中村橋之助「今が人生で一番の転機」

中村橋之助「今が人生で一番の転機」

中村橋之助

中村橋之助が橋之助という名を受けて、かれこれ約35年になる。この秋に橋之助の名を長男の国生に譲り、成駒屋の大名跡である芝翫(しかん)を襲名する。次男の宗生が3代目福之助を、三男の宜生が4代目歌之助を。聞けば親子4人で同時襲名するのは、歌舞伎史上でも類を見ないことらしい。まずはその一大事について。

大名跡=社長のように会社を預かること。育てる義務がある

「橋之助っていったら個人営業の私物みたいなものなんでしょうけどね。芝翫という大名跡となると、会社の社長になるようなものですよねぇ。8代目を襲名して、9代目へと大切に伝えていかないといけない。大切にといっても、8代目を大事に大事に傷がつかないようにそっとしていくわけにもいかない。今言ったように会社と一緒ですから利益も上げないといけない。だから企業のように、代表としてお預かりして大きくしていかないとならないんです」

もともと7代目中村芝翫を名乗っていたのは、2011年に亡くなった父上。芝翫の襲名は、その遺言でもあったという。

「兄に歌右衛門を継いでほしいということとね。父親は私なんかが子供のときには、『役者になれ』なんてことはひと言も言わなかったですね。イヤなものを一生の生業にしてやるくらいつらいことはないだろうから。父は5歳で自分の父親を亡くして、12歳で後ろ盾の5代目歌右衛門を亡くして、母一人子一人でずっとやってきましたからね。成駒屋という老舗を守らなくてはいけない使命感が父にはあって、選択なしに役者になったわけです。私たち兄弟2人には、そんな型にはめないで、自由にやれよと。でも一方で、芝翫という名跡をもっといっそう大きくして、私に渡したいという気持ちがあったんではないかなと、今考えると思いますよ」

そんな思いに答えるように兄弟揃って歌舞伎の道に進み、橋之助はこの仕事を「天職です」と断言する。さらには息子3人も歌舞伎の道に進むことになる。だが、最初から橋之助という名前で舞台に立っていたわけではない。5歳のときに「出てみたら?」という父親の言葉を受けて「柳影沢蛍火」吉松君で初舞台を踏んでから、15歳までは本名の中村幸二として出演していた。

「成駒屋には多くの名跡がなくて仕方がないということもありますが、海のものとも山のものともわからない子供に名前つけたってしょうがないんだからという父の教えがありましてね」

長男である国生はもちろん、次男の宗生、三男の宜生もこの秋まで本名で舞台に立ってきた。「異例中の異例ですよね」と笑うが、これも父上の気持ちに添ったやりよう。当初から、自分にはこれしかないと考えていたらしい。

若い時代には新しい試みもやる。一方で伝統を守ることも大切

「私にほかに何やれといわれても、できることはなかったですからねぇ」

悩みはないが葛藤はあった。最たるものは立役(たちやく)か女形(おんながた)かを選ぶこと。男性が演じる女性を女形、男性が演じる男性を立役というのが歌舞伎の習わしだ。若い時期にそれを選ぶことになるのだが、橋之助青年は立役を選ぶ。

「私が小さいころは松緑(2代目尾上松緑)のおじさまとか、白鸚(初代松本白鸚)のおじさまだとか、勘三郎(18代目中村勘三郎)の兄とか立役の人たちが素敵でしたから。女形だった父にとってみれば寂しいことだったのかもしれないですけど、自分の気持ちに従ってそっちに行ったんですね。21歳のときですかね。松緑おじさまが『義経千本桜』で知盛に抜擢して下さって。それはもう幼稚園児が大学教授にものを教わるような稽古なんですけど、当時は何言われたかさっぱりわかんなかった。でもその録音をここ最近聞き返したら、『ああこういうことをおっしゃりたかったんだな』って感じましたよ。でもそのときおじさまが本当に手取り足取り稽古してくれて、国立劇場の舞台にも来て下さって、隈取ってくれたりして、そのときようやく立役を選んで良かったと思いましたよ」

舞台のみならず、そのころからメディアにどんどん登場するようになる。今では歌舞伎俳優が仕事を広げることはよくある例だが、当時としては「御法度でした」。

「ドラマや映画、ましてやバラエティなんてとんでもなかった。でもそうやって自分で名前を売らないと、役なんてつかなかったんですね。率先して勧めてくれたのは当時の新橋演舞場の社長・岡副さん。でもそのころは先輩の楽屋にあいさつに行くのがイヤでしたよ〜。『なんであんなもん出るんだ』って怒られたり。とにかく昔はホントに厳しかった。台本だって書き抜きの自分のセリフしかない。だから舞台袖でずっと(セリフや内容を)書いてましたもん」

歌舞伎人気が低迷していた時代。今のように歌舞伎俳優の去就が話題になることもなく、古式ゆかしき伝統芸能という枠組みのなかだけで生きていた。お客が入らないのが当たり前。だが橋之助は大河ドラマ『獅子の時代』(1980年)に出演し、山田洋次監督に誘われて映画『ダウンタウン・ヒーローズ』(88年)に主演。“ハッシー”の愛称で親しまれる人気者の地位を確立していった。時期を合わせるかのように、歌舞伎人気は徐々に広がっていった。

「今は猿之助(4代目市川猿之助)くんが『ワンピース歌舞伎』をやっていますが、私たちも亡くなった勘三郎兄とシアターコクーンで演ったり、平成中村座とか海外公演とかいろいろやりました。若いといろいろやりたくなるんですよね。通るべき道だと思いますし、その一方で古典を守っていかなきゃいけない。私たちの世代は勘三郎兄と三津五郎(10代目坂東三津五郎)のお兄さんが若手のリーダーでずっと背中を見ていたけど、やっぱり学べるときには学んどかなきゃって思いましたね」

転機はまさに今。いつしか自分が父親と同じ立場に

学びの姿勢は今も変わらない。ベテランの域に達し、大名跡を襲名する至ってもなお、勉強を重ねる日々だという。

「今はオリンピックの時期ですけど(※この取材は8月下旬)、芸には点数も着順もない。小学校のときに藤山寛美先生が大好きで、新橋演舞場でロングラン公演をしていらっしゃったときに、一緒に写真を撮ってもらおうと親父の引き出しからポラロイドカメラを盗んで行ったんです。そうしたら寛美先生、楽屋まで上げて下さって、写真を撮って下さってこうおっしゃったんです。芸っていうのは、自分の一番いいタライに一番いい水を張って、楷書で字を書いているようなもんなんだよって。誰にもわかんないし、自分にしかわかんない。芸ってそういうもんだって。当時は水商売ってことかな?くらいに思ったんだけど(笑)。後になって思えば、正解のない自己満足の世界だとわかりました。だからもがかなきゃいけない」

おそらくこの先も、中村芝翫として、どんどん芸に磨きが掛かっていく。先代やほかの名だたる歌舞伎俳優がそうしてきたように。背中を追う若手が、やがて背中を見られる立場になり、名人になっていく連鎖は、脈々と受け継がれてきた日本芸能の伝統だ。

「中国やなんかの古い故事でいうと、襲名とは衣を重ねるという意味なんですってね。着物を重ねてどんどん大きくなるってことです。父が亡くなり、よき先輩が亡くなったりだとか、自分がいつの間にかその立場にならなきゃいけないときが来ていると感じています」

それは歌舞伎という伝統芸能ではなくても、社会に身を置く人には共通することだろう。誰かの立場を受け継ぎ、振る舞いが追いついていく。とりわけ歌舞伎は、その振る舞いを背中で教わり、次の世代へ背中で教えるもの。たぶんこの先も。なにせ、息子さん3人は、すでに背中を追う側に立っている。

「50といういい歳だし、女房との銀婚式だし、父親が亡くなって5年だし、長男が二十歳になるいろんな節目ですよね。私の人生にとってはだいぶおっきな転機だと思いますよねえ。芝居しかしてこなかったし、うちの親父に学校のこと聞いても答えられるわけない。そのかわり芸については厳しかった。だから私や兄貴は子供には優しいですよ。知らない間に息子たちも歌舞伎の道に進む決意をしてくれたけど…それはきっと、女房が上手に軌道修正してたからかもしれませんね(笑)」

吉州正行=取材・文/林 和也=撮影


※当記事は2016年09月10日に掲載されたものであり、掲載内容はその時点の情報です。時間の経過と共に情報が変化していることもあります。

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