歴史的悪妻なのか?『チャイコフスキーの妻(仮)』セレブレニコフ監督作【カンヌ映画祭レポート】

歴史的悪妻なのか?『チャイコフスキーの妻(仮)』セレブレニコフ監督作【カンヌ映画祭レポート】
『チャイコフスキーズ・ワイフ(英題) 』キリル・セレブレニコフ監督

■ロシアを出て遂にカンヌ記者会見に登場!キリル・セレブレニコフ監督

『LETO -レト-』(2018)『インフル病みのペトロフ家』(2021)とコンペティションに選ばれながらもカンヌ入りがかなわなかったキリル・セレブレニコフ監督。プーチン政権に批判的なパフォーマンスを行っていたセレブレニコフ監督は政権に睨まれており、演劇に関する助成金を横領したなどの名目で拘束されていたためだ。拘束が解けて撮影したのが『インフル病みのペトロフ家』だったが、再拘束の不安の中ゲリラ的な撮影で完成させたという。そしてとうとう国を出ることを決意。学生時代からの付き合いという個人的な資金を提供するロシアの会社キノプライムに加え海外資本も得て完成させたのが今回の『チャイコフスキーの妻(仮)』で、これでやっとカンヌ映画祭の記者会見に登場することができた、というわけだ。

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時あたかもウクライナへのロシア侵攻の真っ最中。ロシアの代表団、簡単に言えばロシア映画を売り込むためのパビリオン出展などを拒否したカンヌ映画祭だが、作家としてのセレブレニコフ作品は擁護、反プーチン・反政権なら作家は受け入れるというスタンスを明らかにした。セレブレニコフ監督は言う。「ロシア文化はもともと反戦的な主張を持ってきた。人間の壊れやすさを描いてきたものだ。そんな文化、音楽・文学・演劇・映画などをボイコットすべきではない。批判すべき、ボイコットすべきなのは帝国主義なのだ。文化というものは水や空気と同じように人間になくてはならないものだと思う。」人間をないがしろにする権力を擁護するプロパガンダは批判されるべきだが、という彼の主張には頷ける。そして今回の『チャイコフスキーの妻(仮)』はまさに帝国主義ロシアが崩壊に向かう19世紀末を舞台にした作品なのである。

■チャイコフスキーはなぜ結婚したのか。孤独と夢

物語はタイトル通りロシアの国民的作曲家チャイコフスキーの妻の物語。シェイクスピアの妻と同じく「歴史的悪妻」という汚名を着せられたアントニナの物語である。国民的人気を若くして獲得した作曲家であったチャイコフスキーが37歳にして突然結婚したアントニナ。資産家の娘であり、作曲の勉強もしていたという女性で、彼女の方から熱烈な求婚をして結婚したという史実がある。しかしチャイコフスキーがなぜ彼女の求婚を受け入れたかは明らかになっていない。セレブレニコフはそのあたりから作家的想像を膨らませていく。原作は2014年に書かれた小説。それを脚本化し映画にしていった。

「チャイコフスキーはロシア文化の宝のひとつ。波乱に満ちた人生を送った人物と知られているが、その孤独や夢、芸術家とはなにかという悩みについて描かれた物語はなかったと思う。人間的にいろいろな問題を抱えた人物だったようだがそのあたりも触れられたことはほとんどないだろう」

アントニナとの突然の結婚も、“経済的な問題を解決するため、彼女の相続財産を当てにした” “同性愛を隠すためだった”などの説がある。結婚してまもなく破綻した理由をセレブレニコフは“当てにしていた財産が手に入らなかった” “妻として性的にも関係を迫ったアントニナを拒絶した”からではないかと解釈する。いずれも「国民的芸術家」チャイコフスキーのイメージを破壊する解釈ではある。

「チャイコフスキーがロシア文化の魂であることは否定しない。彼のセンシビリティや情熱を映画に生かしながら、彼らが生きた19世紀というものを現代に照らし合わせて問いかけてみようと思った。19世紀はロシア文化にとって重要な時代だった。音楽・演劇・文学、チャイコフスキー・チェーホフ・ドストエフスキー……。そのユニバースは現在のロシアに続いているし、世界的に重要視されているものだ。それを現在に読み直す試みといっていいだろう。そのために映画はクロノジカルに撮影していった。チャイコフスキーの何十年かに渡る人生を妻の視点と時間で、その変化を描いていった。」現代を舞台にしたこれまでの出品作と違い本作は歴史物である。美術や衣装などはリアルな歴史物として作られており、『戦争と平和』などかつての文芸大作を思わせる重厚なものである。

■19世紀の女性の一生

しかし、そこに描き出される世界は、女性が自らの才能を生かして自立することが許されなかった時代に、天才音楽家を支えることで、家族の中でつまはじきにされる存在である自分を承認しようとして破滅に向かう強い個性を持った女性の一生だ。これまでのかなりトリッキーな表現を抑え、オーソドックスにも見える手法でとりくまれた本作は新しいセレブレニコフの誕生を思わせる作品になっている。文:まつかわゆま

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