追悼・ジャニー喜多川氏 田原俊彦をスターに育てたその手腕

追悼・ジャニー喜多川氏 田原俊彦をスターに育てたその手腕

ジャニー喜多川氏の「お別れの会」には多くのファンが訪れた(写真:時事通信フォト)

 ジャニー喜多川氏を抜きに田原俊彦の芸能人生は語れない。同時に、田原の活躍なくしてジャニーズ事務所の繁栄はなかった──。

 日本に歌って踊れる男性アイドルを生み出し、定着させた名プロデューサーであるジャニー喜多川氏が、今年7月9日、解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血で死去した。87歳だった。

 タレントたちが各局にレギュラー番組を持ち、グループが新曲を出せば必ずヒットする現在では考えられないが、ジャニー氏が40代後半だった1970年代後半のジャニーズ事務所は苦境に陥っていた。

 1968年デビューのフォーリーブスの人気に陰りが見え始め、1976年を最後にNHKの『紅白歌合戦』にも呼ばれなくなる。1972年デビューの郷ひろみは、3年後に移籍。ジャニー氏はスター候補生を芸能界に送り込むが、大ヒットには至らない。

 そんな事務所を救ったのが、1979年10月26日開始の学園ドラマ『3年B組金八先生』(TBS系)の生徒役として抜擢された田原俊彦、近藤真彦、野村義男の3人だった。

 ドラマの視聴率と並行するように、3人の人気もうなぎ上りで、先陣を切って田原俊彦が1980年6月21日、『哀愁でいと』でデビュー。年末には、2曲目の『ハッとして!Good』(作詞、作曲・宮下智)でジャニーズ事務所初の『日本レコード大賞最優秀新人賞』に輝いた。ここからジャニー氏の逆襲が始まった。

 1981年には近藤真彦、1982年にはシブがき隊、1983年にはTHE GOOD Byeと4年連続で最優秀新人賞を獲得。ジャニーズ事務所は現在に至るまで隆盛を築いている。

“歌って踊れる”エンターテイナーを育成したいジャニー氏の中で、事務所の苦境時に現れた運動能力の高い田原俊彦は特別な存在だった。

 ジャニー氏は、田原のデビュー曲をレイフ・ギャレットの『NEW YORK CITY NIGHTS』のカバーにすると決めた。日本語詞を担当する小林和子氏が『NEW YORK CITY DOLL』というコンセプトで詞を書くと、ジャニー氏は田原の踊りを際立たせるため、こんな助言を送ったという。

〈DOLL(ドール)では音が伸びてしまうからダメ。音に乗せる言葉はNIGHTS(ナイツ)のように跳ねる音にしないと〉(拙著『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)より)

 伸びる音ではなく、跳ねる音のほうが踊りやすい──。ジャニー氏は細部にこだわることで、“歌って踊れる”田原俊彦の特性を存分に生かした。

 1986年から、田原のシングル売上枚数は10万枚を割るようになる。すると1988年、ジャニー氏はもう一度、田原俊彦を踊らせようと考え、バックダンサーに乃生佳之と木野正人を配置。

 ディレクターの羽島亨は新曲の作詞を森浩美氏、作曲を筒美京平氏に任せた。そして、編曲家・船山基紀氏が印象的なイントロを考案し、田原が踊りやすいように“決めポーズ”を何度も作れる音楽に仕上げ、『抱きしめてTONIGHT』が生まれた。

 同曲は当時の人気歌番組である『ザ・ベストテン』や『歌のトップテン』で光GENJIや長渕剛などを抑えて、年間1位に輝くほどの大ヒット曲になった。今も、田原がコンサートで歌うと、会場の盛り上がりが最高潮に達する名曲だ。

 1994年にジャニーズ事務所から独立した田原俊彦は9月4日には東京ドームで開かれたジャニー氏のお別れ会に姿を見せなかったが、12月20日放送の『爆報!THEフライデー』(TBS系)で「ジャニーさんが脂乗っていて、元気だった50歳前から63、64まで僕に懸けてくれた。最高の時をあの人と過ごせた。それは大切に僕の心にしまって……。それは死ぬまで変わらない」と感謝を述べた。

 2人には、2人にしかわからない絆がある。その想いを胸に、田原俊彦はこれからも踊り続ける――。

■文/岡野誠:ライター・芸能研究家。ジャニー喜多川氏のプロデュース秘話も随所に綴られている著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)が話題に。田原本人へのインタビューや関係者への取材、膨大な資料で構成される一冊だ。2020年2月8日13時半から、大阪・ロフトプラスワン WESTで元CHA-CHAの木野正人とトークイベント『“職業:男性アイドル”の考察とジャニー喜多川氏の果たした役割』を開催。

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