余貴美子 「日本や台湾、中国というより、私は客家」

余貴美子 「日本や台湾、中国というより、私は客家」

一昨年、余一族の墓を訪ねた(左は母・京子さん)

 いまや日本映画界に欠かせない存在となった余貴美子(よきみこ・61)は、ふとしたきっかけから「客家」のルーツを意識するようになった。その時、常に「何者」かを演じ続けてきた自らに、初めて「芯」のようなものを感じたという。希代の演技派女優の心に息づく“流浪の民“の記憶を辿った。ジャーナリスト野嶋剛氏がレポートする。

 * * *
 小指の爪を、やたらに長く伸ばしていた。

 自分には意味のわからない漢詩を、いつも書き記していた。

 中国武術をやっていて、動きがやけに俊敏だった。

 新聞で中国のニュースがあると、赤丸をつけて切り抜いていた。

 孫文の立派な写真が、部屋に飾られていた。

 中国から台湾へ、台湾から日本へ渡った「客家」(*注1)の血を引く女優、余貴美子が、幼い日の記憶に刻んだ祖父の姿だ。

【*注1/漢民族の一民族とされる。中華文明が勃興した黄河中流周辺地域をルーツとし、その後、戦禍に翻弄されながら南方(広東、福建、江西省など)、そして現代では香港や台湾などに移ったと伝えられる。各地で政治家や企業家を生んだ。ユダヤ人と比されることもある】

 爪を伸ばすのは客家の男性が裕福さを示すためにやる風習だった。孫文は、客家として歴史に名を残した指導者だ。

 客家とは、中国の漢民族のなかで、独自の文化とアイデンティティを有する特殊な人々である。「客」には、お客さんという意味のほか、よそ者、という意味もある。「流浪の民」と呼ばれるのが客家である。

 祖父は余家麟(ユージアリン)という名前だった。戦前の神戸に移民し、東京に流れてきた。紅茶やバナナの輸入、炭鉱、金融機関、新聞社など多くの事業を手掛けながら、日本で初めての客家団体「客家公会」を東京で1945年10月に立ち上げてトップに就くなど、戦後初期の日本華僑界の名士だった。

 当時の家庭の様子を、余貴美子は振り返る。

「一族みんな何らかの商売をやっていたので、その全員が忙しく働いていました。一家団欒なんてあまり記憶にありませんが、いつも、いろんな人が入れ替わりたちかわり出入りしている、とても賑やかな家だったと思います」

 その中には、「サインはV」「Gメン’75」などで昭和のお茶の間に親しまれ、余貴美子の従姉妹にあたる女優・范文雀(はんぶんじゃく・*注2)も入っていた。

【*注2/1948-2002 余貴美子の父・鴻彰の姉にあたる鴻鸞の娘で、余貴美子の従姉妹。TBSの人気ドラマ「サインはV」でジュン・サンダースを演じて人気を集めた。野性味あふれるダイナミックな演技が好評を博し、映画、ドラマ、舞台で多くの作品に出演した。俳優の寺尾聰と結婚したが離婚。心不全のため、54歳で亡くなった】

 客家の血について、余貴美子の言葉は明瞭だ。「日本や台湾、中国というより、私は客家。そんな風に思っています」

 だが、日本で生まれ育った余貴美子が、客家意識を深く持ち始めたのは、この10年ほどのことだという。「おくりびと」「ディア・ドクター」「あなたへ」で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞に3度も輝いた女優の内心世界に、何が起きたのだろうか。

 客家という人々を知るうえで、重要な「硬頸(インゲン)」という中国語がある。普段の台湾社会ではあまり頻繁には使われない。意味は、読んで字のごとく「硬い頸(首)」。そこから「首を縦に振らない」「こうべを垂れない」という風に解釈され、「頑固」という意味に転じた。

 多くの台湾人は「融通が利かない」というマイナスの意味で受け止めるのだが、客家人は褒め言葉で使っている点が面白い。筆者なりに解釈すれば「なにがあっても折れない客家の強い心」を象徴する二文字である。

◆大陸から逃げた集団記憶

 演出家・串田和美が主宰した「自由劇場」などの舞台演劇で育ち、映画やドラマに進出した余貴美子の演技には、何か太い芯のようなものが入っている。昨年大ヒットした「シン・ゴジラ」では防衛大臣を演じた。

「総理、撃ちますか、いいですか、総理!」と、鋭い眼光で問い詰める迫力。戦闘準備を進める自衛隊に「頼んだわよー」と呪文のように念じ、攻撃が失敗すると「うーん、総理、残念ですが、これまでです!」とスパッと言い切る潔さ。

 怪獣が主役の作品で、短いセリフしかなかったにもかかわらず、怪獣並の迫力が頼りない男性陣のなかで異様に際立った。ほかのどの映画でも、役柄は違いこそすれ、画面の中の存在感がやけに濃いのだ。だから脇役でも光る。

 それは「硬頸」を旨とする客家の血のなせる業なのかもしれない。

 同じ客家で余貴美子の友人でもあり、宝塚歌劇団出身で、独創的な演出家として活躍する謝珠栄(しゃたまえ)は、その演技をこう評する。

「知り合う前から好きな女優さんでした。舞台の上で、とてもチャーミングで声がすごくよく通る。立派な華を持っているのに、それをあえてひけらかさず、自然体で佇んでいる。日本の女優さんにはあまり見かけない魅力がある」

 余貴美子も普段は穏やかな性格で人当たりは丁寧、物腰は柔らかい。東京の事務所や横浜の自宅で行ったインタビューでは玄関を出て外まで迎えに出てきてくれた。一流と呼ばれる芸能人ではあまり見ない対応だ。

 そんな普段の姿から、いざ「仕事」という勝負の場になると途端に「硬頸の人」に豹変する。

 世界の政界で活躍した人物も、客家の血を引く者は枚挙にいとまがない。中国のトウ小平、シンガポールのリー・クワンユー、台湾の李登輝らがその代表格(*注3)だ。

【*注3/トウ小平は3度の失脚から蘇って改革開放という大仕事を成し遂げ、リー・クワンユーは豆粒ほどの国土しかないシンガポールをアジア最高の経済都市に半世紀をかけて作り上げた。李登輝は、大陸出身者ばかりの国民党でひたすら自重して時を待ち、ショウ経国の死後、総統の座に着くと、一気に台湾へ民主化をもたらした】

 これらの指導者はそれぞれ異なるキャラクターではあるが、共通する点は、客家らしさとも言える逆境に耐える粘り強さと、目的の達成を諦めない強い意志の持ち主だったことだ。ほかに日本で活躍する台湾出身の客家には、女流囲碁で現在三冠を誇る謝依旻(シェイイミン・*注4)がいる。

【*注4/1989年生まれ。台湾出身の女流囲碁棋士。台湾中部の苗栗という客家が多く暮らす地域で生まれた。幼い頃から囲碁を始め、すぐに才能が注目されて日本に渡った。女流最年少の14歳でプロになり、女流名人9連覇を含め、女流棋聖など3冠を保持している】

 だが、そんな客家の定義はなかなか難しい。外見はほかの漢民族となんら変わらないが、独自の客家語という中国語方言を操り、食生活や習俗もかなり独特だ。

「日本客家述略」という著書がある客家研究者で医師の周子秋は、客家の性格をこう評する。

「中国大陸で戦乱から逃げて移動を続けた集団記憶があるので、贈り物や蓄財では、持ち運びやすい黄金を好みます。節約を重視しますが、子供の教育にだけは大金を惜しまない。中国社会の中でもひときわ変わった集団なのです」

◆出身地は「広東省」

 祖父・余家麟は台湾での事業経営に限界を感じ、1932年に妻子を連れて来日した。明治大学を卒業した余鴻彰と東京育ちの大塚京子は、東京で出会った。空手家で礼儀正しいハンサムな鴻彰と、日本舞踊の踊り手だった京子は「2人とも一目惚れ」(京子)というほど、出会ってすぐに恋に落ち、まもなく余貴美子が生まれた。

 2人は池袋に音楽喫茶「パラダイス」を開く。二階建ての大きな店で、ステージで歌を聴きながらコーヒーやカクテルを飲む、当時流行ったライブハウス形式の店だった。

 京子によれば、店名はハワイアンの歌手で、一家と付き合いのあった灰田勝彦の歌のタイトルから取った。店にはハナ肇が通いつめ、ミッキー・カーチスや水原弘など、昭和の名歌手たちもアルバイトで歌いにきた。新宿の「アシベ会館」などと並び、草創期の昭和大衆歌謡をリードした店だった。

 池袋の店が区画整理で閉められ、一家は新天地を求めて横浜に移った。当時、3歳だった余貴美子や妹の生活の面倒を見たのは、祖父や祖母の頼網好だった。食生活は完全に中華料理が中心だった。

「学校に持参するお弁当も日本人の子供とは違っていました。エビやチャーシューが入っていて豪華だったけど、ちょっと嫌でした(笑)。家では腸詰作りも手伝っていましたよ。ヘチマや今人気のパクチーも昔から食べていましたね」

 一家は横浜駅西口近くにバーや焼き鳥屋を開き、京子が店を切り盛りし、鴻彰は経営を担った。京子目当てのお客も多く、「美人スタンドバー」という看板を出した時期もあったと、京子は笑う。

 そんな「芸能」と近い世界で育った環境が、英語が得意だった余貴美子が一流商社に就職が決まりながら、父の反対を押し切って、あえて劇団員の道を選ばせた遠因なのかもしれない。

 鴻彰は若くしてガンで他界し、客家の伝統や台湾との結びつきを伝える人間は一時、余貴美子の周囲にはいなくなり、役者としての人生に忙しく邁進していった。余貴美子が客家というアイデンティティに立ち戻るきっかけになったのは、2012年のNHKの「ファミリーヒストリー」という番組だった。ナレーションを務めていた余貴美子と、プロデューサーとの間で、ある時、外国人登録証明書(現・在留カード)の話になった。

 余貴美子は日本に帰化していない。父の死後、母からは何度も勧められたが、「そういう気持ちになぜかならないんです」と応じてこなかった。外国人登録証明書には本籍の記載欄があり、「広東省鎮平村」と書かれていた。

 台湾出身なのに、なぜ広東省?

 子供のころからの疑問に興味を持ったNHKが、番組として取り上げることにした。だが、台湾の余家の親戚たちを見つけることから難航した。日本で事業を行い、一家を養いながら、客家活動にも奔走する慌ただしい人生を送った余家麟の時代から台湾との連絡はほとんど切れていたからだ。

 前出の周子秋にNHKから連絡が入った。余家とは関わりはなかったが、「客家の仲間のことなら」と間に入り、台湾の客家団体の中から余家のグループを探し出して調査を依頼したという。

 中国の命名には「輩行」という概念があり、同世代の兄弟の名前に同じ文字を入れる。客家は特にその傾向が強い。余家麟の名前の「家」という名前から「余家」の分厚い家系図をたどると、北部の桃園から新竹一帯に暮らしていたそれらしき一族が見つかった。それが余貴美子の一族だった。

◆「祖父の横顔が忘れられない」

 台北から車でおよそ一時間。桃園の郊外にあるチョンリーという場所に向かった。中は台湾でも最も客家が多く暮らす地域だ。

 チョンリーの住宅街にある「桃園市余姓宗親会」のビルに行くと、入口に「風采堂」という大きな看板があった。世界中に広がる余姓の施設には常に「風采」が名前に使われる。いわば余姓の目印だ。

 同会名誉顧問の余遠新は1990年代に余姓の家系図を作るとき、台東に暮らす余家麟の兄に連絡を取ったことがある、と明かした。

「お兄さんは『家麟とは半世紀も連絡を取っていない』と話していたんです。だから余家麟一家の情報は、日本から連絡があるまで何も持っていなかった。女優として活躍するお孫さんがいるのは本当に驚きで、余一族の誇りです」

 台湾に余姓の一族は桃園だけで500人、台湾全体では9万人がいるという。余貴美子の先祖の系譜によれば、清朝の乾隆帝のころ、第11代の余家の先祖が広東省から台湾に渡ってきていた。

 番組では、スタッフが「官平村」と名前を変えた鎮平村を訪ね、余貴美子の遠い親戚にあたる人々が、余貴美子の成功を祝って祈祷するシーンがあった。余貴美子は特にこのシーンに涙を流した。

「会ったこともない人たちが私のために祈っている。とても驚きましたし、客家の血を引く喜びを感じて、その誇りを持って生きていこうと。私の中で、客家人という感覚が、何なんでしょうか、急速に、突然、やってきたんです」

 余貴美子は、それからは台湾のふるさとを何度も訪ね、清明節の墓参りにも出席している。日台で開かれる客家関係のイベントにも呼ばれるようになった。2年前には、祖父の遺骨も台湾の余一族の墓に納めた。大きな墓の内部に入ると、暗闇の中で、先祖の遺骨が並べて置いてあった。

「ああ、こうやって先祖と繋がっているんだと。祖父は夜になるといつも部屋にこもって中国の古典を読んでいて、その横顔が忘れられない。きっと台湾に帰りたかったはずだという私の思いで、(納骨を)決めました」

 そのとき父の遺骨も一緒に納骨した。では、自分のお墓は台湾に置くつもりなのだろうか。

「入れてほしいかも。でも、客家は流浪の民なので、お墓はどこでも、魂さえ繋がっていれば、それでいいかなとも思う」

 女優としての余貴美子は40年以上のキャリアを重ね、その演技は円熟味を増す。豊富な経験に加え、いま「客家」の誇りも役者人生の支えになろうとしている。

「他人の人生ばかり演じて自分のことを考えたことがあまりなかったのですが、演技の才能も外見もそれほどでもない私が女優としてやってきたのも、大げさかもしれませんが、自分の中にある客家に気づくためだったのかなと」

 日本人でもなく、台湾人でもなく、客家人として。祖父や父が失った「故郷」が、時代を超え、余貴美子の心に戻ろうとしている。

※SAPIO2017年7月号

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