結成35周年を迎えたSHOW−YA・寺田恵子が、男社会を生き抜くために決めた意地「女バンドでデビューする。女バンドで続けてみせる。女のハードロックで売れてみせる」【前編】

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ガールズバンドのパイオニアで、日本ロック界のレジェンドであるSHOW−YAが今夏、世界デビューアルバム『SHOWDOWN』をリリースした。

今でこそ女性バンドは当たり前のように存在するが、SHOW−YAがデビューした1980年代は、「女バンドは大変だった」とヴォーカルの寺田恵子(てらだ・けいこ)は言う。酸いも甘いも噛み分け、後輩ミュージシャンに「姐さん」と呼ばれ慕われる寺田が、SHOW−YAが歩んできた「女の戦い」の歴史を語る!

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――いきなり脇道にそれますが、姐さんの地元・千葉県のローカルスター・JAGUARさんが先日、故郷のJAGUAR星に帰還しました。姐さんが10代の頃、バイト先によくJAGUARさんがいらしていたそうですね。

寺田 そうそう。18、19歳の頃、私は本八幡の楽器屋さんでリハーサルをやっていて、終わった朝6時から9時までマクドナルドでバイトしてたんですよ。オープンして割と早い時間に派手な高級車で乗りつけて、毎回「フィレオフィッシュのセットください」っていうオジさんがいて。

――朝、フィレオフィッシュを食べるのがルーティーンだったんですね。

寺田 毎日かどうかはわからないけど、私が入ってるときは必ずフィレオフィッシュだった。なんであんな高級車乗ってるのにマックなんだろうって(笑)。のちに仲間内で、「市川でいろんな事業をやっているJAGUARって人がいる」という話になって、あ〜あの人かと思って。

――本八幡もいいところですよね。

寺田 今はだいぶ変わっちゃったけどね。サイゼリヤの第1号店って本八幡なんだよね。もともとは小さなレストランだったの。安くておいしくて、「サイゼ」って呼んでた。

――千葉県民の誇りですね。さて今回はSHOW−YAが歩んできた「女の戦い」がテーマです。今、女性の地位向上が謳(うた)われる一方で、女性の生きづらさもよく語られます。

寺田 そうね。私たちがデビューした80年代って、女の人がこの業界に出てきても、どうしてもアイドル的な扱いで終わってしまうことが多かった。女優さんだったら年齢に合った役を演じることで長く続けられるけど、音楽の場合は周りから「結婚したら終わり」と見られたり、年齢を重ねたら次の若い子にバトンタッチするみたいな、そういう空気があった。圧倒的に男社会の時代だった気がするんだよね。

特にSHOW−YAの場合はハードロックだし、女性だけのハードロックバンドって多分、日本には前例がなかったので、最初はデビューするきっかけすら与えてもらえなかったんだよ。自分たちを採ってくれるプロダクションもなく、プロダクションがなければレコード会社もつかないから。

ソロだったらという話はいくつかいただいたんだけど、私は「ソロはイヤだ、女バンドで行きたい」ってお断りして、なかなかデビューできなかった。だから、さっき言った本八幡の楽器屋さんで、自分たちで音楽プロダクションを立ち上げて、レコード会社の人にライブに来てもらって、ようやくデビューが決まったんだよ。

――でも、姐さんは最初「女バンドは嫌い」だったんですよね? SHOW−YAの前身バンドである『メデューサ』から誘われたけど、3回断わったとか。

寺田 あ、嫌い嫌い。断わった。本当に女バンドは大嫌いだった。というか、女の人が嫌いだったから。

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――なんでですか(笑)。

寺田 なんだろう、子供の頃から、年上の女の人にいじめられるタイプ? 何をするわけでもなく、ただ歩いているだけで帰り道に待ち伏せされたり。小学校の頃ってランドセルを背負って、そこから定規とか笛が飛び出てるでしょ。後ろから定規を抜かれて、足を叩かれたり。それで「女の人は意地悪だ」っていう思い込みがあって。

だからSHOW−YAに誘われたとき、女性バンドで、しかもハードロックって聞いて、自分の経験上、「この人たち絶対性格悪い!」って思って(笑)。

――目鼻立ちがはっきりしているから、子供の頃から目をつけられやすかったんですかね?

寺田 小学校の頃はごく普通だったし、中学校でもこれといってスペシャルな部分はなかったんだけど、テニス部に入ったんです。『エースをねらえ!』が流行っているときで、たまたま自分は左利きで、テニスは左利きが重宝されるから、1個上の先輩とペアを組まされて、本当は1年生は出られない秋の大会に入部半年の私が選ばれちゃったの。そこから先輩のイジメがすごかった。

――あああ〜。

寺田 砂利道で正座させられたりさ。それでもとにかく笑顔を振りまいてたら、「その笑顔が気にいらない。チャラチャラしてんじゃねーよ」ってまたイジメられて。先輩がいなくなるまで、2年間はイジメられました。卒業式のときだって「卒リン」されるかもと思って、身構えてたもん。

――卒リン! 姐さんはいわゆる「スケバン」ではなかった?

寺田 一生懸命テニスやってるスケバンなんていないでしょ(笑)。

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――目立ちたくなくても、目立ってしまう何かがあったんでしょうね。

寺田 1学年13クラスくらいあったのに、なんでその中で目立たなくちゃいけないのって思うけど。高校は新設校で、私は2期生だったんですよ。1期生の人から、校則が緩くていいよと聞いてたんだけど、入学したら厳しい校長先生に変わってた(笑)。それでも初めが肝心というか、ちょっと気合入れて入学式に行くじゃない。そしたら、そこで目をつけられちゃって(笑)。

――学習してないじゃないですか(笑)。 

寺田 でも、この業界に入ったら、割と年上の人からかわいがられるようになって。この業界に入ってよかったなって。人を信用できるようになった(笑)。

――子供の頃はプロレスも好きだったんですよね。ビューティ・ペアの時代ですか?

寺田 その前なんですよ。「小畑・佐倉」(女子プロレス黎明期に活躍した小畑千代と佐倉輝美のコンビ)の時代。小畑さんは髪の毛がショートでくるくるしてて、ダメ亭主の奥さんみたいなイメージ。

ビューティ・ペアの時代からは日本人対決がメインになっていくけど、この時代は外国人と試合するんです。小畑さんが外国人レスラーの頭をバケツで叩くと、金髪がみるみる血に染まっていく姿に興奮してた(笑)。

――強い小畑さんにグッと来たわけですね。

寺田 つえー、かっけーみたいな。

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――強い女性への憧れがあったんですか?

寺田 そうだね。今でも自分はそんなに強い人間だとは思ってないけど、子供の頃から「自立したい」って思ってて。幼稚園の頃からひとり暮らししたかったから。

――早すぎでしょ!

寺田 新聞のチラシのマンションとか家具の広告を切り抜いてノートに貼って、いくら稼げばこれが買えるとかね(笑)。実家が建築業なので、家の図面を書いたりもしてた。

――なんで自立したかったんですか?

寺田 家にいたくなかった(笑)。

――躾(しつけ)が厳しかった?

寺田 いや、どちらかというと放任主義だったんだけど、親父の酒癖が悪かった(笑)。普段はおとなしい、いい親父なんだけど。酒を飲むと暴れ始めて、私はひたすら耳を塞ぐしかなかった。

――昔ながらの職人気質っていうか。

寺田 そうそう。職人が集まって飲み始めると絶対に最後はケンカで終わるんだよ。昔のロックバンドがみんなで集まって酒飲み始めると、なんかわからないけど必ずケンカで終わるのと同じ。私はプロレスとか戦いは好きだけど、基本、争いごとは好きじゃないから(笑)。

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――歌手になりたいと思ったのはいつからですか?

寺田 物心ついたときから、歌を歌いたいって思ってた。小学生のときから『のど自慢』とかモノマネ番組に出たくて、応募ハガキを送ったりしてたんだけど、実際に行く勇気が出なくて。行くためには親に言わないといけないじゃない。

でも歌を歌う仕事がしたいっていうのはずっと思っていて、高校1年のときに、文化祭に出るためにヴォーカルを探していたバンドに声をかけられたのが最初だね。後から入って下っ端になるのがイヤだったから、「カルメン・マキ&OZのコピーをやるんだったらいいよ」って条件つけて。

――それは男の子バンドだったんですか?

寺田 そう。男5人に、私とキーボードが女だったかな。当時は、楽器は男の人がやるっていうイメージが強かった。ただ、小学校の頃にランナウェイズ(70年代に活躍したアメリカの女性バンド)をテレビで見たときは衝撃を受けた。「下着姿で歌ってる!」って。あと、『8時だョ!全員集合』に台湾出身のヤン・シスターズっていう姉妹バンドが出ているのを見て、「女の人も楽器やってたらカッコいいな」ってちょっと思ってた。

で、この男の子たちのバンドに入ってリハーサルをやるんだけど、リハーサルをやっていた本八幡の楽器屋さんの店長さんがSHOW−YAと私を結びつけたというわけです。だから、このお店がなかったら、私はSHOW−YAに入っていなかった。まぁ、3回断わってますけど(笑)。

――この頃、ひとりでアイドルのオーディションを受けてますよね?

寺田 はい。1回、『スター誕生』のオーディションを受けてるんだけど、アイドルになりたかったわけではなくて、アイドルのオーディションしか歌手になるきっかけを知らなかった。でも、作られたお人形さんみたいのはイヤだから、カーリーヘアにしてロンタイ、要はツッパリの格好で行ったら、一次予選で落ちました(笑)。

SHOW−YAに入ったのは17歳のときで、オーディションは18歳のときだから、実はSHOW−YAとダブってるんですけど。

――抜け駆けじゃないですか(笑)。

寺田 そこは申し訳なかったと思う(笑)。でもその後はずっと「女バンドでデビューする。女バンドで続けてみせる。女のハードロックで売れてみせる」、この3つを意地でも実現しなきゃいけないっていう思いでやってた。やっぱり女バンドは「どうせ続かない」「結婚するまでの場繋ぎでしょ」みたいな扱いだったから。

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――なめられることもありましたか?

寺田 いっぱい。なめられることだらけだったんじゃないかな。っていうかね、20代の頃のSHOW−YAは、すごく微妙なポジションにいたんですよ。アマチュア時代はハードロックをやってたんだけど、デビューしたときはポップスの曲をやることになって、その瞬間にロック系の人たちから、「SHOW−YAは魂を売った」と言われて。

それにテレビとかに出ても、別にかわいい集団でもないので浮くじゃない。ポップスやるにしてはかわいくないよね、みたいなさ(笑)。どっちつかずになって、音楽専門誌とかにはかなり叩かれた。特にワタクシが(笑)。

――デビュー曲『素敵にダンシング』(85年)はコカ・コーラのタイアップがつき、かなりプッシュされたけど、姐さんはショートカットにしてミニスカートをはいて、アイドルバンド路線で売り出されました。抵抗感はなかったんですか?

寺田 私はあれこれやらされてるとは感じてなくて、割と楽しんでた。それこそコカ・コーラのCMのときなんか、スタイリストがコシノ・ジュンコさんで「世界のコシノだ!」とか。アマチュアとは違って、仕事となるとそれぞれの分野のすごい人たちが関わってくるでしょう。学ぶことがたくさんあって、仕事ってこういうものなのかってワクワクしてた。

ただ、SHOW−YAはハードロックバンドとして始まったわけだから、違う道を歩むことに馴染めないメンバーもいたと思うんだよね。私みたいに能天気には楽しめなかったと思う。

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――4〜6枚目のシングルは秋元 康さん作詞、筒美京平さん作曲という強力な布陣でしたね。

寺田 京平先生は本当に幅広い音楽を聴いていて、私の知らないヘヴィメタルのレコードまで聴いてたりして。作曲家は、こういう曲を書いてほしいと依頼されたものにちゃんと応えなきゃいけないじゃない。だから本当に勉強熱心で、たくさんの引き出しを持っていた。プロとはこういうもので、こういう人が巨匠と呼ばれるヒットメーカーになるんだって、一緒に仕事しててすごく勉強になった。

――当時はハードロックに回帰していく一方で、セールス的には伸び悩んでいて。

寺田 やっぱりメディアに出ると、ヴォーカルである私が一番映る機会が多いじゃない。私がこのバンドをなんとかしなきゃいけない、なんで売れないんだって相当悩んだ。

歌がうまいだけじゃダメで、この衣装は、この髪型は、この化粧は......って、アルバムを出すごとに全部違う顔してたと思うんだよね。本当に頭がおかしくなりそうなほど悩みまくって、最終的に出した答えが「下着になる」っていうことだった。

――下着になる?

寺田 売れないで、もうこのままどこかに消えてしまいたいって思ったとき、お風呂の洗面所で服を1枚ずつ脱いでいって、鏡に映った下着姿の自分を見て、「これでいいんじゃないの?」って思ったの。これが一番自分らしいんじゃないか、さらけ出しちゃったほうがラクなのかもしれないって。

キレイな服を着て、人が作ってくれた歌をさも自分が経験したことのように歌うより、自分の内面から出てくるものや、着飾らないものを打ち出していったほうが自分も納得できるし、自然体でいられるじゃない。

それで勝負したいと思って、『限界LOVERS』(89年)を出したらヒットした。下着姿と、自分たちの気持ちとズレのない歌がうまく一致したのかな。多分、いろんな経験をして強くなったからそれができたと思うんだよね。初めから下着姿だったら嫌われて終わり。それこそまた年上の女の人にいじめられたと思う(笑)。

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――その下着姿に、これまで培ったものがオーラみたいに出ていたんでしょうね。

寺田 下着で歌う意味がちゃんと出ていたと思うんだよ。「はしたない」みたいに咎(とが)められることもなかったし、年配の人たちからも「かっこいいね」って褒められたから。

――勝手なイメージですけど、ハードロックって、本当は気が弱くて繊細な人が、強さに憧れて聴くという部分もあるんじゃないかと。姐さんはどうなんでしょう?

寺田 私は、自分は二重人格みたいなところがあると思っていて。すごくシャイな部分もあって、人と外に遊びに行くより、家で地味に家事をやってたほうが好きだったりするんだけど、でもそればっかりが続くとイヤなんだよね。

ステージで爆発できるから、両方の自分が保たれていて、どっちかに偏っちゃうと破滅しちゃう。もともとはシャイだから、ステージに上がるときは、やる気スイッチを押してから上がっていくんだけど。

――スイッチがあるんですね。

寺田 だってSHOW−YAってバンドにはさ、すごい強い女の集団ってイメージがあるじゃない。ファンの子はその強さに惹かれてるわけだから、ファンの前では堂々としてなきゃいけない。

それこそ足を引きずらないと歩けない状態でも、ステージの上では胸張って歩くみたいなさ。そういうイメージを自分たちで作り上げてしまっているから、「行くぞ!」っていう気合のスイッチが必要なんだよね。

――プロレスラーみたいですね! 

後編⇒SHOW−YA・寺田恵子が語る、ガールズバンドだから出来ること「女にしかできないことがあるって思ってるから、女としての武器は使えるだけ使えって」 

●寺田恵子(てらだ・けいこ) 
1963年7月27日生まれ。高校1年生でバンド活動を始め、85年、「SHOW−YA」のヴォーカリストとしてデビューし、実力派として脚光を浴びる。シングル「限界LOVERS」は売り上げ30万枚を突破し代表曲に。91年にグループを脱退、その後ソロ活動を開始。05年、14年ぶりにSHOW−YAを再結成。以降、ソロと平行して活動中。最新情報は『SHOW−YAオフィシャルサイト』、『寺田恵子オフィシャルサイト』にて。

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●SHOWDOWN 
35周年を迎えたガールズメタルの女帝・SHOW−YAが、35周年と36年目の節目に若井 望(DESTINIA)をプロデューサーに迎えて放つ、SHOW−YA史上、最もハードでヘヴィメタルなニューアルバム。全編英詞、海外までも視野にすべてのロックファンを貫く。「私は嵐」のセルフカバー「T am the storm/WATASHI WA ARASHI」も収録。

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●SHOW−YAライブ情報 
"SHOW−YA『組曲』〜Battle Orchestra〜" 
2022年1月30日(日) 
LINE CUBE SHIBUYA(渋谷公会堂) 
Open 17:15/Start 18:00

取材・文/中込勇気 撮影/五十嵐和博

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