≪藤子不二雄?先生追悼企画≫ゆでたまご嶋田隆司・中井義則「『まんが道』を 読んでなければ、 僕らは...」

3年前の『キン肉マン』40周年パーティでの写真。?先生(右)がいらした瞬間、会場がどっと沸いた(撮影/榊?智朗)

『怪物くん』『笑ゥせぇるすまん』など、 数々の名作を生み出した藤子不二雄?先生が4月7日、この世を去った。

各界に影響を与えた先生だが、本誌に『キン肉マン』を連載中のゆでたまご先生にとっては、 特に『まんが道』がコンビでマンガ家を目指すきっかけになった作品なのだという。そんなおふたりに『まんが道』、そして藤子不二雄?先生について伺った。

●コンビで作品を創る契機をくれた大恩人

今回の訃報に接し、ゆでたまごの原作担当・嶋田隆司先生は開口一番、「もし?先生がいらっしゃらなければ、僕らゆでたまごというコンビは確実になかったです」と謝辞を述べた。

それはやはり、コンビとしてのマンガ家・藤子不二雄の誕生からデビュー、そして若き日々の活躍までを赤裸々に描いた半自伝的作品『まんが道』から受けた絶大な影響力にほかならない、と嶋田先生は熱弁する。

「幼少期からのマンガ好きが高じて、自分でも話を創って描いてみるようになったのが小学4年生の頃。ちょうどその時期に今の相棒の中井(義則)くんと出会って、一緒に遊ぶうちに彼もマンガが大好きになって、やがてお互い自分の作品を描いては見せ合うようになりました。プロのマンガ家になりたいとも心のどこかで思っていたけど、なり方なんてわからない。『まんが道』に出会ったのはそんな頃でした。

最初は『週刊少年チャンピオン』で毎週わずか2ページずつの掲載でしたが、衝撃でしたね。すぐに思いました。『そうか、自分もこのとおりにやればプロのマンガ家になれるのか!!』って。そう思うと毎週、そのわずか2ページが待ち遠しくてたまらない。夢中になって何度も読み返して、本当に描かれていたとおりのことをすべてマネしていきました。それで中井くんに言ったんです。『こうやればマンガ家になれるんや。だからふたりで一緒に合作して描いていこう!』って。それが小学6年の頃、僕らゆでたまごの始まりです」

その当時のことはゆでたまご作画担当・中井義則先生もよく覚えていると述懐する。

「僕も本当に夢中になって、何度も読み返すだけでは飽き足らず、自分でページを丸ごと模写しては部屋の壁に張りつけたりもしてました。作中エピソードも相棒(嶋田先生)と一緒に真剣にマネをして。

なかでも特に印象に残ってるのは、反射幻灯(げんとう)機。今でいうプロジェクターの簡易版みたいな装置の作り方が作中に詳しく載ってまして、それを使って自筆のイラストを映画のように壁に投影してみるという逸話があるんです。それを読んで、僕らもまったく同じ装置を自作しました。でもいざやってみると、周りが相当暗くないときれいに壁に投影されないんですよ。仕方ないから、僕の家の狭い押し入れに無理やりふたりで籠ってね(笑)」

そんな思い出を語りながら中井先生が作業場の本棚から取り出してくれたのは、古いながらも保存状態のいいハードカバーケース入りの秋田書店版『まんが道』の単行本。奥付を確認させていただくと昭和47年(1972年)発行の、なんと紛れもない初版本である!

中井先生が持っていた秋田書店版の『まんが道』初版本。それからおよそ50年たった今も大切に保管されているところに、確かな思い入れを感じる

「これは僕が小学生のときに、地元大阪・住之江の加賀屋商店街にあった本屋さんで買ったものです。僕自身、今年でデビュー43年、仕事場は何度も変わってきましたけど、『まんが道』だけはずっと原稿を描いている机から一番近い本棚に差し続けていて......僕にとってはバイブルみたいな本です」

今でも時折、日々の作業のなかでふと初心に返ろうと思われたときにはこの本を手に取り、中を開いてみるという。

「開いてみると不思議なもので、最初にマンガを描き始めた小学生の頃の気持ちがそのまま蘇ってくるんです。それはきっと『あすなろ編』と後に名づけられた本作初期のエピソードに、僕たちが親近感を覚えずにはいられないことがふたつあるからだと思ってまして......。

ひとつ目は、?先生をモデルとする主人公の満賀道雄が小学5年のときに、F(藤子・F・不二雄)先生をモデルとする才野茂の住んでいた町に引っ越し、マンガをきっかけに意気投合したという点。僕も、小学4年のときに相棒の住んでいた住之江の団地に引っ越してきて、そこでマンガを通して仲良くなった。こんな偶然ってあるんだなと。ちなみに、道雄の転校先のクラスは、高岡市の定塚小学校5年3組なんですが、学校は違えど、私も5年3組だったんですよ(笑)。

そしてもうひとつは、その満賀道雄が才野茂のあふれるマンガの才能に尊敬の念を抱きつつも、嫉妬したという点。僕もそうだったんです。相棒は、当時からマンガの知識がものすごくて、僕にマンガの面白さを最初に教えてくれたのも彼でした。そんな相棒の描くマンガがあまりに面白くて、その才能に負けたくない一心で僕自身も競うように描き始めた。こんな偶然ないですよ。ここまで似てるなんて......。

だから相棒も『このとおりやったら、僕らも絶対プロになれるぞ!』って当時、自信満々で僕に言ってきたんじゃないかと今でも思い出すんです。『まんが道』という、コンビマンガ家として生きる道しるべがなければ、僕自身も相棒と組もうなんて思えなかった。しかも当時、11歳だった僕たちが61歳になった今も、コンビでまだ続いてるんですから。

そんな僕らの嘘みたいな本当の体験談と一緒に、いつか?先生には直接お礼をお伝えしたいとずっと思っていましたが......。結局、これまでわずかばかりの簡単なご挨拶をさせていただく機会があった程度で、じっくりご報告ができないまま逝かれてしまったことが本当に残念で仕方ありません」

『キン肉マン』生誕29周年を記念して刊行された『肉萬〜キン肉マン萬之書〜』に寄せていただいた?先生のお祝い色紙。「『キン肉マン』とゆでたまご氏に最高のエールをおくります!」とコメントも

●『キン肉マン』も藤子作品とともにある

単純にコンビを組んで活動してきたということだけではない、作風に至るあらゆる面でゆでたまご先生は藤子不二雄先生のフォロワーだったと嶋田先生はあらためて振り返る。

「藤子先生の王道作風のひとつに、妙ちくりんな主人公が常識人の世界に突然やって来て引っかき回すことで話が転がるというのがありますが、『キン肉マン』もまさにそういう発想から始めた作品。その引っかき回される常識人の代表として、ミート君を思いつきました。

それに、キン肉マンの最初のライバルとして登場するテリーマン。彼は僕らの大好きなテリー・ファンクのオマージュであると同時に、実は『オバケのQ太郎』に出てくるアメリカ出身のオバケ、ドロンパのオマージュでもあるんです。だから初期のテリーマンは、ちょっと気取ったイヤミな感じで、自分のことを『ミー』と呼ぶ(笑)。

それを思えば、藤子先生がいらっしゃらなかったら『キン肉マン』という作品はまったく別モノになっていたはずです。たとえ、『まんが道』の背中を追ってマンガ家になれていたとしても、ろくに芽も出ず辞めてたかもしれない。本当にあらゆる面で?先生、F先生がいらっしゃったからこその、僕らなんです」

満賀道雄(藤子不二雄?先生がモデル、イラスト左)と才野茂(藤子・F・不二雄先生がモデル)のふたりの主人公による藤子不二雄先生の自伝的マンガ作品。1970年『週刊少年チャンピオン』にて、2ページ連載からスタート。後に「あすなろ編」と呼ばれるこの時期の連載を若きゆでたまご先生はむさぼるように読んだという

生前、じっくりお話しできる機会を求めて、対談をお願いしたこともあったのだが、タイミングも合わず、その機会は失われてしまった。そのことが悔やまれてならないと語るゆでたまご両先生。しかし3年前の『キン肉マン』40周年パーティにご来賓としておいでいただいた際、「これからもコンビで、もっと長く続けてね!」と貴重なお言葉をいただけたとのことで、それが何よりの励みになったそう。その言葉を胸にフォロワーとしての魂は今後も灯し続けていきたいと語るなかで、もうひとつ、嶋田先生にはひそかに誇りに思っていることがある。

「僕らゆでたまごって一部のファンの間で、中井くんは働いてるゆで=A僕は遊んでるゆで≠チて言われることがあるようなんです。でも、そんな陰口みたいなことすら僕は少しうれしくて。華やかな場を好まれるイメージもお持ちでいながら、素晴らしいお仕事を続けられた?先生のような存在を今後も目指し続けていきたいと、僕自身はまじめに思ってます」

取材・文/山下貴弘 ?藤子スタジオ 

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