西郷輝彦 母を看取り「人間、生きているうちが華」

西郷輝彦 母を看取り「人間、生きているうちが華」

人間、生きているうちが華

 自分の「最期」について考えるとき、最も身近な“お手本”となるのは、両親が亡くなった時のことではないだろうか。厳しかった父、優しかった母はどうやって人生を締めくくったのか──。俳優の西郷輝彦(69)が、「母の死」に際して見たこと、学んだことを明かす。

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 腎臓が悪く、長いこと入退院を繰り返していた父をずっと看病していた母が、父より先に亡くなるとは思っていませんでした。

 僕が歌手デビューした後、地元・鹿児島から東京に父と母と姉を呼び寄せました。最終的に両親は神奈川県で2人暮らしを始めて、病気の父を母がずっと看病していたのです。母が突然体調を崩したのは、父の看病疲れだったと思います。

 父の具合が悪くなってから、母は僕の舞台公演にあまり来られなくなってしまった。母が82歳で亡くなる数年前、僕は東京の明治座で舞台『江戸を斬る』に出演しましたが、母が「観に行きたい」と訴えても、父が「俺を1人にするのか」「もし俺に何かあったらどうするんだ」と頑なに拒んで、観劇は叶いませんでした。母に最後の舞台を見せられなかったことが僕の一番の心残りです。

 母はいつも何かあると、「お父さんに聞かないと」というほど、父に“絶対服従”の間柄でしたね。

 そんなこともあり、病床の母との最後の会話は、「私はこの人(父)にすべてを捧げた」「これから楽しい余生を送ろうと思っていたのに、病気になってしまった」という愚痴ばかりでした。

 病院では姉が母に付き添いましたが、そろそろ最期という時に僕の仕事がオフになりました。2002年12月14日のことです。

 母はもう会話できる状態ではなかったけど、先生から「お別れをされた方がいいですよ」と諭されて、僕は腕の中で母をずっと抱いていました。母の意識がふっと薄れても、「お母さん! お母さん!」と声をかけると、すっと息を吹き返す。そしてまた意識が遠くなる……その繰り返しでした。

 そして母は最後、僕の腕の中で息を引き取りました。死の瞬間、一緒にいることができて本当によかった。

 一方の父は90歳を超えても頭はしっかりしていましたが、母の死を受け入れようとしませんでした。母の葬儀にも出席せず、僕や姉が何度も何度も「お母さんは先に逝ってしまったよ」と告げても、信じようとしません。

 結局、母の四十九日法要も終わらないうちに父も亡くなりました。母にできなかったぶんの親孝行をしようと思っていた矢先の出来事でした。“主従”に見える関係だったけど、やっぱり父は母を追っていったのだなと、母の存在の大きさを改めて感じました。

 両親の立て続けの逝去を通じて感じたのは、「死んだら終わりだ」ということです。母もこれから楽しい余生を送るつもりだったときに亡くなってしまったし、父も僕たちが親孝行しようと思っていたら亡くなってしまった。

 人間、生きているうちが華なのだとつくづく思います。1年でも1日でも長く生きることが、家族のためなんだなと感じていますね。

●さいごう・てるひこ/鹿児島県生まれ。龍美プロ(現・サンミュージック)に入社後、1964年に『君だけを』で歌手デビュー。その後はNHK大河『独眼竜政宗』や『水戸黄門』などに出演し、俳優としても活躍。

※週刊ポスト2016年10月14・21日号

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