『ゆとりですがなにか』続編が放送...岡田将生も怒った、年長者による不当な「ゆとり世代」差別

『ゆとりですがなにか』続編が放送...岡田将生も怒った、年長者による不当な「ゆとり世代」差別

日本テレビ『ゆとりですがなにか 純米吟醸純情編』番組公式ページより

 2016年4月クールで放送されていた『ゆとりですがなにか』(日本テレビ)の続編『ゆとりですがなにか 純米吟醸純情編』が、先週から2週連続で放送されており、本日その2週目が放送される。

『ゆとりですがなにか』は、宮藤官九郎が脚本を担当し、彼が初めて挑んだ社会派ドラマ(クドカン本人は「社会ドラマ」と主張)で、ゆとり第一世代にあたる1987年生まれの坂間正和(岡田将生)、山路一豊(松坂桃李)、道上まりぶ(柳楽優弥)の3人を中心に、仕事や結婚などに悩みながら成長していくさまを描く青春偶像劇である。続編となる『純米吟醸純情編』では、三十代に突入した彼らが、出世や出産といった、それまでとはまた違った悩みに直面していく。

『ゆとりですがなにか』の作品テーマの主軸にあるのは、そのタイトル通り、「ゆとり」を口実とした年長者世代による不当なレッテル貼り、そして差別である。作中では、会社の上司などが主人公たちに「これだからゆとりは」などといった心ない言葉を無自覚に叩き付けるシーンなどが登場。劇中のキャラクターたちは、それに怒りを覚えながらも、懸命に日々を生き抜いていく。

 本サイトでは、昨年連続ドラマが放送されていたとき、「ゆとりは生温い指導要領だったから勉強ができない」や「ゆとり世代は職場の飲み会にも来ないし協調性がない」といったレッテルが、実はステレオタイプから来る誤った認識であり、そういった差別の不当さを訴えた記事を配信したことがある。

 ここに再録するので、是非読んで、世代間闘争を煽るような若者差別がいかに不毛で間違っているものか確認してほしい。
(編集部)

********************


●岡田将生が『行列のできる法律相談所』で口にしたゆとり差別への怒り

「何で「ゆとり」って言われるんだろう。全部上の世代の人たちがやってる......、ふざけるな!」
「(平成元年生まれだと言うと)「あ、平成なんだ〜」みたいな、そういう(軽くバカにした)言い方をする方がけっこう多くて......、何だよお前......」

 宮藤官九郎初めての社会派ドラマとして話題の『ゆとりですがなにか』(日本テレビ)に出演中の岡田将生は、4月17日放送の『行列のできる法律相談所』(同)でこう吠えた。

『ゆとりですがなにか』は、ゆとり第一世代にあたる1987年生まれの坂間正和(岡田将生)、山路一豊(松坂桃李)、道上まりぶ(柳楽優弥)の3人が、「ゆとり」世代ゆえの生きにくさに悩み苦しむながらも成長していく青春群像劇。

 就職活動の時期にリーマンショックが起こり、苦労して内定をつかみ取った就職先だったが、入社してすぐに3.11が起きて大混乱に──。そんな彼らは他の世代と比べても苦労を重ねた年代のはずなのに、「ゆとり」という不名誉なレッテルを貼られ、会社では上司からことあるごとに「これだから「ゆとり」は......」と愚痴を言われる。『ゆとりですがなにか』は、「ゆとり世代」と呼ばれる若者たちが抱えるこのような「納得のいかなさ」を軸に物語が展開されていく。

 しかし、なぜ彼らは「ゆとり世代」と呼ばれ、バッシングを受けることになったのか。

〈「ゆとり世代」という呼び方は正しいのでしょうか、次世代バッシングではないのでしょうか。「ゆとり」の意味を吟味しないまま、安易に使っていないでしょうか。次世代の元気がなくなるようなことをなぜ平気でするのでしょうか〉

 筑波大学人間系(大学院人間総合科学研究科)准教授の佐藤博志氏は、同大学准教授の岡本智周氏との共著『「ゆとり」批判はどうつくられたのか 世代論を解きほぐす』(太郎次郎社エディタス)のなかで、このように綴っている。

 佐藤氏の言う通り、「ゆとり」という言葉の意味をしっかりと認識して使っている人は、実はほとんどいないだろう。

●「ゆとり世代」へ誤った認識、「ゆとり教育」は本当に間違いだったのか

"「ゆとり世代」から週休2日になり、円周率も3.14ではなく3で教えるようになった。結果として学力も下がってしまったことへの反省から、現在では学習指導要領を改善し、学力もV字回復を遂げている。「ゆとり世代」は、教育行政の方向性を間違えたことによって生まれた失敗作。彼ら彼女らは、勉強ができないだけでなく、協調性もない。飲み会に参加しないのをはじめ、会社の方針にも従わない──"

 現在、「ゆとり世代」をバッシングしている人々が共有しているイメージは、だいたいこんなところだろうか。佐藤氏が〈「ゆとり」の意味を吟味しないまま、安易に使っていないでしょうか〉と警鐘を鳴らした理由はここにある。人々が共有するこれらのイメージ、実はまったくの大嘘なのだ。

 どの世代が「ゆとり」なのかというはっきりした定義は存在しないのが実情だが、一般的には、98年改訂学習指導要領で学んだ世代が広い意味での「ゆとり世代」であるとされ、87年4月2日生まれから2004年4月1日生まれまでの人のことを指している。

 この1998年改訂学習指導要領は、従来の詰め込み型教育から脱し、〈自ら学ぶ意欲、思考力、判断力、表現力などを重視し、生涯にわたる学びの基礎となる自己教育力を中核とし〉た「新学力観」を基本原理としてつくられた。これにともない、総合学習の時間が設けられたり、土曜日の半日授業がなくなるなどの施策がなされた。

 言うまでもなく、これら詰め込み型教育からの脱却は、国際化の進む社会のなか、単なる受験テクニックを教える授業ではなく、自分で考え応用の利く学力を身に付けさせるべきという、80年代から継続して求められていた方向性である。

 しかし、その論調は、2002年ごろを境に大きく舵を切ることになった。その変化に大きな影響を与えたのが、00年実施、01年に調査結果が公表されたPISA(OECD加盟国学習到達度調査)である。この調査で日本は、数学的リテラシーは1位だったものの、読解リテラシーが8位に終わる。この結果がセンセーショナルに報道されることでそれ以前からくすぶっていた「ゆとり教育」批判に火がつき始めるわけだが、さらに、03年実施の同調査では、数学的リテラシーは4位、読解リテラシーは12位まで急落。学力低下への危機はさらに募ることになる。

 しかしその後、授業数が増加されるなど「ゆとり」からの脱却とされている08年改訂指導要領が出された後の12年実施の調査では、数学的リテラシーは2位、読解リテラシーは1位までV字回復。これにより、ますます1998年改訂学習指導要領で学んだ生徒たちは「ゆとり世代」というレッテルを貼られることとなっていく。

●学習到達度調査でV字回復を達成したのはゆとり世代だった

 ただ、この2012年のPISAの対象となった当時高校1年生の生徒たち、実は、「ゆとり教育」を受けた生徒たちなのである。彼らがどんな教育を受けたか軽く振り返ってみたい。まず、彼らが小学校に進学するのは03年だが、その段階では1998年度版の学習指導要領が使われており、この世代は入学の時から「ゆとり教育」を受けてきたということになる。

 そして、彼らが中学に上がる2009年の前年、08年に指導要領の改訂がなされているわけだが、この08年改訂指導要領が実際の学校現場で実施されるのは、中学校においては12年度からである。つまり、V字回復を成し遂げた生徒たちは、完全に「ゆとり」で学んだ生徒たちなのであった。「ゆとり教育」からの脱却と、PISAのV字回復は実はなんの関連性もなかったのだ。

 では、なぜこのV字回復が成されたのか。それは、教育現場において、PISA対策がとられていたからである。PISAの実施機関であるオーストラリア国立教育研究所は、PISAの目的を〈生徒が学校を超えた生活場面で生産的かつ順応して参加できるようなコンピテンシーを測定すること〉としている。つまり、PISAとは単なる詰め込みではなく、知識をいかに現実の生活に活用していくかを問うテストであり、それはこれまでの日本の学校では教えられていないものだった。

 そこで教育現場ではPISAのような設問に答えられるような教え方を徹底した。07年度からは全国学力・学習状況調査でも、PISA型の〈活用する力〉を問うB問題が出題されるようになっており、これが授業におよぼした影響は大きかった。事実、実際の学校現場に出向き授業を見学することも多い佐藤氏は「あっ、PISA型だ」と思う授業に出会うことが何度もあったと言う。

 また、そもそも、1998年改訂学習指導要領で学んでいた生徒たちの学力が本当に落ちていたかどうかにも疑問が残る。事実、TIMSS(国際数学・理科教育動向調査)の国際順位は、99年から2011年にいたるまでほとんど変わらずに上位の成績を取り続けているからだ。

 ということで、「ゆとり」バッシングの理由とされている「学力低下」がまったくの誤解であることがよく分かった。

●世代や地域でのカテゴライズが生み出す印象論と差別

「新人類」をはじめ、若者たちを世代でくくり、年長者がバッシングする構図は昔から繰り返されてきたことではある。ではあるのだが、「ゆとり世代」の悲劇は、彼らをカテゴライズするために使われた「受けてきた教育」というファクターによって、他の世代をカテゴライズした要素とは違い、単なる印象論でなくあたかも科学的根拠に基づいているかのように受け止められ、しかもマイナス面のみが語られていることにある。

〈団塊にせよ、新人類にせよ、くくりをプラス評価として定義しなおす、ということがされてきたように思います。団塊であれば「しかしパワフルだ」、新人類であれば「たしかに新しい感覚をもっている」と。でも、「ゆとり世代」だけが洒落で終わらず、ぬきさしならない印象になってしまっている。こうした世代論が自分たちに突きつけられたとき、そこにプラス面を定義しなおす、ということができるのかどうか〉

 また、学力とはまったく関係のない、「ゆとり世代」に対する行動様式批判として、「物欲がなかったり、大きな野望をもっていなかったりと覇気がない」「飲み会に参加しないなど、会社への忠誠心が足りない」といったものがあるが、無論、それは世代全体の特徴ではなく「人による」ものだし、もしもそのような特徴があるとしても、それは「ゆとり教育」が原因ではなく、長引く不景気であったり、雇用の安定しない社会状況といったものの影響が関係しているのは言うまでもない。そのうえで、前述の岡本氏はこう語る。

〈人間が社会生活をともにしていくにあたって、他者を認識するとき、社会的カテゴリーで説明することは避けがたくあるだろうと思います。年代・世代をそのまま名指す文脈のなかでそのカテゴリーが使われているときには、ただの区別です。たとえば、何年生まれから何年生まれの人たちはこの学習指導要領で学んだという事実は、ある一つのカテゴリーを確かに構成するし、その人たちが受けた教育内容がこうだったから、つぎの段階の教育ではこういうことを準備しましょうといった検討は必要かもしれない。しかし、働き方や人づきあいのあり方など、別の文脈にまでその区別が持ち越され、しかもその区別を根拠に不当にマイナス評価をされるようなことがあるなら、それは区別ではなく差別になっている。社会的カテゴリーが、もともとそれを発生させた文脈を越境して、別の文脈にまで濫用されてしまった状態が、差別という現象なのではないでしょうか〉

 単なるネタじゃないか、と考える向きもあるかもしれない。しかし馳浩文科相が「『ゆとり教育』が『緩み教育』というふうに間違った解釈で現場に浸透してしまった。どこかで『ゆとり教育』との決別宣言を明確にしておきたいと思った」と「脱ゆとり宣言」をなるものを行い、為政者みずから誤解を垂れ流している現状だ。「自分はその世代だけど小学校から私立だったから、ゆとりじゃない」などと真顔で弁明する者もいる。

『翔んで埼玉』の埼玉disに代表される地域いじりしかり、差異化のゲームやカテゴリーの濫用は、いとも簡単に差別に転化する。そのことにもう少し敏感になってもいいだろう。
(井川健二)

関連記事(外部サイト)