デビュー60周年を迎えた橋幸夫「こんな時だからこそ夢を持たないと」

「デビュー時に、レールにうまく乗れたことがありがたいよね」と語った橋幸夫。学生時代は空手、柔道、ボクシングに熱中した(カメラ・関口 俊明)

 歌手の橋幸夫(77)が、5日にデビュー60周年の記念日を迎えた。1960年に「潮来笠」でデビューし、1日に発売された60周年記念曲「恋せよカトリーヌ」までシングル180枚以上をリリース。吉永小百合(75)とのデュエット曲「いつでも夢を」や「霧氷」「子連れ狼」などでヒットを飛ばした。遠藤実、吉田正という昭和の2大作曲家との思い出や、50周年時に引退を考えていたことなどを語った。(加茂 伸太郎)

 デビュー60周年の大御所にも、コロナ禍は直撃していた。「初めてですね、こんなに長く休みがあったのは。しかも外に出られない。すごいことになったなと」

 外出自粛期間中は不自由はあったが、有意義な時間になった。橋は「好奇心旺盛が僕の持ち分だからね」とニッコリ。「出演した(60年代の)時代劇のビデオを見直したり、歌を聴き直したり。原点回帰の意味でも、忘れていたことを随分と思い出した。とってもいい機会になりましたね」

 橋を語る上で、国民栄誉賞を受賞した遠藤実、吉田正という昭和の2大作曲家の存在は不可欠だ。中学2年の時から遠藤さんの歌謡教室で学び、その後、60年に吉田さん作曲の「潮来笠」でビクターからデビューする。

 当時、作詞家・作曲家はレコード会社との専属契約制度だった。遠藤さんは日本コロムビア専属。その門下生の橋は同社のオーディションを受けるが、落選の憂き目に遭う。遠藤さんの計らいでビクターのオーディションで合格をつかんだが、それは遠藤さんの下から離れ、ビクター専属の吉田門下生になることを意味していた。

 「コロムビアでデビューしたかったですよ。でも、それがかなわなかったことで、吉田メロディーとの出会いにつながった。人生は巡り合わせですね。僕にとっては両先生とも恩師。どちらもすごい方です」。180枚以上のシングルを発表し、デビューから5年で74枚をリリース。吉田さんとのタッグでは、吉永とのヒット曲「いつでも夢を」や「恋をするなら」「あの娘と僕」を生んだ。

 「吉田先生じゃなければ、あれほどの歌のバリエーション、レパートリーはできない。60年はおろか、僕も20年、いや10年もったかなって思う。波乱万丈なんて言うけれど、僕の場合、波乱はなく、毎日がうれしい出来事に転換していった。苦節もなかったし、幸せ者だと思いますね」

 遠藤門下としてコロムビアからデビューしていたら、芸名が「舟木一夫」だった―というのは有名なエピソード。遠藤さんから「舟木一夫」の芸名を聞かされていたが、デビューが実現せず幻に終わった。結局、ビクターの師匠・吉田さんが提案した本名の「橋幸男」から一字変えた「橋幸夫」に決まった。

 「こればかりは運命だけどね、『舟木一夫』でデビューしていたら、全く違った人生になっていただろうね」。デビューから3年が過ぎた63年、タクシーの車中でラジオから流れる「高校三年生」を聴いた。「コロムビアからデビューした舟木一夫さんでした」というアナウンス。「何だ? 舟木一夫? 聞いたことあるなって。俺(の芸名)じゃねえかって、タクシーの中で大笑いでしたよ」

 その舟木一夫(75)と、64年にクラウンレコード(現・日本クラウン)からデビューした西郷輝彦(73)と共に「御三家」と呼ばれた。2人の存在は「弟分。互いに忙しいから年中会うこともなかった」が、レコード会社の“代理戦争”でもあった。

 「ビクターとコロムビアという強敵同士が、ケンカをしていた。そこにクラウンができて、レコードメーカー3社が競い合って時代を作ったんです。勢いとバイタリティーが業界を動かしていた時代。舟木君、西郷君のマネジャーは、僕を目標に『それ蹴落とせ、橋を』とやっていた。『御三家』は(雑誌の)『平凡』が付けたんだけど、うまく商売に使ったよね」

 半世紀以上の歌手生活。自身の描く“最終ゴール”はどこか。「実は50周年の時に引退しようと思ったんだ」。淡々とした口調は、どこか達観しているようでもあった。「さんざんコンサートもやって来たしね、2010年にはNHKホールで芸能生活50周年記念コンサートもやった。(当時は)ここでピリオドを打とう、(表舞台から)徐々に引いていこうと思っていた。気がついたら55周年、60周年と来ちゃった…。だったら『消えるまでやってやるか!』と今はなりました」

 生涯現役かと思えば、「そんなことは全然思っていない」とやんわりと否定。「『自然といなくなったな』と、皆さんに思ってもらってもいい。その方が格好いいかなとか、この休み期間中に考えたりもしました。どういう所までを『現役』というかは分からないけど、僕自身がどれだけ楽しんでやれるかが大事だね」

 大病はない。健康維持のため、日々のウォーキングを欠かさない。「最低30〜40分。時間がある時は1時間を超すぐらい。モチベーションだけじゃ耐えられない。しんどいのはしんどいよ、77歳だから(笑い)。同級生はバンバンと死んでいるしね。ストレッチも取り入れ、自己流でやってみるように心掛けているよ」

 2月1日から事務所もJVCケンウッド・ビクターエンタテインメントに復帰し、同社内の「3rdWing」所属となった。名前の由来には、この世に生を受けた時の「命の翼」、歌手デビューを果たした時の「希望の翼」、60周年を迎えて第3の「夢の翼」で大きく羽ばたく―という思いが込められている。

 「翼で言えば、最近、自宅に鳥がたくさん飛んで来るんだよ。トンビが風に乗って自由に飛んでいる。どんな心境かな〜って思うね。僕の場合『いつでも夢を』から始まり、『夢』は縁のある言葉。ありふれた言葉だけれど、この年代でもう1回、夢を持ちたい。異色の新人の作り手みたいなことはやりたいね。新型コロナで試練が来ている、こんな時だからこそ夢を持たないといけないと思うんだ」

 ◆橋 幸夫(はし・ゆきお)1943年5月3日、東京・荒川区生まれ。77歳。呉服屋の9人きょうだいの末っ子として誕生。中学2年から遠藤実さんに師事。60年「潮来笠」でデビュー。日本レコード大賞新人賞、NHK紅白歌合戦初出場(通算19回出場)。62年「いつでも夢を」、66年「霧氷」で2度のレコード大賞。2017年末に凡子夫人と離婚。18年に一般女性と再婚。血液型A。

 ◆60周年記念曲はテリー伊藤が作詞・作曲・プロデュース

 60周年記念曲「恋せよカトリーヌ」は、橋の大ファンというテリー伊藤(70)が作詞・作曲・プロデュースした。橋は「バイタリティーがすごい。全てお任せした」。楽曲について「よく聴くとラブソング。人間にとって恋をすることは大事なんです。恋をしている時は青春の真っただ中。生き物として一番美しい瞬間」と語った。「『77歳になって、この歌が60周年の記念曲かよ』という人もいると思う。昔に帰るみたいな人生歌を歌う人が多いから。テリーさんの歌はそれを飛び越えて(歌詞にも)『銀河の果てまで夜遊びしましょう』と。格好いいですよ。無理に乗せられちゃったかな(笑い)」と満足げに話した。

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