「2番を目指せ」 木下ほうかの胸に残る島田紳助からの助言

「2番を目指せ」 木下ほうかの胸に残る島田紳助からの助言

「こうして役者をしていられるのは紳助さんのおかげ」と語る木下ほうかさん(右)/(C)日刊ゲンダイ

 遅咲き俳優、木下ほうかさん(53)は今や名バイプレーヤーとしてドラマや映画で大活躍。下積み時代に的確なアドバイスを与えて励ましてくれたのが島田紳助さん(61)だ。

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「役者をやりたいんやったら、やっぱ東京行かなあかんやろ?」

 1989年の正月。当時、吉本新喜劇の若手俳優だった僕は、大阪・江坂にあった紳助さんのご自宅にお邪魔して、問われるまでもなく、将来への不安と悩みを話してました。そうしたら返ってきたのがこの一言だったんです。

 俳優になりたくて大阪芸大舞台芸術学科を卒業し、吉本興業に入社。新喜劇に配属されたものの、3年経っても、役作りで納得できないことが多くてね。食えなくはないけど、このままじゃ……と忸怩たる思いをずっと持っていました。そんな時でしたからスッパリと踏ん切りがつき、6月に上京。目黒区祐天寺のアパートに住みながらオーディションを受ける日々が始まりました。

 紳助さんと知り合ったのは、漫才ブームで大ブレークしていた紳助・竜介コンビが主役の井筒和幸監督作品「ガキ帝国」(81年)です。高校生の僕は端役でしたけど、ロケ中も公開後も目をかけてくれて子分みたいにいつもくっついてました。大学進学で一時疎遠になりましたが、新喜劇の役者になって付き合いが復活。大東市の実家から暇さえあれば江坂へ通い、あれこれ面倒を見てもらってたわけです。

■別宅マンションでふるまってくれた玄人はだしの手料理

 ただ、いざ上京してもすぐに役者の仕事があるわけがない。いろんなアルバイトもしましたが、夜になると晩飯にありつくため、スクーターで10分ちょいの恵比寿にあった紳助さんの別宅マンションへ。

 紳助さんは仕事を終えると用事がない限りはまっすぐ帰宅して手料理を作っていたのですが、腕前は玄人はだし。おいしくてガッツリ食べられるのでご相伴にあずかっていたんです。他にもお笑いやボクサー、バイクレーサーなど紳助さんの仕事や趣味の関係の“卵”とか下積みしてる連中が毎日来てました。

 そこでは僕らは食後の洗いものをするだけ。食事をいただきながら、将来の夢やそれに向けてどうしたらいいのか? という話で盛り上がるのですが、紳助さんのコメントは今も胸に残ってます。

「1番にならんでエエねん。2番でおったらまだ上があるけど、1番になったら、あとは落ちるだけやん」「3番でも4番でもエエ。2番を目指せ。2番の方が継続できる」「ピッチャーとかサードはなりたいヤツがよーけおるんやから、ライトでいこや。レギュラーになりやすいで」……。

 現在の自分のポジション、そして5年後、10年後、20年後はどんな役者になっていてその時のライバルは誰や? 紳助さんに言われ、こんなシミュレーションをしてノートに書き出したりもしましたねえ。演技論ではなく、マーケティングというか、セルフプロデュースの分析や手法、どうやったら役者として食えるか? といった戦略的な話題が多くて、「役者はうまい下手より、そいつにしかできひん芝居せなあかん」という言葉は、今もすごく役に立ってます。

■「引退してから一番うれしかった」

 かといって、ご自分が司会をされてる番組に呼んでくれるとかは一切なかった。いくら友人、知人でもそこは厳しい。「実力で取りに来い」という姿勢は変わらなかったですね。そんな生活が7年ほど続き、少しずつ仕事が増えてきだした30代の半ばぐらいから別宅への足が遠のいてました。

 久しぶりにお会いしたのは7年前。引退の前年です。まだ飛ぶ鳥を落とす勢いの時期で、以前は飲めなかったお酒をたしなむようになり、「いつか喫茶店のマスターしたいねん」と言うてたのが印象的でした。そして11年8月に引退。いろんな事情があったんでしょうからこちらから電話をすることもなかったのですが、年が明けて電話をいただいたんです。

「俺は今、テレビは見てへんけど、おまええらい売れてるらしいな。引退してからそのニュース聞いて一番うれしかった」

 感激しました、そう言っていただいて。「復帰はありえへん」とも言うてましたから、もう共演することはないのかもしれません。でも、こうして役者をしていられるのは紳助さんのおかげ。まさに恩人です。

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