80年代「戦メリ少女」がボウイ・教授・たけし共演の衝撃を回想する 〜『戦場のメリークリスマス』4K修復版上映に寄せて〜

80年代「戦メリ少女」がボウイ・教授・たけし共演の衝撃を回想する 〜『戦場のメリークリスマス』4K修復版上映に寄せて〜
『戦場のメリークリスマス 4K修復版』(c)大島渚プロダクション

■かつて私も“戦メリ少女”だった

1983年(昭和58年)5月28日、ある映画が公開された。『戦場のメリークリスマス』だ。デヴィッド・ボウイ坂本龍一ビートたけしをメインキャストに据えて、『愛のコリーダ』(1976年)の大島渚が映画を撮る。この組み合わせが、どれほど衝撃的だったことか。『戦メリ』は当時の大事件だったのだ。

『戦場のメリークリスマス 4K修復版』(c)大島?プロダクション

そして映画の大ヒットを支えたのは、“戦メリ少女”と呼ばれた女子高生たちだった。戦争映画になぜ女子高生が詰め掛けたのか。その秘密を紐解く今日は、自分語りになるのを許してほしい。そう、私も“戦メリ少女”だったのだ。

『戦場のメリークリスマス 4K修復版』(c)大島?プロダクション

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女子高生にも大人気だったD・ボウイ、坂本龍一、ビートたけし

―その頃、東京・東神田にある高校に通っていた私と友達は、ボウイ、教授、たけしの共演に狂喜乱舞した。中でも、ビートたけしは“タケちゃんマン”(「オレたちひょうきん族」の中のキャラ)全盛期で、日本中を“毒ガス”で席巻していたが、女子高生にもアイドル的な人気があったし、足立区出身の私にとっては地元の英雄でもあった。友達が当時の自宅を突き止めて、こっそり見に行ったこともありました。ごめんなさい。

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ライブでタケちゃん(そう呼んでいた)がロッド・スチュワートの「ホット・レッグス」を歌えばキャーキャー叫ぶし、「ビートたけしのオールナイトニッポン」(以下、ANN)は木曜深夜の放送だったから、金曜朝の授業はいつも居眠りをしていた。『戦メリ』は1982年の夏にニュージーランド自治領ラロトンガ島のジャングルで撮影されたが、その大混乱の様子をたけしがANNで話すのが、めちゃくちゃ面白かった。島からフェイクの国際生中継があったり、トカゲが思うように動いてくれず、大島監督が「そのトカゲはどこの事務所だ!」と言ったという話に大笑いし、撮影中から『戦メリ』はネタの宝庫だった。

『戦場のメリークリスマス 4K修復版』(c)大島?プロダクション

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そしてYMOの“教授”こと坂本龍一。1982年には忌野清志郎とのデュエット「い・け・な・い ルージュマジック」を大ヒットさせて、YMOの中では露出が一番多かった。私と友達はこれまたYMOのファンでもあったし、教授がパーソナリティーをしていたNHK-FMの「サウンドストリート」も毎週聞いていたが、こちらでもクランクイン直前に大島監督がゲストで来たり、教授が撮影の裏話をしたりしていた。前述のANNもそうだが、ラジオで本人たちの口から情報が聞けたこともあり、“戦メリ少女”はどんどん増殖していった。友達が、銀座の音響ハウスで出待ちをして教授に会えたという話を聞くと、羨ましかったものだ。おそらく『戦メリ』のサントラを録音中だったのだろう。

それにしても女子高生の行動力と調査力、ネットワーク力はいつの時代も恐るべきものがある。ついでに言うとこの友達は、1983年秋のデヴィッド・ボウイ来日公演で武道館の天井桟敷からアリーナにいる内田裕也(『戦メリ』にも出演)と連れの松田優作に向かって、紙飛行機を投げつけたりもしていた。怖いもの知らずにも程がある。

憧れの若オジ・アイドル共演!『戦メリ』の衝撃

当時、サブカル女子なんて言葉はまだなかったが、学校帰りにお茶の水の輸入レコードショップに行くような、洋楽や、それに準ずる存在だったYMOが好きなロック少女やテクノ女子は私を含めクラスに数人いて、そうした子にとっては、ボウイ、教授、たけしはある種のアイドル的存在だったのだ。

詳しくいえば、YMOやビートたけしは男子にも非常に人気があったし、彼らに最初に火をつけたのは男子中高生だったと思うが(中学の教室に、YMOのレコードを持ってきて魅力を語る男子がいたのをよく覚えている)、中性的な魅力のボウイは女子人気が圧倒的で、私も大好きだった。

『戦場のメリークリスマス 4K修復版』(c)大島?プロダクション

ボウイはその少し前には日本の焼酎のCMにも出ていたので、お茶の間でも顔は知られた存在だったが、誰もが知る大ヒット曲「レッツ・ダンス」のリリースは1983年になってから。その前のアルバム『スケアリー・モンスターズ』(1980年)は超かっこよかったけども、1982年頃はデュラン・デュラン、ジャパン、ABC(1983年2月の初来日ライブに同級生と行った)といった、ニューウェイブ〜ニューロマンティック系バンドが大人気で、デヴィッド・ボウイはその頂点に君臨する憧れの王子様というか、素敵なオジサマに見えていたのも確か。ボウイはまだ30代半ばだったのだが、こっちは10代だったから致し方ない。

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ちなみにボウイとたけしが1947年1月、教授が1952年の1月生まれだ。たけしがANNで、ボウイを「ちょうどいいタッパ(身長)なんだよね」と言っていて、その後映画を見たり、来日した本人を見た時に、なんて的確な表現だろうと思ったものだ。

そんな、いわば若オジ・アイドルの3人で『愛のコリーダ』(1976年)の大島渚が戦争映画を撮ると言うから、衝撃だったのだ。大島監督は当時よくテレビにも出ていたので顔は知っていたが、まだ映画は観たことがなかった。だが、『愛のコリーダ』が阿部定事件の映画化だということは知っていたし、猟奇的な事件のあらましも聞いたことがあった。本物の阿部定を見たことがある、という人が下町にはまだいた時代だったのだから。

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