津川雅彦が語る兄・長門裕之というライバル

津川雅彦が語る兄・長門裕之というライバル

津川雅彦が兄・長門裕之というライバルを語る

 映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづった週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』。今回は、芸能一家に生まれた津川雅彦が、兄の長門裕之との関係、映画会社の移籍について語った言葉を紹介する。

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 津川雅彦は、祖父が日本初の映画監督・牧野省三、父が俳優・沢村国太郎、叔母が女優・沢村貞子、叔父がマキノ雅弘監督、兄が長門裕之という芸能一家に生まれ、自身も1945年、五歳の時に子役デビューしている。

「当時、役者はまだ差別されていた時代で、一般の人は我が子を子役になんかさせたがらなくて、なり手がいなかった。それで役者の子が強制的に幼児期からやらされてたんですね。

 でも、僕は役者が好きじゃなかった。化粧をするのが嫌でね、時代劇の羽二重がかゆい、カツラが重いわ、うっとうしいわ。

 溝口健二先生の『山椒大夫』に出た時は撮影が長引き、中学を留年させられてね。その時叔父のマキノ雅弘が溝口先生のところに僕を連れてって、監督に頭を下げさせて謝らせたんです。我々はやくざ一家だなと、つくづく思い知りましたね」

 1956年、石原慎太郎原作の日活映画『狂った果実』の大ヒットにより若くしてスターになる。

「高校一年の二学期に家に帰ったら、『狂った果実』という映画に出ろ、と言われた。石原慎太郎さんがどこかで僕とすれ違って、『あの子がイメージだ』と言ってくれたらしいんですが、でも、僕は断りました。反抗期で親の跡を継ぐことに疑問を持ってて新聞記者になりたかった。それで早稲田大学附属高等学院に入っていたんですね。

 そうしたら、兄が既に慎太郎さんの『太陽の季節』で主役をして日活でスターになっていたんですが、こう言ったんです。『この映画に出た奴は必ずスターになり、俺のライバルになる。お前がこれに出て、一本で辞めて新聞記者になってくれたら、俺のライバルを消せる。だから協力してくれ』と。一本だけならいいか、というのもありましたし、兄貴の役に立つなら、と出ることにしました」

 1959年には松竹に移籍する。

「案の定映画が大ヒットし、チヤホヤされいい気持ちになり、兄貴との約束を忘れて日活と契約しちゃったんですね。兄貴からするとライバルを消すはずが、一番嫌な奴がライバルになっちゃった。家には毎日のように映画雑誌やグラビア誌から電話がかかってくるが、みんな兄貴じゃなくて僕宛でしたからね。兄貴もその度にカッーとしてコップを庭に投げつけたり、家中が真っ暗になってね。それで兄貴は『日活を辞めて松竹に行く』、と言い出した。

 ところが、兄貴は後輩に慕われてたから日活の連中に泣いて止められた。『大体、約束破った津川が悪いんだ、津川が辞めればいい』ということになって、兄貴に『お前が松竹へ行け』と。『別に構わないよ』って。当時は『顔さえ良ければスターになれる』と天狗になってたからね。

 だが後援会長の村上元三先生には反対された。『流行りのスターは祭りの神輿だ。観客に担がれてるんだ。神輿が勝手に足を出して歩いたら客は興ざめして、絶対に人気が落ちる。松竹に行くのはやめなさい』と。でも僕は『顔がいいから大丈夫』とばかり移籍しちゃった。結局、先生のお言葉通り、松竹では一本もヒットしませんでしたね」

●かすが・たいち/1977年、東京都生まれ。主な著書に『天才 勝新太郎』『鬼才 五社英雄の生涯』(ともに文藝春秋)、『なぜ時代劇は滅びるのか』(新潮社)など。本連載をまとめた『役者は一日にしてならず』(小学館)が発売中。

◆撮影/藤岡雅樹

※週刊ポスト2017年6月30日号

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