菅原小春が自身の10代を振り返る。「とにかく作っては戦って、戦っては作ってまた戦っていた」

菅原小春が自身の10代を振り返る。「とにかく作っては戦って、戦っては作ってまた戦っていた」

菅原小春

独自のダンススタイルと圧倒的な存在感で世界的に注目を集めるダンサー・菅原小春。今回は「菅原小春の10代」というテーマでスペシャルインタビューをお届け。

ダンスという表現との出会いや彼女にとって重要な存在である“家族”のこと、そして日本を 出て渡米したことで何を学んだのか――今の表現スタイルに辿り着くまでの過程やターニングポイントを、じっくりと振り返ってもらった。

――菅原さんの少女時代については、これまでもメディアを通して「ダンスに目覚める前は女の子っぽいカルチャーが好きだった」、「髪の毛が長くてミニスカートを履いていたフェミニンな子。リカちゃん人形で遊んでいた」といったエピソードが紹介されてきましたが、そもそも10歳未満の幼い頃って、どんな性格の女の子だったのでしょうか?

「簡単に言うと“わがまま”かな。例えば小学生の頃、お母さんが若い頃に買った、茶色い木で出来たヴィンテージのドレッサーを『真っピンクにしたい!』と言い出して、お父さんと一緒に塗っちゃって。しかも中学生になったら、今度はピンクがイヤだからってまたお父さんと真っ白にしちゃって(笑)。」

――おお(笑)。

「お父さんのサングラスを100円ショップのマニキュアで塗っちゃったこともありました(笑)。でも両親はそんな私に『それやっちゃダメ!』とか全く言わなかった。もちろん悪いことはちゃんと注意をしますけど、自分が心から“こうしたい”と思った行動を止められたことは一度だって無かった。あれやりたい。これやりたい。髪の毛クルクルにしたい。やっぱり短く切りたい。こんな衣装を作りたい。あのコンテストに出たい。何を言ってもサポートしてくれました。

――素敵なご両親ですね。

「しかも特に裕福だったわけでもなく、お金だってそんなにあったわけじゃなかったのに、英語やピアノや空手やテニスといった習い事までさせてくれた。結局どれも身に付かなかったんですけど、とにかく私の感性を活かそうとしてくれていました。

食事の時はテレビを観ず、音楽が鳴っている状態で会話をしながら食べる。いろんな場所に連れていってくれて、よく遊んでいる海辺では表現のアイデアが何度も浮かんできた……そうやっていつも想像力を掻き立ててくれる家庭環境でした。

“何でもトライしてみなきゃ分からないよ?”というメッセージを、強く発し続けてくれていた両親だったと思います。そうして養われた感性は今の自分の活動にすごく活かされている。とても感謝しています。」

――そうして10歳から本格的に踊り始めます。

「学校の行事で、自分で自分の振り付けを考えてカラオケ大会に出場したりしていました。まだダンスは習っていませんでしたが、気付いた頃には踊っていましたね(笑)。自分の表現で誰かと幸せをシェアすることが出来たら。何かの役に立てたら。そんな思いが芽生えてダンスと繋がったので、10歳になった時、ちゃんとやりたいなと思ってスクールに入れてもらいました。」

――そういえばモーニング娘。のファンだったそうですね。

「大好きでした。ただアイドルになりたかったわけじゃなくて、スタッフさんを含めた全体が、プロのクリエイター集団としてカッコ良く映ったからでした。」

――つまりその頃すでに菅原さんの中で息づいていたコレオグラファーとしての資質がモーニング娘。に反応した?

「どうだろう?でもそうなのかもしれない。」

――いわゆる“反抗期”って迎えましたか?

「というか、多分、今でもずーっと反抗期なんじゃないかな? 前ほどヒドくないですけど(笑)、『こうじゃなきゃイヤだ』といったこだわりは今でも強すぎるくらい幾つかあるので。小学生の頃、スカウトされて芸能っぽい事務所に入ったことがあったんです。でも『髪の毛切っちゃダメ!』とか言われて、ストレスで瞼が二重から一重になってしまい、すぐに辞めてしまいました。そのおかげで、ああ、自分は誰かに綺麗とかカワイイとか言われたくて何かを表現する人ではないんだなぁと気付くことができましたね。」

――中学、高校と幾つものダンス大会に出場して頭角を表わしていきます。

「小学校の卒業アルバムに『世界的なダンサーになる』と書いたぐらいだったので、そこから18歳まで、幾つもダンスを考えては、何度もコンテストに出ていました。とにかく作っては戦って、戦っては作ってまた戦っていた。でも勝ち負けを味わうことに違和感を覚えた。別に1位を獲ったら必ずカッコいいってわけじゃない。そんな気持ちも漠然とあったんだと思います。」

――そこで18歳を迎えると渡米に打って出ました。

「親からも『お前は日本にいてもダメだから外へ出てこい』と言われていたので。アメリカで感じたのは、ダンスに絶対的な正解なんてものはないということ。何をしても素晴らしいし、枠から外れてもいい。『自由に生きていいんだ』と再確認することができた。アメリカが自分を原点に戻してくれたんです。もうひとつ教えられたのは『ダンスは言葉の壁を超える』ということ。もちろん英語を自在に話せたらそれが一番理想的かもしれないけど、話せないからこそ、言葉以上の表現をダンスで踊りたいと思った。言葉の通じない外国人さんが目の前にいたら、いい踊りで納得してもらうしかないから。身体表現が言葉を超える瞬間があるということ。それも渡米の収穫でしたね。」

――渡米中に苦労したことは?

「女1人だと危険な思いや怖い思いは何度もしましたし、最初はかなり苦労も悔しい思いもしていたはずなんですが、なぜか全く覚えていない(笑)。例えば英語を覚えたいと思っても、すぐにスラスラと喋れるものではない。だから人の輪の中で会話すること、相手の目を見て話すこと、たくさん一緒に遊ぶことを心掛けました。そうやって培った英語なので、ちょっと文法や単語が間違っていたとしても通じるし、あまり怖い思いもしなくなりました。」

――今ではワークショップや公演で世界各国を回っています。

「身軽なフットワークでずっとここまでやってきちゃったので、『行けば分かるさ』、『踊れば何とかなる』という気持ちですね。自分のフライトが何時の何便なのかいまだに毎回よく分からないし(笑)。ただ、自分がいいダンスをすれば必ずいいリアクションが返ってくる。反対に自分が『ダメだ』と思っている時は、そういったダメなリアクションが返ってくる。ダンスを通じて世界の人々と心を通わす冒険ですね。そして今もその冒険の真っ最中なんです。」

撮影●オノツトム 取材・文●内田正樹 ヘア●KENICHI メイク●SADA

写真提供●VAW栄光ハイスクール

この記事の続きを読む