実際の幽霊団地事件×集団心理!「死」はなぜ怖い?『N号棟』後藤庸介監督が語る和製フォークホラー!!
2022年04月29日 11時30分 BANGER!!!
■「死ぬ」ことが怖い
貴方は、「死」に恐怖を感じたことはありますか? 僕はあります。死の恐怖は小学校低学年の時に頂点を迎え、母親に「死にたくないから、今、死にたい」などと支離滅裂なことを叫びながら泣きついて困らせたことがある。これを読んでいる貴方も将来、必ず死ぬ。けれど毎日「死ぬのが怖い」などと考えながら生きていたりはしませよね? だって、生きている限り死は避けられることではないから、考えたって仕方がないもの。でも、やっぱり時々考えたりしませんか?「死」ってなんだろう? と。ホラー映画は多くの「死」を恐怖の対象として扱ってきた。単純な苦痛であったり、抗えない呪いであったり、地獄への入り口であったり――。ホラー映画は死によってもたらされる“結果”を明確にすることで恐怖を表現してきたのだ。しかし、映画『N号棟』は、死がもたらす恐怖を明確にすることはない。それどころか生と死の境目を曖昧にし「死とは一体、何なのか?」を考察させ、「死は明確に定義されているものではない」という奇妙な恐ろしさを隆起させる、希有なホラー映画である。■これまでのJホラーとは一線を画す“和製フォークホラー”
「岐阜の幽霊団地事件を元ネタにした映画? どーせ、いつものジャンプスケアなJホラーなんでしょ?」と思って臨んだ本作。結果、自分の和製ホラーに対する態度を心底反省させられることになった。これまでのJホラーとは全く違った作品だったのだ!岐阜の幽霊団地事件といえば、2000年ごろに新聞や雑誌を賑わせた有名な事件だ。空き部屋から音がする、ドアが勝手に開閉する、TVのチャンネルが勝手に切り替わる……さまざまな怪現象が目撃されたのだ。一時は周辺住民を含め大パニックとなったのだが、とある霊媒師がお祓いをしたところ現象は収まったという。当時は、本当の霊現象だの、集団ヒステリーだのとさまざまな考察が飛び交ったが、うやむやのまま事件は風化。当の団地はまだ現存するも、当時を知る住民はおらず、真実は藪の中となった。『N号棟』は、幽霊団地事件の様子を徹底的にデフォルメして描いている。これが異様なのだ。舞台となる団地には間違いなく幽霊が存在しており、住民たちは、幽霊を完全に受け入れている。その一方で、幽霊が正体を現すと大騒ぎしだす。さらに住民たちは何か見えない絆で結ばれており、油断するとその“絆”に巻き込もうとしてくるのだ。「あ、これ、フォークホラーだ」直感的に思った。「フォークホラー」について説明をしていると日が暮れてしまうので、分かりやすい例をあげると『ミッドサマー』(2019年)のようなホラー映画である。要は「独自に積み重ねてきた伝統や風習をもつ土着の人々に翻弄される人々を描いた」ホラーがそれだ。といっても『N号棟』は『ミッドサマー』の真似をしているわけではなく、あくまでフォークホラーの体を成しているというところだ。なんなら『N号棟』の方がフォークホラーっぽい。なぜなら、あらゆる事象を懇切丁寧に説明してくれていた『ミッドサマー』に比べ、『N号棟』は団地の人々は考えていることをほとんど口にしない。彼らにとって常識なのだから、説明することはしないのだ。この点、まさにフォークホラーと言える。■「実際の事件から想起した、集団心理が与える影響」
―『N号棟』は岐阜の幽霊団地を元ネタにしたとのことで、私は普通のJホラーなのかな? と思って拝見したのですが、見事に裏切られました。この和製フォークホラーを製作するにあたって、幽霊団地を元ネタにしたのはなぜでしょうか?単純に興味深かったというのが最初にあります。何十人もの人が同じような現象を目にしたということは、あり得ない現象だったとしても“事実”っぽいじゃないですか。似たような話で、女子高生の集団失神という事件もあって、沖縄ではユタ(※沖縄および奄美群島の民間霊媒師)に祓ってもらうしかないとなって、祓ってもらったということもあったでしょう?―幽霊団地も実際に霊能力者に祓ってもらって、一段落したという事実もありますね。そうそう。とはいえ、お芝居をしていた人もいるかもしれませんよね。でも、絶対に霊現象に直面した人や失神した人はいたはずで。じゃあ、その不思議な現象ってなんなの? と考えた時、集団心理が与える影響を思いついたんです。―人が集まることで発生する思念的なものの怖さに焦点をあてたかったと。集団思考が与える不思議な何か、みたいな。それが確実に恐ろしいものとして存在すると思ったんです。■「死への恐怖を持ち続けていると、ちゃんと生きることができない」
―怪談話然とした雰囲気から集団心理の恐怖、いわゆるフォークホラーへと変貌していく『N号棟』のストーリー構造に異様なものを感じています。脚本を書くにあたって、監督はどのような考えで物語を構築していったのですか?これが僕自身、すごく不安な要素で……。やっぱり物語を作ろうとした時、起承転結を分かりやすくするとか、感情移入させるキャラクターとか、脚本術のセオリーを使いたくなるじゃないですか。でもそういうことをやると、リアリティってどんどん失われていくと思うんですよ。―予定調和な話にしたくない?そうです。「ああ、よくできた話だねぇ!」と言われる作品にはしたくないなと。とはいえ、100分という時間をお客さんからいただいて、楽しませなきゃいけないわけで。―ジレンマですね。フィクションとリアリティの狭間を彷徨うような映画の方法論って、ないんですよ。だから感覚でやってしまったんです。普段だったら絶対やらないようなことも、どんどんやってしまおうと。■「怖い/わからないをゴリゴリに煮詰めて、無軌道な物語を紡いでいければ」
―史織に比べて、啓太と真帆は信念がない人間に見えます。この2人の性格づけについては意味はありますか?信念がないわけではないんですよ。僕の中で、彼らは至極普通の幸せな人々。人の気持ちがわかるし、信じることができて、死の恐怖に悩まされることもなく、自分の人生を肯定できている。上手く生きているんです。史織の生き急ぎ方と比べてしまうと、信念がないように見えてしまうかもしれませんが……。―とはいえ、史織とズルズルと関係を続けている啓太の不誠実さも目につきます。真帆はそれでいいのか? と思ってしまうのですが。2人は“良い人”なんです。性善説で生きていける人々なんですね。啓太が史織と仲良くしていようが別に構わない。自分には家族もいるし、啓太がいなくても生きていけるし、どうせ彼は私のところに戻ってくるだろうと。―ところが、あの団地に足を踏み入れたことで、「いい人」だった真帆は狂ってしまうと。あの団地は独特な雰囲気がありますが、何かモチーフとされた映画はありますか?特にないんですよ。集団心理映画というと『ミッドサマー』とかがありましたし、団地ホラーというと『仄暗い水の底から』(2001年)もありましたが……。まず最初に、狭い枠の中に同じ窓や部屋がビッシリ並んでいるという画を撮ってみたかったんですよね。
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