日本のミスコン、米への配慮や人権侵害指摘等経て現在に至る

日本のミスコン、米への配慮や人権侵害指摘等経て現在に至る

第1回グランプリの山本富士子(提供/ミス日本協会)

 1888年、ベルギーで世界初の美女を選ぶミス・コンテストが開催された。21人のドレス姿の女性たちが、その美を競ったとの記録が残っている。

 一方、日本では1891年、当時浅草のシンボルだった67mの高さを誇る眺望のための高層建築物「凌雲閣」で、100人の芸者の写真が各階に展示されたものがルーツとされている。来場者たちの投票によって決めたとされ、観客誘致のPRといった趣が強かったようだ。ただし、このコンテストで審査されたのはあくまで芸者であり、一般女性ではなかった。

 今日のように広く一般に公募する形でコンテストが行なわれたのは1907年、アメリカの新聞社・シカゴ・トリビューンからの「世界一の美人を決めるため、日本も協力してほしい」という要請がきっかけだった。これに応えた時事新報社は、全国の新聞社から写真を集め、日本代表となる美人を選定。日本のミスコンのはじまりとされる。

 戦後に創設された「ミス日本」は、もともと日本に対する救援物資への感謝を伝えるべく、アメリカに送る親善大使の選出が目的であった。栄えある第1回優勝者は、後に女優として活躍する山本富士子。その後、メディアや自治体などが主催するミスコンが頻繁に行なわれるようになり、70年代からは女子大生からミスを選ぶミスキャンパスも盛んになっていった。ミスに選ばれたことを契機に、女優やアナウンサーなど、芸能界入りする女性も続々と現われ、夢を叶える手段として一般的になっていった。

 しかし、白熱するミスコンブームに冷水を浴びせたのが、女性運動の高まりだった。容姿の優劣だけで女性を品評するのは人権侵害だと、各地でバッシングが相次ぎ、撤退を余儀なくされたミスコンも少なくない。

「今日求められているのは、見た目の美しさだけではありません。立ち居振る舞いや、しなやかな感性、深い教養なども備えた女性こそが、誰からも愛される真の美人といえます。『ミス日本』では、かねてから、そこを重要な審査ポイントのひとつとしています」(ミス日本コンテスト事務局長・和田健太郎氏)

 時代とともに審査基準が変わろうとも、厳しい選考を勝ち抜いたミスたちはスターへの切符を手にしつづけるのだ。

取材・文■小野雅彦

※週刊ポスト2019年7月5日号

関連記事(外部サイト)