを築いていくが、物語の後半ではキツネに対する恐怖という、自らが抱く根深い差別感情に直面することになる。そしてニックと和解することでその差別感情を乗り越え、真に多文化主義的な主体になる。

 逆に言えば、ドーン副市長の限界は、フェミニズム的願望だけに突き動かされ、多文化主義的な寛容を見失ったことにあった。そのようにして、フェミニズムの「問題」が多文化主義によって魔法のように解決される。

 ここで起きていることを言い換えると、『ズートピア』は多文化主義のみを問題として提示することで、フェミニズム的な問題は「すでに解決済み」のものとして覆い隠している、ということだ。『ズートピア』の多文化主義の真の顔は「フェミニズム以降のフェミニズム」なのである。

■『BEASTARS』が問う、“意識の低い”肉食獣はどうすればいいか

『BEASTARS』は『ズートピア』が示してみせた、「フェミニズムの問題は解決済みとされた多文化主義」という複合的な状況と、男性性との交渉の物語と言えるだろう。具体的には、ほかならぬ「草食=ベジタリアニズム、ビーガニズム」が、現在のリベラルな多文化主義の象徴であるとするならば、この物語はそのような「意識の高さ」に、意識の低い=肉食の男性性がどう対応するのかという物語なのである。

 『BEASTARS』の設定の面白さは、肉食獣男子であるレゴシが飄々として大人しく、いわば「草食系」であるという逆転だ。これは、『ズートピア』的なリベラル多文化主義を背景としてどのような男性性、男らしさを提示するかという問題への一つの “解”であろう。

 レゴシの「草食的」な男性性という解自体は、まったく新しいというわけではない。フェミニズムやリベラリズムに対応した男らしさの組み直しは、とりあえずは1970年代にメンズリブ運動が出てきて、それまでのマッチョな男性性を反省したあたりまで遡ることができる。

 文化的な表現にもそれが反映されていく。私がその点で注目しているのは、「助力者」としての男性像である。

■自立した女性のそばで、役に立とうともがく男性キャラたち

 助力者といっても、お姫様を助ける騎士という、お馴染みの男性ではない。なにしろフェミニズム以降のお姫様は基本的に助力を必要としないのだから。そのような「戦う姫」のそばで、フェミニズム以降の男性はせめて何かの役に立とうともがく。

 宮崎駿監督の作品はそのような男性性のゆくえをみごとに示しているように思われる。

『風の谷のナウシカ』のナウシカは、戦闘力と科学的知識とカリスマ性などすべてを備えたフェミニズム以降の女性であるが、この作品の男性たち(アスベルやユパ)は自らの道を切り開くナウシカを助けようと望みつつ、究極的には自分たちにその力がないことを認める。そこには、助けを必要としない女性主人公に助力をし、それによって自らの男性性を確認したいという積極的な欲望がある。

 その欲望のなれの果てが『千と千尋の神隠し』のカオナシである。カオナシは主人公の千尋を物質的に助けようとするが、「私の欲しいものは、あなたには絶対出せない」とその欲望を拒否され、暴走する。カオナシは、助力者たりたいという「新しい男性」の欲望の暴走である。

■狼のレゴシは「男性性」にどう折り合いをつけるか

 さて、『BEASTARS』のレゴシがそのような男性の系譜に当てはまることは見やすいだろう。彼は異種族(ウサギのハル)に対する欲望に戸惑いながら、自らの欲望の統御とその意味づけをし、成長していく。

『BEASTARS』は大きく分けるとアルパカのテムの食殺犯が判明し、レゴシが彼と決着をつける11巻までと、レゴシが学校を辞めて、ヒョウとガゼルのハイブリッドであるメロンとの対決をしていく12巻以降に分けることができるが、とりわけ前半の、食殺犯であるヒグマのリズとの対決に向けて、レゴシはある行動原理、もしくは自分の欲望のある意味づけを固めていく。

「(草食動物を)1匹たりとも不幸にさせない!!」(10巻)「草食獣のため」(11巻)ということ、つまり草食獣を守るということを彼は行動原理として自分に課していくのだ。

 結果として出てくる「弱者を守る」という原理は、少年漫画としてはおなじみのものに聞こえるかもしれない。しかし重要なのはレゴシがその原理にたどり着くプロセスである。『ズートピア』の文脈や「助力者」としての男性性の系譜を考えたときに、「草食を守る」というレゴシの原理は、新たな時代の男性性の宣言と読むことができる。

■草食動物を守りたい…レゴシの「目覚め」が排除するもの

 『BEASTARS』の物語は、レゴシが前半のリズとの対決によって「助力者」的な男性性に目覚め、後半ではレゴシ自身が実は「純血」のオオカミではなくコモドオオトカゲの血が入ったクォーターであることが明らかになり、同じくハイブリッドである悪役メロンとの対決を経て、(ウサギのハルと結ばれることによって)めでたく多文化主義的かつ異性愛的な主体を手に入れる方向に進んでいく。

 だが、このような要約は、レゴシの性的指向について重大な排除を行っているように思われてならない。それは、簡単に言えばレゴシが潜在的に持っている同性愛的傾向、もしくはもう少し繊細に言えば異性愛の枠組みには収まらない不安定な性的指向である。

■「食べる」と「セックス」の区分が曖昧な世界

 そもそも『BEASTARS』の重要な点は、「種族の差異」と「性の差異」がかなり曖昧な形で入れ替わり続けることである。つまり、肉食と草食の差異は、場合によっては種族(人種)の差異になり、場合によっては肉食=男性、草食=女性という性的差異になる。それがもっとも先鋭な形で表れるのは、肉食が草食を「食べる」行為においてだろう。

 第1巻で、見張り番をしていたレゴシがハルに初めて遭遇し、襲いそうになってしまった場面に、それは表現されている。ハルを抱きかかえるレゴシは、ハルを「食べたい」という欲望を抱いているのか、それとも彼女を「強姦したい」という欲望を抱いているのか、不分明なのである。

 この多義性は、この作品の人間(動物)関係に重大な問題を引き起こす。一見、作中では異性愛しか登場しないが、食べる行為とセックスの区別がつかないとすると、そのセックスは必ずしも異性間のものとは限らなくなるからだ。

 つまり、この作品は種族(人種)間の愛という主題以外に、同性愛の主題も導入している。そうすると問うべきなのは、それが肯定的に導入されているのか、それとも否定的に導入されているのか、という問いであろう。

■リズの食殺は「カミングアウト」だったのではないか

 この問いに関しては、この作品が同性愛嫌悪的な構造をもっている可能性を検討せずに済ますことはできない。例えば前半の本筋である、ヒグマのリズによるアルパカのテムの食殺は、単に獰猛になった肉食獣が草食獣を食べたということではない。

 クマ科の動物たちはあまりにも強力な身体が事故を起こす恐れがあるので、政府から「筋肉を萎縮させる薬」の服用を義務づけられ、リズはその副作用に日々苦しんでいる(9巻)。副作用を和らげてくれるハチミツをいつもなめているリズは、「ハチミツが好きな大人しくて大きなクマさん」と周囲に受け取られている。ところが、「リズってなんか怖いよね」と指摘したのが、テムだった。

 リズは逆説的にも、率直に「怖い」と言ったテムだけが、本当の自分を見てくれたと感じる。そして、もっと「本当の自分のまま」になってテムとの距離を縮めたいと考え、薬の服用をせずにテムと会う。その結果、「本当の自分=肉食獣」となったリズはテムを食殺してしまうのだ。

 リズは、「テムとの今までの思い出までも全てが幻覚」になってしまうためにも、テムの食殺を肯定する。それは、「僕の鮮やかな青春」の一部となる。リズの「本当の自分」には同性愛が含まれていないか。彼の「食殺」はカミングアウトにほかならないのではないか。

■レゴシがルイの脚を食べることの意味

 さて、そうだとすると、第11巻でのリズとレゴシの対決において、レゴシがリズの言い分(彼のテムとの「真実の友情」)に耳を貸そうとしないことには、同性愛の否定、さらには同性愛への嫌悪を読むことが可能になってしまうだろう。この対決では、草食への「博愛」に目覚めたレゴシが、同じ巻で「俺は肉食獣が好きだ」という目覚めを得たアカシカのルイの脚を同意の下で食べ、力を得たレゴシがリズを打ち負かす。

 レゴシがルイの脚を食べることは、この作品における意味の体系の中では性的行為であり得る。だが、それはあくまでリズの「同性愛」を否定するという文脈を与えられている。その限りにおいて、それが表すのはむしろ同性愛の否定に基づいた「ホモソーシャルな関係」なのだ(この言葉を広めた文芸批評家イヴ・コゾフスキー・セジウィックによれば、男性同士のホモソーシャルな関係はミソジニー(女性嫌悪)とホモフォビア(同性愛嫌悪)を条件としている。)

■ぐらぐらと揺れ動く、レゴシの性的指向

『BEASTARS』の結末は、多文化主義的な秩序と異性愛的な秩序の安定的な複合体へと収斂している(つまりレゴシとハル、そしてルイと雌のオオカミのジュノという異種族・異性愛カップルの成立で終わる)。だが、最後に、私はそのような「結論」だけではなく、そこへいたるプロセスを重視したい。

 レゴシの性的指向はここまで見てきたように、ぐらぐらと揺れ動き続ける。彼が否定したはずのリズとの関係も、彼との「ディープキス」の場面を文字通りに読めばそれほど単純なものではないだろう。ルイとのホモソーシャル的に見える関係もしかりである。

 最後にレゴシの「新たな男性性」のありようと、彼の性的指向のゆらぎをみごとに表現している場面を指摘しておこう。第17巻ではレゴシの下宿にハルがやってきて、レゴシの性器を見せろと迫る場面がある。ズボンを下ろされながらレゴシは(見開きの印象的な場面で)「俺がメスウサギで/君がオスオオカミなら/君に抱かれて/君に食われてたら/どんなにいいだろうって…」とずっと思っていたと独白する。

 この場面が表現する、「草食系」とも言われるような新たな男性性のあり方と、その中でゆらぐ性。この場面を『BEASTARS』の「クライマックス」と読んでも、あながち誤読とは言えないかもしれない。

(河野 真太郎)

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