常連の坂本龍一さんは音大女子学生のリポート代筆で大人気【ロフト創業者が見たライブハウス50年】

常連の坂本龍一さんは音大女子学生のリポート代筆で大人気【ロフト創業者が見たライブハウス50年】

(提供写真)

【ロフト創業者が見たライブハウス50年】#3

 1971年に東京・京王線の千歳烏山駅近くに50〜60枚ほどのレコードを頼りに7坪の小さなジャズスナックを開いた。

 ジャズの名前につられて多くの若者がやって来た。店に4チャンネルのスピーカーを入れたとはいえ、ジャズ喫茶とは名ばかりの貧相さに同情してくれ、手持ちのレコードを持ち寄ってくれた。

 その中にロックやフォークのレコードもまじっていた。彼らからロックやフォークの音楽を教わることになった。一番最初にぶっ飛んだのは、ピンク・フロイドの「原子心母」、エマーソン・レイク&パーマーの「展覧会の絵」だった。

「ロックって面白い!」「本当にすごい!」と心の底から思った。さらに若き友人たちは浅川マキや三上寛、友部正人や高田渡といった日本のフォークを聞かせてくれた。

 70年代に入り、日本のロックに大革命が起きようとしていた。それまで日本のロックは、大御所の内田裕也さんの「我々のロックは英語で歌わねばならない。なぜなら我々は世界を目指しているからだ」という言葉に縛られていた。ロックを愛する演奏家たちは、コピーに甘んじていたのだ。

 そこに突然、現れたのが「日本語でロックを表現して何が悪い」と開き直ったグループ<はっぴいえんど>である。1972年に解散したが、刺激された日本語ロッカーが続々と現れ始めた。

 千歳烏山の小さな音楽スナックに集った若者たちは毎晩、酒を飲みながら口角泡を飛ばして議論を戦わせた。いつも店に置いた「落書き帳」が議論の発火点だった。

 これはNHKの朝ドラの主題にもなった。

■ギャラは水割り1杯

 常連メンバーは多士済々。店の近所に音大や芝居の稽古場があり、東京芸大大学院に通っていた坂本龍一さんは、音大の女子大生のリポートを1杯の水割りと交換にスラスラと書き上げて人気があった。平凡パンチなどで署名原稿を書いていた生江有二さんのレポは圧巻だった。彼が落書き帳に書き記したレポを読みに来るお客さんもたくさんいた。<最後の全共闘>と言われた明大の二木啓孝さんの姿も、毎夜のように見られた。

 あの時代、ロックが聴けるのは、日比谷の野音で開催されるフェスティバルぐらいのもの。どうしても、表現者たちのロックやフォークの生演奏が聴きたくなった。でも東京にもライブハウスなんて一軒もなかった。

「よし! 2軒目の店はライブができる店をつくろう」。私は決意した。

(平野悠/「ロフト」創業者)

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