石原プロ58年歴史に幕「軍団DNA」は不滅誓う

石原プロ58年歴史に幕「軍団DNA」は不滅誓う

終業する石原プロモーションの商号と、石原裕次郎さん(左)渡哲也さんの写真

昭和の大スター石原裕次郎さん(享年52)が立ち上げた石原プロモーションが16日、58年の歴史に幕を下ろした。

この日、商号を記した看板が裕次郎さんの仏前に返還され、2代目社長だった渡哲也さん(享年78)の墓前にも返還報告がなされた。東京・調布の同プロでは、舘ひろし(70)ら所属俳優が終業を見届けるとともに「石原軍団DNA」の不滅を誓った。

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石原プロモーション事務所には、商号を記した看板と、裕次郎さん、渡さんの写真が飾られた。専務の浅野謙治郎氏が商号返還と終業を宣言し、スタッフと俳優らが厳かに礼をした。

舘は「いざ閉めるとなるとさびしいな」とぽつり。2人の写真を見て「思い出が走馬灯のようにいっぱい湧き上がってきます。2人に対して本当に感謝です。今あるのは、石原さんが大きく包み込んでくれたのと、渡さんのおかげ」と話した。神田正輝(70)はこの日、大阪でテレビ朝日系「朝だ! 生です旅サラダ」の生出演のため出席できなかったが、舘は「同じ気持ちだと思う」と代弁した。

裕次郎さんは63年、大手映画会社が監督、俳優の専属契約に関して結んでいた「五社協定」の枠を超えて映画作りをするため、石原プロを立ち上げた。1月16日は会社として登記された日に当たる。

87年に亡くなった裕次郎さんは、まき子夫人に会社を畳むよう遺言していたが、社員や俳優の生活を守るため、渡さんが2代目社長を引き継いだ。11年に渡さんは社長を勇退したが、会長のまき子夫人とともに会社を支え続けた。

危機は何度もあった。大規模な映画製作で8億円の負債を抱えた時はドラマ制作にかじを切り、「西部警察」など大ヒット作を生んだ。03年には同作の新シリーズ撮影中、自動車事故で見学中のファンがけがを負った。渡さんは制作中止を即断、同プロ解散も考えた。当時、車を運転していた池田努(42)は「切られておかしくない状況でしたが、今日ここにいられるのは、温かく家族のように守ってくれた会社、先輩たちのおかげで、感謝の気持ちでいっぱいです」と話した。舘も「誰一人として責める人がいなかった」と振り返り、徳重聡(42)も「ピンチから立ち直るすごさがあった」と話した。

石原プロモーションの名前はなくなるが、舘は「(裕次郎さんと渡さん)2人のDNAが残っているのをあらためて感じています。1つ屋根の下で一緒に飯を食ってきた」と見回した。

今後、3月いっぱい残務整理などを行い、12月に清算完了する。【小林千穂】

○…商号を記した看板は、浅野氏の手で、東京・成城の裕次郎さんの自宅に運ばれ仏壇に供えられた。まき子夫人は「来る時が来ましたね」と穏やかだったという。まき子夫人は今後、裕次郎さんに関する版権を管理する石原音楽出版、一般社団法人ISHIHARAの名誉会長を務める。「命ある限り裕次郎の名前を守っていきます」と話している。看板は成城に向かう前に渡さんの自宅に寄り、商号返還が報告された。

<石原プロモーションの歩み>

▼1962年12月27日 石原裕次郎さん、会社設立会見

▼63年1月16日 虎ノ門を事務所に登記。裕次郎さん社長、社員9人

▼同10月 映画第1弾「太平洋ひとりぼっち」公開

▼64年 三船プロダクションとの提携発表

▼68年2月 映画「黒部の太陽」公開。観客動員733万人

▼69年7月 映画「栄光への5000キロ」公開

▼70年 映画「富士山頂」「ある兵士の賭け」公開。「ある兵士−」が興行的に失敗、倒産危機に。裕次郎さん宝酒造CM初出演

▼72年 渡哲也さん入社。日本テレビ系「太陽にほえろ!」スタート

▼73年 神田正輝入社。調布に事務所移転

▼76年 1月、初の制作ドラマ、日本テレビ系「大都会 闘いの日々」開始

▼79年 10月、テレビ朝日系「西部警察」開始

▼81年4月 裕次郎さん、解離性大動脈瘤(りゅう)破裂で入院、手術

▼83年 舘ひろし入社。創立20周年パーティー

▼84年 裕次郎さん肝臓がんと診断。ハワイ静養

▼87年7月17日 裕次郎さん死去。3カ月後、渡さん社長に就任

▼88年12月 日刊スポーツ映画大賞/石原裕次郎賞が始まる

▼91年 6月、渡さん直腸がんで手術。7月、小樽市に石原裕次郎記念館開館

▼95年2月 阪神・淡路大震災被災地で炊き出し

▼99年7月 総持寺で裕次郎さん十三回忌法要

▼00年8月 「21世紀の石原裕次郎を探せ!」オーディション。徳重聡がグランプリ

▼09年7月 国立競技場で二十三回忌法要

▼11年 3月、渡さん社長勇退。4月、東日本大震災被災地で炊き出し

▼13年 設立50周年

▼16年6月 熊本地震被災地で炊き出し

▼17年8月 石原裕次郎記念館閉館

▼19年7月 三十三回忌で弔い上げ

▼20年8月 渡さん死去

▼21年1月16日 裕次郎さん仏前に商号返還

<数字で見る石原プロモーション>

▼放水量420トン 映画「黒部の太陽」撮影での出水場面シーン。裕次郎さんは失神、親指骨折、大腿(だいたい)部打撲

▼見舞客1万2000人、千羽鶴1000束 81年、裕次郎さんが解離性大動脈瘤(りゅう)破裂での入院時

▼車両約4680台爆破、建物320軒破壊 テレビ朝日系「西部警察」の撮影で

▼20万人 99年、鶴見・総持寺での裕次郎さん十三回忌に集まったファン

▼11万6862人 09年、国立競技場で行った裕次郎さん二十三回忌法要の参列者

▼7日間で1万4000食 11年、宮城県石巻市での炊き出しで提供

▼2000万人 小樽の石原裕次郎記念館(91〜17年)の来館者数

▼102作と88作 裕次郎さんと渡さんが出演した映画