立川談志と芸能人になった娘A【しあわせの基準ー私のパパは立川談志ー 第十五回】

松岡ゆみこ氏の結婚式に出席した時の立川談志師匠

天才、奇才、破天荒......そんな言葉だけで言い表すことのできない、まさに唯一無二の落語家・立川談志。2011年11月、喉頭がんでこの世を去った。高座にはじまりテレビに書籍、政治まで、あらゆる分野で才能を見せてきたが、家庭では父としてどんな一面があったのか? 娘・松岡ゆみこが、いままで語られることのなかった「父としての立川談志」の知られざるエピソードを書き下ろす。

芸能界で問題を起こし、父の談志師匠に助けをもとめたゆみこ氏。父に助けられ、そして振り回される立川談志一家のあまりに濃すぎる日々。

 * * *

仕事も忙しくなっていたが、私は夜遊びも彼とのデートも減らさなかった。

ラジオの生放送中に電話がかかって来て飛び起き、遅刻して番組に行った事もある。とにかくだらしなかった。

そうこうしているある日、不倫相手の奥さんが私のマンションに怒鳴り込んできた。そして私と彼はホテルを点々とすることになり、駆け落ち状態になった。そして私は仕事を全部すっぽかした。自分が出演するべきTBSの生放送をホテルで見ていたら、毒蝮三太夫さんと片岡鶴太郎さんが「まことー、帰ってこーい!」とカンペを持って映っていた。スターどっきりマル秘報告のロケも、レポーターの私が行かなかった。

携帯電話もまだなくて、事務所もマネージャーも私と連絡が取れず、とうとう庇いきれなくなり「松岡まこと引退」を発表した。この新聞記事を、たまたま家の隣の喫茶店で見た。新聞の1面に乗っている自分の顔と記事を見て、思わず新聞で顔を隠した。あまりに馬鹿過ぎてお恥ずかしい限りだが、その時やっと大変な事をやってしまった!と気がついた。そして、怖くなった。

すぐ実家に駆け込んで、「パパは?!」と母に尋ね、父に電話をかけた。どんなに怒られようが怒鳴られようが、もう頼りは父しかいなかった。「もしもし、パパ! 本当にごめんなさい。大変なことをしてしまいました」。経緯を話すと父は「ようし、わかった。お前は何も心配するな、俺が戦ってやる!」と予想もしなかったことを力強く言ってくれた。父はこうも言った「彼と別れなさい。相手の家族に迷惑がかかるから」と。私は生まれて初めて「パパカッコいい! パパありがとう!」と心底思った。

数日後、父はたった1人で私の引退記者会見を開いた。「うちの娘は頭がいいから、芸能界のウソを見抜いたんだと思います」。父は胸を張ってそう言った。この親にしてこの子あり、マスコミの方もドン引きしただろう。大勢の方々に多大なご迷惑をかけまくった私は、みんなにお詫びに行くこともしなかった。「談志の娘はしょうもない奴」というレッテルを、自分で貼っってしまった。

だけど、その頃の私を父はもう叱らなくなっていた。バカな娘でもひとりの大人として接してくれていたのだと思う。私は一人暮らしをしていたが、父とよく旅行にも行き、仲は良かった。

私は27才で、長い間不倫をしていた彼と結婚することになった。理由は、彼が離婚したことと、母が子宮がんで半年ほど入院したからだった。母が元気なうちに花嫁姿を見せようと、月並みな発想から結婚式をすることにした。

父は自称「冠婚葬祭がもっとも似合わない男」。私は結婚式に夢もなく、着たい着物もドレスもなかった。相手は3回目の結婚で、私より年上で既にご両親は他界していた。親代わりに、彼のお兄さんが我が家に挨拶に来てくれた。私が父に「パパ、不束な娘ですけどって言わないの?」と聞くと、隣にいた弟が「よくいうよ! 不束以下だ!」と言ったのを、父は大ウケして笑っていた。私には不束以下というあだ名がついた。

父が、予想に反して結婚式を仕切り出した。全て父が得意の無茶振りで、会場は知人のいる東中野の日本閣を仏滅の日に貸し切り、値切り、料理もドリンクも父が決めた。シーバスのロイヤルサルートを5本自ら持ち込み振舞った。式場の人がどれだけ父に脅されたかは知らないが、メロンだキャビアだと、値段に見合わない豪華な食材が並んでいた。

父は会場に大きなステージをリクエストして、自分の好きな芸人さん達を呼んだ。早野凡平さんは帽子と風船の芸、染之助・染太郎さんは「おめでとうございますー」と色んなものを傘で回して祝ってくれた。伝説のカントリーウエスタンのジミー時田さんや、マヒナスターズの松平直樹さんのハワイアンウェディングソングは素晴らしかった。マジシャンまで呼んでいて、女の人が宙に浮いていた。バンドも父の大好きな薗田憲一とデキシーキングスで、曲も曲順も全部父が決めた。

唯一私がリクエストしたのは、当時「立川ボーイズ」だった立川談春さん、立川志らくさん、朝寝坊のらくさんたち3人がやる「オバケのQ太郎」のコント。白いTシャツから顔だけ出してオバQをやるのだが、時間が足りなくなってカットされてしまった。

400人程の立席の披露宴は4時間近く続いた。お客様はみんなステージに集中し、新郎新婦は隅に追いやられ、いてもいなくてもいい感じになっていた。新郎は黒のタキシード、私は貸衣装の白いウェディングドレスと無料で貸してくれたピンクのドレスだったのに、父は3回お色直しをした。紋付で登場し、アラブで買ったアラブ人の白い布と頭に輪っかを乗せたやつに着替え、最後はベルベットのタキシードを着ていた。

引き出物も父が決めた。夜中に電話があって「引き出物にいいものを思いついた! お客は皆おしゃれして来るだろ? 俺の呼んだ芸人も沢山来るし、みんな写真を撮れたらいいと思うんだよ」

そして全員に「写るルンです」を渡す事になった。撮った写真を飾ってもらうための写真立てとセットの引き出物に、父はご満悦だった。もはやこれは父の結婚式だと思い、とことん父の好きにやってもらおうと決めた。

ところが、式の前日になって父がゴネた。私とバージンロードを歩かないと言い出した。張り切っていた父が、なぜ1番大事な役をやりたくないのかわからなかった。仕方ないので、毒蝮三太夫さんにお願いした。当日、式場のチャペルで蝮さんと腕を組んで入場すると、紋付き袴の父が最前列から「よっ、ゆみこ、いい女!」と掛け声をかけた。後日、蝮さんが「あれは子供のいない俺に対しての優しさだったのかもな」と言った。蝮さんご夫婦には、子供の頃から本当に可愛がって頂いている。
 
式の翌日、披露宴に出て頂いた芸人さん達へ、お礼を包んで挨拶に行った。式場の支払いも済ませると、なんと300万円手元に残った。父の値切りと仕切りは、この時頭角を表した。

こんな話もあった。私の結婚話を聞いた父の知り合いから「談志さんの娘さんなら、もっといいところへ......」と言われたそうだ。父は「もっといいところってどういう事? お金? 家柄? 地位? オレはそんなふうに思わない」と言ってくれた。

いつだってそうだった。いつも最後に父の優しさに泣かされる。

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