ダンプ松本、母を守るためプロレスラーに。先輩から壮絶ないじめ受けるも「必ずトップに立ってやる」

1980年代、金髪と悪魔のような派手なペイントメイク姿で「極悪同盟」を率い、人気絶頂の「クラッシュギャルズ(長与千種さん&ライオネス飛鳥さん)」との反則を織り交ぜた激しい戦いで女子プロレス旋風を巻き起こし、日本中を震え上がらせたダンプ松本さん。

ヒールになるなら徹底的にと私生活でもヒールを演じることに徹し、「日本で一番殺したい人間」と称されるほど嫌われたのも本望だったと話すが、極悪女王になるまでは先輩レスラーからいじめにあっていたという。

1988年にプロレス界から引退後はタレントとしてドラマや舞台に多数出演。2003年に現役復帰して以降はプロレスラーと芸能活動を両立しながら活躍。10月11日(月)には後楽園ホールで盟友・長与千種さんをはじめ、人気レスラーが多数出場する『極悪祭 ダンプ松本 41周年 還暦大会』を開催するダンプ松本さんにインタビュー。

25歳頃

◆母を苦しめる父親を懲らしめるために…

1960年、埼玉県熊谷市で松本家の長女として誕生したダンプさん。3歳のときに妹が生まれ、四畳半一間のアパートに親子4人で生活していたという。

「うちは父親がダメだったからね。定職にもつかず、酒、バクチ、女…遊びの限りを尽くして、一年中ほとんど家に帰って来なかったんだよね。家にお金も入れてくれないし。だから母が座布団やかけ布団の綿を詰める内職をして家計を支えて、あとアパートの管理人だったから家賃がタダだったから何とか生活できたんだと思う。

自分が小学校に入る頃には母は近所の工場に勤務するようになったから、家計は何とかましになったけどね。父親なんていなくなってしまえばいいとずっと思っていた。たまに家に帰って来ても酔っ払って母に苦労をかけるだけだったし、憎悪の対象でしかなかった。

大好きな母を苦しめるこの男をどうにかしてやりたい。殺してやりたいと思うほど憎んでいたからね。そのためには自分が強くなるしかないと思った」

−それで中学校に進んでから運動部に?−

「そう。バスケットボール部に入ったんだけど、基礎体力運動が厳しすぎてすぐに辞めて、次に入ったのが水泳部。夏は1日中プールで泳いで真っ黒になっていたね。絶望的な生活だったけど、泳いでいるときはいやなことを全部忘れることができたから、ある意味救いだった」

−プロレスとの出会いは?−

「中学2年、14歳のときにテレビの女子プロレス中継で、当時人気絶頂だったマッハ文朱さんが試合に負けた後、リングで泣きながら『花を咲かそう』を歌っている姿に衝撃を受けたんですよね。

当時、マッハさんは史上最年少の16歳で全日本女子プロレスの最高峰だったWWWA世界シングル王者になったんだよね。自分は女子プロに夢中になって、熊谷の近くで試合があるときは会場に見に行ったし、テレビ中継も夢中で見ていた。それで、自分は女子プロレスラーになるしかないと思うようになったんだよね」

※ダンプ松本プロフィル
1960年11月11日生まれ。埼玉県出身。1979年、全日本女子プロレス新人オーディションに合格。1980年、本名の「松本香」でデビュー。1983年、デビル雅美さん率いるヒール軍「ブラック・デビル」の一員に。1984年にリングネームを「ダンプ松本」に変更し、クレーン・ユウさんと「極悪同盟」を結成。金髪に派手なペイントメイクを施し、人気急上昇中の「クラッシュギャルズ」の対抗馬として注目を集める。竹刀やチェーン、ハンマー、パイプ椅子などあらゆる凶器を多用してヒールファイトを展開。クラッシュギャルズのファンからの憎悪を一身に浴びる存在となり、日本中に女子プロレス旋風を巻き起こす。1988年にプロレス界から引退後はタレントとして活躍。『めちゃ×2イケてるッ!』(フジテレビ系)、『さすらい刑事旅情編II』(テレビ朝日系)、舞台・CMにも多数出演。現在はプロレスラーと芸能活動を両立しながら活躍中。

◆プロレスラーになるため『スター誕生!』に挑戦

中学3年生になり、進路を考えなければならなくなったダンプさんの頭の中には全日本女子プロレスに入ることしかなかったという。

「中3の夏に全日本女子プロレスの事務所に電話したら、『オーディションは年1回で4月にしかやっていないから、来年来てください』って言われて。それだと高校に行かなくちゃいけないじゃないですか。

だから、オーディションを受けずに女子プロに入る手段はないかなと考えて思いついたのが、マッハさんがプロレス入りする前に受けた超人気番組『スター誕生!』(日本テレビ系)。オーディションで誰かの目に留まれば、女子プロレスへの道が開けるかなって。結局ダメだったけどね(笑)」

1975年、高校に進学することになったダンプさんは、東京・目黒の全日本女子プロレス道場に少しでも近い学校に行きたいと大宮にある高校を選び、アーチェリー部に入部することに。

「行動力はあるみたい。昔からこうだと思ったらやる。あと決断力。人にどうしたらいいかとか聞かないで、自分の判断で何でも決めるというか、人に言われて迷うことはないかな」

−高校ではアーチェリー部に?−

「そう。バレーボールやソフトボールを高校から本格的にはじめようと思っても、中学から3年間まじめにやっている子には勝てないからね。3年間の差というのはすごく大きい。一生懸命やってもレギュラーになれないものをやっていても何もならないから、全員がほとんどゼロからスタートする競技はアーチェリーとゴルフだったんですよ。

それでアーチェリーにしたんだけど、今思うとゴルフにしておけばよかったって本当に後悔している。歩くのがイヤで、アーチェリーなら立っていればいいかと思って決めたんだけどね(笑)」

−ゴルフはいろいろとお金がかかるのでは?−

「アーチェリーもお金がかかるんですよ。弓は1本2千円くらいするし、ちょっとでもずれたら買い替えないといけないから同じくらいお金がかかるんだよね。だけどアーチェリーのほうは歩かなくていいから(笑)」

−歩いたり走ったりするのは苦手でした?−

「苦手。太っていたからね。プールの中だったら何キロでも全然平気で泳げるんだけど、歩いたり走るのは昔から苦手でした」

−アーチェリーは結構腕力を使うのでそれは後にプロレスをやる上でプラスになったのでは?−

「それはないですね。腕力にはプラスにはならないけど、集中力はプラスになりました。何を言われても精神統一みたいな感じでやらないといけないので、それはプロレスにも役立ちました。アーチェリーをやっていたおかげで、人の言っていることが耳に入らなくなるから。客席の声は聞こえないようにという感じでプロレスに集中できましたからね。

でも、ゴルフだと、後々の人付き合いにも役立ったかもしれないじゃない? アーチェリーだと、『今度一緒に行こうか?』なんてことは絶対にないからね。やっぱりゴルフ部にしておけばよかったなあ。もしかしたら女子プロゴルファーになって賞金を稼いで大金持ちになっていたかもしれないじゃない(笑)」

1978年の冬にはフジテレビが主催した女子野球チーム「ニューヤンキース」のオーディションにも応募したという。

「漫画アニメの『野球狂の詩』やピンクレディーの『サウスポー』の影響もあってすごい人気だったから、2000人以上応募があったって。ソフトボールは得意だったし、野球がプロレスへのショートカットになると思ったの。1次試験は自己紹介とキャッチボールのみだけだったんだけど、組まされた相手がまったく経験もなければ運動神経のかけらもない子で全然ダメだった」

◆念願の全日本女子プロレスに入門も…

女子プロレス界では、1976年にマッハ文朱さんが引退。ビューティ・ペア(ジャッキー佐藤さん&マキ上田さん)が空前のブームを巻き起こしていた。ダンプさんは中学時代の同級生5人とビューティ・ペアの親衛隊を作って試合会場へ応援に行っていたという。

そして1978年、全日本女子プロレスのオーディションを受けるが落選したダンプさんは、翌年、6000人も応募者があったオーディションに合格。夢だった全日本女子プロレスに入門する。

「プロレスを選んだのは強くなりたいというのと、普通の女性社員さんよりも給料がいいということだったから、お母さんに楽をさせてあげたいと思って。でも、入門はしてもプロテストに合格しなければデビューできないんですよ。それにプロテストに合格しないと、目黒にある寮に入ることもできないから、熊谷から目黒の練習場まで通わなきゃいけない。しかも練習生は給料なし。無給だからね。

熊谷から目黒まで通うのに交通費だけでも結構かかったから、目黒駅前のビルの本屋で午前中アルバイトして、午後からはトレーニング。ひたすら走らされるんですよ。目黒の道場から明治神宮まで行って戻って来るんだけど、それがきつくてね。いつもハアハア息を切らしながら走っていましたよ(笑)。プロテストに受かるまで結構時間がかかったね。何回も落ちちゃったから」

1979年の暮れには(全日本女子プロレス興行株式会社)営業部に転属となり、宣伝カー要員を務めたこともあったというが、1980年4月、4度目でプロテストに合格。同期には、長与千種さん、ライオネス飛鳥さん、大森ゆかりさん、クレーン・ユウさんがいたという。

−プロテストに合格してすぐにいじめられるように?−

「そう。暇つぶしに、自分と長与千種とクレーン・ユウはいじめやすかったんだと思う」

−マッハ文朱さんもいじめられて毎晩お母さんに泣きながら電話をしていたとおっしゃっていました−

「マッハさんも? マッハさんは2年目で人気が出ちゃったからね。歌も出してすごい人気だったしね。普通だと3年まで下積みで、いじめられて練習している頃なのに、歌も歌って人気者になっちゃったら、女の世界は妬みがすごいのよ。それでだと思う。

同期では飛鳥がいち早くデビューしたんだけど、彼女ズバ抜けた存在だったからね。運動能力、身体能力、ルックス…すべてが一番でカッコよかった。まさにエリート。それにくらべて自分は完全な落ちこぼれだったし個性もないから、先輩たちから『もう辞めてしまえ』って何度吐き捨てられたかわからない」

1980年8月8日、ダンプさんは田園コロシアムで女子プロレスラー「松本香」としてデビューをはたす。しかし、先輩たちからのいじめは続いていたという。

「当時は年間300試合だったから、ほとんど毎日が試合で。先輩たちにしてみればストレスを発散できるはけ口だったんだと思う。自分は太っていたからいじめやすかったんだろうね。

泊まるのは日本旅館が多くて、食事も寝るのも大広間。あるとき、旅館の玄関先に大きな亀のこうらが飾ってあって、それを自分が先輩に背負わされて、『お前はのろまだから亀だ』って玄関先の地面をはわされて…。今の時代だったら大問題になっているよね。

移動バスの中には洗濯物を干す大きなハンガーがあるんだけど、先輩が『お前は太っているからハンガーに干してやる』って言って、自分のTシャツの両肩を洗濯ばさみではさんで吊るされたり、夜道でたったひとり移動バスに置いてきぼりにされたり、本当にひどかった。

同じようにいじめに遭っていて、旅先から荷物をまとめて姿を消した同期もいましたよ。そんなことは日常茶飯事だった。どんな世界でもいじめは絶対に許されることではないけど、自分は『今に見ていろ。必ずトップに立ってやる』という思いだけで耐え続けていたね」

先輩たちのいじめは止まらず加速する一方だったが、そんなとき救いの手を差し伸べてくれたのは、リングでは悪の限りを尽くすヒールのマミ熊野さんだったという。入門前からヒールを希望していたダンプさんは「やっぱり自分はヒールの道に進むしかないとあらためて決意した」と話す。1982年、デビル雅美さん率いるデビル軍団の一員となり、ヒールへの道を歩むことに。

次回はダンプ松本誕生、私生活でもヒールを演じることに徹した理由、今も語り継がれる長与千種さんとの髪切りデスマッチなどを紹介。(津島令子)

※開催情報:『極悪祭 ダンプ松本 41周年 還暦大会』
2021年10月11日(月)後楽園ホール 午後6:30試合開始(午後5:45開場)
ダンプ松本選手 長与千種選手 ZAP 井上貴子選手 旧姓・広田レジーナさくら選手
伊藤薫選手 山縣優選手 彩羽匠選手 笹村あやめ選手 星月芽依選手ほか

関連記事(外部サイト)