プロレス、F1、夜のヒットスタジオ…古舘伊知郎が“マイク一筋40年”のアナウンサー人生をプレーバック!

プロレス、F1、夜のヒットスタジオ…古舘伊知郎が“マイク一筋40年”のアナウンサー人生をプレーバック!

週刊ザテレビジョン創刊35周年企画のスペシャル連載第2弾には、フリーアナウンサー・古舘伊知郎が登場!

週刊ザテレビジョン創刊35周年のメモリアルとして、本誌を彩ってきたテレビスターたちがテレビとの思い出を語るSPインタビュー企画を連載中。第2弾に登場するのは、マイク一筋40年のフリーアナウンサー・古舘伊知郎だ。

’77年、テレビ朝日にアナウンサーとして入社以来、「ワールドプロレスリング」(テレビ朝日系)などを担当し、鋭敏な語彙センス&ボルテージの高い過激さで独特の“古舘節”を確立。'84年のフリー転身後は司会者としてあらゆるジャンルのバラエティー番組に出演し、'04年には「報道ステーション」(テレビ朝日系)で報道キャスターも務めた。そして'16年春、12年間務めた「報道ステーション」を離れ、古巣であるバラエティー番組の世界に帰ってきた古舘。今やテレビ界随一のしゃべり手と称される彼のテレビ人生は、この国が“戦後”を脱し高度経済成長期へと向かう50年代末のある日、“魔法の箱”が彼の家に届いたことから始まったという。

■ モノクロのプロレス中継に夢中だった少年が実況アナウンサーに

「まさに映画『ALWAYS 三丁目の夕日』('05年)で描かれた時代です。幼稚園のころ、それまで街頭やおばあちゃんの家でしか見られなかったテレビが、自分の家にやってきた情景を覚えています。当時のテレビは今思うと、モノクロだった映像に頭の中で色を塗るという行為が、ワクワクして楽しかったですね。プロレス中継でも、銀髪鬼フレッド・ブラッシーがヤスリで研いだ歯で日本人レスラーの額を切って流血させる、そのどす黒いモノクロの血を見た時の想像は、後にカラーテレビで見た真っ赤な血より、ずっと怖く感じました。赤い血を『あ、違う』と思ったほどです。ブラウン管式は厚みもあったので、その"魔法の箱”の中に入れないものかと考えるわけですね。映画『リング』(’98年)の貞子はテレビから出てきましたけど、まさに“逆貞子”ですね」

’64年の東京五輪は、小学校4年生のころ。同級生がプロレスごっこをする様を実況して、将来への研さんを積んでいた逸話は有名だ。

「僕がテレビ朝日に入社した’77年は、モスクワ五輪(’80年)独占中継のためスポーツアナを多く採用した年だったんです。入社試験で映像に合わせて実況するとき、叫びまくったものだから、その時点から賛否両論。運良くプロレス担当になれましたが」

そう謙遜するが、「ワールドプロレスリング」では、膨大なボキャブラリーに過剰な修飾表現、“事件”が起こった際のアドリブ力が“古舘節”と話題を呼び、あっという間に人気アナの座に上り詰める。

「事前にキャッチフレーズや言い回しを用意してメモったり、頭の中で繰り返し練習したりする準備は大切でしたね。普通に実況すると『今、(アントニオ)猪木選手が入場して参りました。3本のロープをくぐり抜けて行った』となるのを、逆にしたらどうかと。『3本のロープが、今猪木を迎え入れんとしております。マットが揺れています』って、揺れてないんです、嘘なんですけれど、それは事前に練っておくんですね。あり得ない擬人化をしていく。と言っても、用意していた内の7〜8割はボツになりましたけどね」

こうして「プロレス的言語表現」のパイオニアとなった古舘。やがて彼にとってのプロレスは、実況の対象にとどまらず、物の見方にまで影響を与える大きな礎となっていった。

「プロレスの、破天荒で想定外、建前があるのに裏もある、ケレン味というんですか。それが『世の中模様』だと思ったんです。だって世の中、きれい事を言っても必ず裏があるじゃないですか。不倫はダメ、マナーは大切、そう言ったって人間、時折はみ出したりする。清廉潔白には生きられない人間の、危うさの上に成り立っている世の中でしょ。プロレスは容易にそこを超えて、現実やだましを魅せてくれる。要はそういう禍々しさやカラクリを楽しんじゃおう、ということです。ニュース番組をやっているときも、どこかにそういう視座は持っていましたね」

■ 実況アナとして一世風靡&フリー転身でさらなる躍進

古舘に最初の転機が訪れたのは、'84年。構成作家・腰山一生氏との出会いから、フリー転身を考える。

「もう彼は亡くなってしまいましたが、同い年で。ある番組で仲良くなって意見交換するうちに、彼のような作家とコラボ出来たら、自分の領域が広がるだろうな、スポーツ中継だけでなく、バラエティや、いろんなことをやりたいなと思えたんです」

その夢は、次々に現実のものとなる。テレビ朝日退社後は「笑っていいとも!」(’82〜’14年フジ系)のレギュラーを皮切りに、あらゆるジャンルの番組に出演。プロレスファンにのみならず、新世代の司会者としてその名を全国にも轟かせるようになる。プロレスと並び今も語り継がれるのはフジテレビの「F1グランプリ」(’89〜’94年)での実況だ。

「あれはF1というものをあまり知らないまま、見切り発車で出ちゃってウケ狙いばかり言ってましたから、批判もすごかったですけどね。フェラーリのピットイン時に『10秒以内にタイヤ4本を交換せねばなりません。それはまるで、30分を超えたら700円取られてしまうピザの宅配業者と全く同じであります』とか。F1好きの方は『ピザは頼んでない!』って話ですよね、怒られました。フジテレビに1200本の抗議電話殺到、という“金字塔”を打ち立てましたから。局アナを抑えてぶっちぎりですよ(笑)」

■ 生放送で培った対応力で紅白司会を3年連続担当!

快進撃はどこまでも続く。音楽番組が百花繚乱だった'80年代を象徴する「夜のヒットスタジオ−」(フジ系)で芳村真理とコンビを組んだ際には、持ち前の“生放送対応力”を見せつけた。

「当時『ザ・ベストテン』(’78〜’89年TBS系)は新興勢力という感じで原宿のカフェだとすると、こっちは駒形どぜう(東京・浅草で200年続くドジョウ店)のような老舗で。大御所然として王道らしく、大掛かりなセットを造り込んでやっていましたね。それが2時間の内にめまぐるしく入れ替わるんです。あるとき、中森明菜さんの歌前に『あと15秒ぐらいでセットが完成するかな』って横目で計算しながらトークをしていたら、そっちに気が取られて、全然違うタイミングで『なるほど』なんて言ってしまうわけですよ。そうこうしている内に歌をどうぞとなったら、天井に乗って次の曲用の建込みをしていた美術さんのビーチサンダルが、明菜さんの顔の前にバン!って落ちてきて。明菜さん、驚きますよ。でも『あ、びっくりしないでスタンバイを。今ちょっとゴム草履が落ちて来ました。これを天の配剤とでも言うんでしょうか。歌は「難破船」です』と続けてね、もう大変でした。真理さんは時間読まずに『伊知郎ちゃんに全部お任せ』って (笑)、ありがたいけど、アップアップでしたね」

そんな百本ノックが功を奏したか、’94年、ついにはNHKの紅白歌合戦にて、民放アナウンサー出身初の司会(白組)という栄誉にあずかる。

「登山家が一度はエベレストを落としたいように、司会者も一度は紅白をやってみたいものですからね。やっている間は長さもあって『夜ヒット』の比じゃないほど苦しいんですが、終わるとやはり、名誉ですね」

音楽番組で“頂点”を極めるとともに、実況の手腕をいかんなく発揮した「筋肉番付」(’95〜’02年TBS系)や、クイズ番組「クイズ赤恥青恥」(’95〜’03年テレビ東京系)、一般人参加型バラエティ「しあわせ家族計画」(’97〜’00年TBS系)など、多岐にわたるジャンルに挑戦。なかでもトーク番組「オシャレカンケイ」(’94〜’05年日本テレビ系)でゲストからあの手この手で秘話を引き出す軽妙な話術は印象的だ。

「この番組、しゃべらない人は大変でした! そればかり記憶に残っています。関取時代の貴乃花親方などは本当に物静かで、僕は苦し紛れに『しつこく聞く俺の方が悪いんです。じゃ俺の話をします。こんな恥ずかしいことがあったんですよ…どう思いますか?関取』って言ったらようやく『この前、部屋でこんな恥ずかしいことがあって』って重い口を開いてくれて。あの時はもう、完全な捨て身でしたね」

■ 報道の世界に進出して新たな“古舘節”を模索!

あえて相手を刺激する言葉を投げかけ、反応を見て本音を引き出す。いかにもプロレスを通ってきた古舘流だが、2度目の転機となった'04年の「報道ステーション」(テレビ朝日系)就任以降は、そんなケレン味たっぷりの古舘節を建前上“封印”。バラエティーへの出演も一切断ち、報道キャスターとしての“古舘的あり方”を追求することになる。

「先ほど、実況を通じてプロレス的視野に目覚めたと言いましたが、それが『報道ステーション』で世の中を見渡す視野へと見事につながったんです。物事は表と裏でひとつでしょう? だから今流れているニュースにも背景があって、表をまるまるは信用しないことですね。ただ報道では、バラエティーと違って自分の想像でものを言えないんです。見ている人に誤解を与えてはいけませんから。だからよく使っていたのは、嫌なフレーズですが『ここからは僕の妄想に過ぎないと思うんですが、こういうことってないですか?』と解説者の方に聞いてみる。否定されたら『そうですか、妄想ですか』と息をついて、次のCMなり女性アナウンサーなりに切り替わる、その瞬間に何かを込める(笑)! それはもう、僕の呼吸をいつも読んでくれたスイッチャーさんに大感謝でしたよ」

そして'16年春、結果的に12年という長い月日を“報ステ”に捧げた彼が、バラエティーの舞台にカムバック。その3度目の転機に、手ぐすね引いて待っていた世のバラエティー制作陣はさぞや沸き返ったことであろう。各局の人気番組をゲストとしてハシゴする彼の喜々とした姿は目を引いたし“解禁”後まもなく「フルタチさん」(’16年〜’17年フジ系)をはじめとするレギュラー番組が次々に決まったのだから。

「やめた開放感で、調子に乗ってましたね〜。でも正直、浦島太郎ですよ。12年間ずっとニュース漬けでしたし。当たり前ですよね、それくらいやっていないととても自分がこなせるような番組じゃなかったし、そこに埋没させてもらっていたんでね。イマドキのバラエティーのテンポ感、編集、スタジオをわーっと芸人さんが埋め尽くす感じとか、ちょっとまだ慣れていないところがあります」

だが長い間、発露を得られず溜まりに溜まっていた彼のアイデアや火種は、これからも爆発の余地がありそうだ。

「まだ欲がたんまりあるんです。出来る限り現役でしゃべりながら、コトンと死んでいきたいなっていう、変なセンチメンタリズムも。しゃべりながら死んでいけたら、最高じゃないですか。死んでいるのに気づかないで『さぁ冥土の旅に今、旅立っております』って実況したいくらいですよ。『いよいよ出棺であります。最期の花を手向けてください』とかね。そのくらいの欲はあるんですが、さて極東アジアの安寧も守られないこの混沌の中で、大国同士が今どんな駆け引きを行っているのか、世の中の表と裏、全く何が何だか!ってなかで、テレビの未来を予見なんて、出来ないんですよ! もう、バラエティーの迷子です。でも自分はたまさかスポーツ実況だ、ニュースだ、歌番組だ、クイズの司会だと、いろんなことをさせていただいてきたので、寸胴鍋で40年かけた、いい“ごった煮”になってはいると思うんですよ。居酒屋で煮込みを食べてきた吉田類さんに来てほしい!みたいな。だからニュースの後にトークやって、歌、ドラマ、またニュースっていうのを1枠でやるような、ごった煮的な番組も面白いかもしれませんね。企画書はまだないけど、欲だけはあるんで(笑)、やれる所まで、やって行きたいですよ!」

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