「少女」と「死」のアンバランスな美しさ──映画『少女』レビュー

「少女」と「死」のアンバランスな美しさ──映画『少女』レビュー

映画『少女』公式サイトより。

「もっとも死の近くにいる人間は、老人でも病人でもなく、少女である」

 そんな言葉を聞き、不思議と納得がいったのはいつのことだったろう。

 個人的な感覚かもしれないが、私は少女を見て死の匂いを感じることがある。そしてそれは、とても魅惑的な匂いだ。

 現在公開中の映画『少女』は、そんな少女と死をテーマにしている。

 高校2年のクラスメイト、由紀と敦子。いじめ、老人介護、盗作、2人はそれぞれに問題を抱えている。そんな苦しみの中で、彼女たちは「人の死を見てみたい」という衝動に駆られる。

 由紀を演じた本田翼、敦子役の山本美月、それぞれ24才と25才が、17才の役を演じている。しかし、年齢的な違和感はない。特に本田翼は、テレビでの明るくはつらつとしたイメージを覆し、闇を抱えた少女をうまく演じきっている。リアルタイムでの17才を振り返り、そのありようを俯瞰しているからこそ、できる演技なのかもしれない。

 それにしても一体、彼女たちが抱える「死」への執着は何なのだろう。成人男性の私から見ると、彼女たちはまるで、生と死の間にある海岸線を、波遊びをしながら歩いていくように見える。

「少女」とはつまり、大人になる前の女性である。

 これから「大人」という新しい世界に入るにあたって、その「見えている世界」に絶望し、「見えていない」死の世界に憧憬を抱くのだろうか。

 大人になる前に悩むという点では、男性も同じである。

 しかし、女性が死と向かい合うとき、それは男性のものよりも、より深く、複雑な思いを抱いている気がする。それはなぜか。

 女性は、子どもを生むことによって、「生」を作り出せる存在だからではないだろうか。

 私はよく、「女性を神聖化しすぎる」と指摘されることがある。確かに、その傾向はあるだろう。しかし、やはり女性を特別な存在と考えないと、理屈が通らないことが、世の中には多くあるのだ。

 この映画で少女たちは、ふわふわと迷いながらも、どこか一点を見据え、毅然としている。

 それに比べ、出てくる男たちは、みな情けない。

 人の死を目にしたことを自慢げに話す、由紀の彼氏(真剣佑)、いたずらに夢の素晴らしさを語る国語教師(児嶋一哉)、そして敦子のバイト先に勤務するやる気のなさげな男性(稲垣吾郎)。もちろん、やや極端に描いている部分はあるにせよ、このような男女の差異は確かにあると思われる。女性は男性より現実的で、精神的にもはるかに大人なのだ。

 映画の後半。友情、恋愛、憎しみ、後悔、抑圧、憧憬……さまざまな感情が入り混じる中で、物語は動き、「生と死」の輪郭を浮かび上がらせる。

 もちろん、湊かなえ原作作品ならではの、最後のどんでん返しは待っている。切れ切れの物語が、一本の糸でつながっていく様子は見ていて驚かされる。しかし、やはりこの作品(小説ではなく映画に関して)の本質は、そこではないと思う。

 映画を見てみれば、陰惨な物語の果てに見える、圧倒的な生へのきらめきがある。

「死にます」「死んでください」。今、ネット上にあふれる「死」という言葉。それが、多く広まれば広まるほど、実際の死の重さとの乖離にさいなまれる。この映画は、たやすく死を礼賛するものではない。ともすれば、軽々しく使われがちな言葉の裏にある、本当の死の意味を提示し、生の貴重さ、リアリティを示しているのだ。

 そう、映画とは、結晶なのである。

 人生の喜びや悲しみを凝縮して見せる。

 その結晶の美しさは、その背景にある、広がりと人々の思いの強さによって決まる。

 ある意味、少女と死というのは、普遍的なテーマなのかもしれない。欅坂46のメンバーが出演し、「女子高生と死体」という組み合わせで独自の世界観を描いたドラマ『徳山大五郎を誰が殺したか?』(テレビ東京系)は人気を博し、また来年公開予定の映画『暗黒女子』も、女子高生の死から始まるストーリとなっている。

「少女」と「死」というテーマの親和性、そこから派生する美しさ。それは永遠に変わることなく、私たちを魅了し続けるのだ。
(文=プレヤード)

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