皆が「いい人」では居られない現代社会に問う『リチャード・ジュエル』

皆が「いい人」では居られない現代社会に問う『リチャード・ジュエル』
『リチャード・ジュエル』© 2019 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

■名匠クリント・イーストウッド監督が手掛けた衝撃的実話
【惹句師・関根忠郎の映画一刀両断】

今から20数年前になる1996年7月27日、米アトランタで起きた爆破テロ事件を題材に、記念すべき監督40作目の映画として、クリント・イーストウッドが大いなる自信を以って世界に投げかけた最新作は、またしても衝撃的な実話だった。実話と言えば、すぐに我々の脳裏に浮かぶのは、ここ10年余でも『チェンジリング』(2008年)を始め、『アメリカン・スナイパー』(2014年)、『ハドソン川の奇跡』(2016年)、『15時17分、パリ行き』(2018年)等のイーストウッド作品があり、すべて記憶に新しい鮮烈な傑作揃い。2020年5月には90歳を迎えようとしているにも関わらず、その驚異的な創作活動とエネルギーには感嘆する他ない。

『リチャード・ジュエル』© 2019 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

冒頭から思わず映画界の世界的至宝たる<監督クリント・イーストウッド>本人の現況に関心が走ってしまったが、本作が物語るのはアトランタで実際に起きた爆破テロ事件にある。しかし、本題は事件そのものではなく、第一発見者である善良な“市井の警備員”が、俄かに“英雄”に祭り上げられて、その挙げ句に一転して事件の“容疑者”にされるという、思いも寄らない不条理悲劇そのものに据えられている。

『リチャード・ジュエル』© 2019 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

爆破テロは折しもアトランタ・オリンピック開催期間中に、市の公園で行われていた音楽イベント会場で起きた。会場で警備に当たっていたリチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)が、ふと暗がりのベンチの下に見慣れぬ不審物(バックパック)を発見。率先していち早くそこから多くの観衆を避難させ、未然に多くの人命を救った。それで彼は社会的に一躍英雄視されることになったのだが、やがてFBI(連邦捜査局)が「リチャード本人を第一容疑者として捜査している」という実名報道がメディアに出るに及んで一転。彼を悲劇のどん底に突き落とすことになった。

『リチャード・ジュエル』© 2019 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

■英雄から容疑者へ暗転! どうするリチャード・ジュエル!?

大スクープを虎視眈々として狙うメディアの過熱報道と捜査当局FBIの権力による執拗な追求によって、ひとたび民衆のヒーローから憎むべき“爆弾犯”に落とし込まれたリチャードは、エキセントリックな大衆の盲信と社会的憎悪をも浴びて孤立無援に。しかし、これら三者に真実の確固たる根拠があるのかどうか実に疑わしい。名もなく無力で善良な、愛すべき一市民リチャードは、この過酷な状況から果たして脱出できるのか!

『リチャード・ジュエル』© 2019 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

地獄に仏。唯一、リチャードの味方が出現。それが無謀なまでに大胆不敵な弁護士ワトソン・ブライアント(サム・ロックウェル)だった。そしてもう一人、リチャードの母・ボビ(キャシー・ベイツ)。母親はあくまでも息子の無実を信じ、ワトソンと共に国家権力、メディア、世論という巨大な敵に立ち向かっていく。そのサスペンスフルな展開は、優れた脚本(ビリー・レイ)を得た名匠クリント・イーストウッドの底光りする格調ある演出によって、これぞ映画の醍醐味といった感触を思う存分に堪能できる。

『リチャード・ジュエル』© 2019 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

全篇、淡々としたタッチを尊守しながら、ここぞというポイントで人間感情の劇的な局面を、それぞれの演技陣から見事に引き出す手腕を発揮。一見オーソドックスな映画展開を貫いていながら、見事な強弱アクセントを付けて見る者を飽きさせない。熟練と滋味の極みだ。人間的真実と名誉を求めて共闘するリチャード、ワトソン、ボビの逆転への道のりが、ここまで感動深く味わえるのは並じゃない。それにしても後半のポール、サム、キャシーの存在感に溢れた芝居場(感情の応酬)は、優れた映画演技の魅力を味わうにはもってこいである。信じ合う人間たちの共闘は、見ていて清々しく感銘を誘う。苦渋からの脱出のプロセスの見応えにワクワクする。

『リチャード・ジュエル』© 2019 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

■自分を陥れたFBI捜査に協力する容疑者リチャードの内なる真実

本作の主人公リチャード・ジュエルを見ていると、つくづく「人間の善良さ」とは如何なるものか、と考え込まなくてはいられなくなる。実在の人物リチャードは、もともと警察官志望の青年であったようだ。善良で純朴な彼は、法を遵守し市民の安全を守りたいという思いから、将来は警官になろうと考えていたという。心底、無私の普通の人間だった。その彼がまさかFBIや警察などの捜査機関、法の執行機関によって塗炭の苦しみを味わうことになろうとは!

『リチャード・ジュエル』© 2019 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

そして、それでもなおリチャードは声高に怒りをぶつけることなく、自身を苛むFBIの捜査進行に協力さえ惜しまない純粋無垢。こんなシークエンスを見ながら一驚させられたものだが、その一方では成程と得心するところがあった。それは彼の内なる真実の在りか、“自身の潔白”によって成立する。他者がどう思おうと、己れの規範に忠実であろうとする彼の持って生まれた本性、節度が痛く感じられて胸を突かれる思いがする。

『リチャード・ジュエル』© 2019 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

■皆が「いい人」ではいられなくなっている現代社会の危うさ

この「アトランタ爆破事件」は今から4半世紀以前のこととはいえ、この辺りからIT関連のハイ・テクノロジー化は顕著だ。無限に情報化社会が膨れ上がり始め、今日の世界状況に至っているのは周知の通り。結果、真偽入り乱れての情報が充満し、今を生きる人々は否応もなく翻弄され、混乱し、個々の座標軸を見失いつつ日々を送っているようだ。ある者はフェイク・ニューズやヘイトに満ちた中傷記事やらに踊らされ、あちこちで紛争、小競り合いを引き起こしている。例えば都会を往く人々の多くは、みな善人でありたいと思いつつ、皆が皆、「いい人」ではいられなくなる社会状況の危うさに身を浸している。これは否み切れないのではないか。雑踏の中で、しきりにそんな思いに駆られるときがある。互いの人生に思いを馳せることもなく、人はスマホを手に手に大都会を駆け巡る。

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思いもよらずリチャード・ジュエルが遭遇した爆破事件。そして、その誤報による彼の人生の暗転は今日、決して他人事ではない。FBI情報を鵜呑みにして、根拠の薄いスクープを放った女性記者キャシー(オリヴィア・ワイルド)が、弁護士ワトソンの仕立てた記者会見場で、「息子を助けて!」と涙ながらに切々と訴えるリチャードの母親、ボビの言葉に胸を衝かれ、多くの聴衆の中でしきりに涙を拭う秀逸なロング・ショット(実はこの撮影には6時間を費やしたという)には、観客の一人として思いがけない安堵と共感の念を覚えた。不確かな記事で取り返しのつかないことを為してしまった記者の泣き顔クローズアップの凡庸な表現を避けたのは、名匠クリント・イーストウッドのセンスの良さか。ここはあくまでもロング・ショットでなければならないと思った。

『リチャード・ジュエル』© 2019 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

今後もソーシャル・メディア等の終わりなき発展により、さらにさらに真偽の見分けのつかない情報が氾濫する現代社会の行く手には、何が待ち受けていることだろうか。リチャード・ジュエルの悲劇は今日、明日を問わず何時でも起こり得る。老巨匠クリント・イーストウッドが積み上げた数々の明快なショットを見つめ、私たち観客はそのサスペンスフルな映画感覚を楽しみながらも、彼が真摯に打ち鳴らす警鐘にじっくり耳を傾けたいと思う。

『リチャード・ジュエル』© 2019 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

文:関根忠郎

『リチャード・ジュエル』は2020年1月17日(金)より全国ロードショー

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