実在したシリアルキラーの殺人行脚を淡々ドライに描いた犯罪映画史に残る傑作『復讐するは我にあり』

実在したシリアルキラーの殺人行脚を淡々ドライに描いた犯罪映画史に残る傑作『復讐するは我にあり』
『あの頃映画 the BEST 松竹ブルーレイ・コレクション 復讐するは我にあり』
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発売・販売元:松竹
価格:Blu-ray ¥3,300+税
© 1979 松竹株式会社・株式会社今村プロダクション

■直木賞受賞作を今村昌平が映画化! 殺人鬼を演じるのは緒形拳!!

映画の世界には、数々のシリアル・キラー・スターがいる。レザーフェイス、マイケル・マイヤーズ、ハンニバル・レクター……。彼らのような架空の存在だけでなく、現実の世界でも連続殺人鬼には奇妙なスター性やカリスマ性がくっついて回ることがある。

30人以上を殺害したシリアルキラー界のスーパープリンス、テッド・バンディは獄中で何百通というファンレターをもらっていたという。そうした実在の殺人鬼をモデルにした映画も枚挙にいとまがない。エド・ゲイン、ジェフリー・ダーマー、フリッツ・ホンカ、ゾディアック……。そして日本には、西口彰がいる。

1963年10月から翌年にかけての78日間、12万人にも及ぶ警察の捜査網をかいくぐり、殺人と詐欺を繰り返しながら福岡から北海道まで日本中を這い回り、最終的に5人の命を奪った稀代の殺人鬼・西口彰の凶行を小説化し第74回直木賞を受賞したのが、佐木隆三の「復讐するは我にあり」(1976年刊)であった。この小説の映画化に深作欣二はじめ複数の監督が名乗りをあげたが、最終的に監督の座を射止めたのは今村昌平だった。

映画『復讐するは我にあり』(1979年)は、今村が10年ぶりにメガホンを取った“カムバック作”でもあった。西口彰をモデルとした主人公・榎津巌(えのきづいわお)を演じたのは緒形拳。今村監督は、実際の殺害現場となったアパートで殺人シーンを撮影するなど徹底して血の通うようなリアリズムを追求し、映画は徹頭徹尾おそろしいほどのエネルギーに満ちた作品となった。本作は1979年に公開されると興行的にも批評的にも成功し、日本犯罪映画史における金字塔を打ち立てた。

■殺人鬼への批判的・同情的な視点を一切廃した淡々とドライな演出

緒形拳が演じる榎津巌には、人を殺すことに対する躊躇もなければ、後悔も、しかし喜びや快楽もない。いわゆる殺人を犯す心理的葛藤など描かれず、まるで最初からそう決まっていたかのように、それが避けられぬ自分の仕事であるかのように、巌は金目当ての殺人を重ねていく。いわゆる「サイコパス」「ソシオパス」であり、良心の箍(たが)が一切機能しない。それに対比するように描かれるのは、敬虔なクリスチャンであり、欲望を抱えながらそれを押し殺して生きてきた父親・榎津鎮雄である。演じるのは三國連太郎。緒形と三國の二大名優が演じる親子間で翻弄される巌の妻を倍賞美津子が艶っぽく幸薄く演じ、今村映画の常連たちによる凄まじい演技の応酬を目の当たりに出来る。また、巌が立ち寄る旅館の女将を演じる小川真由美も印象的だ。巌に愛情を示すこの女性の存在こそが、すでに正常には戻れない巌の狂気を際立たせる役割を果たしていることは特筆しておきたい。

映画全体を覆う空気は荒涼としていて、背筋が寒くなるような乾いた冷気を放っている。そこには榎津巌に対しての批判的な目線も、もちろん同情的な目線もない。ただ、そう決まっていたかのように、それが避けられぬ自分の仕事であるかのように、映画はただ事実を並べ淡々と進んでいく。そこで知って欲しいのが、「復讐するは我にあり」の主語はどこにあるのか、ということだ。

新約聖書に登場するこの一節における「我」とは、榎津でも被害者でも監督でも観客でもなく「神」のことである。人の罪を裁き「復讐する」のは人間でなく、神の役割だと言っているのだ。人間である我々ができることは事実を並べることだけであり、榎津巌(=西口彰)を評価し断罪し復讐することなどできるはずがない。だからこそ、小説も映画も、榎津巌という悪魔のような男に対しての主観的な視点を排しているのだ。

薄ら寒いヒューマニズムも、奇をてらった悪への礼賛も削ぎ落とした、ひたすらドライなその切り口。その冷徹さゆえに『復讐するは我にあり』は、映画史に残る傑作になったのだと思う。

文:タカハシヒョウリ

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