“バブルの象徴”だった田中美奈子、毎週お立ち台で3時間踊り続けた日々。ナンパへの対応には黒服から「見ていて気持ちいい」

1980年〜90年代初頭のバブル期にワンレン&ボディコンファッションで人気を集め、歌手、女優として活躍し、「学園祭の女王」と呼ばれた田中美奈子さん。

端正なルックスにスタイルの良さが際立ち、瞳に1億円の保険をかけたということも話題に。『君の瞳に恋してる!』(フジテレビ系)、『ゴリラ・警視庁捜査第8班』(テレビ朝日系)、『もう誰も愛さない』(フジテレビ系)、映画『眠らない街 新宿鮫』(滝田洋二郎監督)など多くのドラマ、映画に出演。

大の動物好きで1999年に「動物愛護団体elf」(現在はNPO法人)を設立。2020年には夫で俳優の岡田太郎さんとともにご夫婦で日本RV協会公式「キャンピングカーアンバサダー」に就任するなど幅広い分野で活躍している田中美奈子さんにインタビュー。

 

◆ピンク・レディーを見て芸能界を目指すことに

千葉県で生まれ育った田中さんは、小さい頃から活発で運動神経抜群。いつも男の子と一緒に木登りをしたり屋根に上がったりして遊んでいて、将来の夢は体育の先生だったが、ピンク・レディーを見て芸能界に興味をもつようになったという。

「小学校の4年生の頃、ちょうどピンク・レディーの全盛期で芸能界に憧れるようになりました」

−ちょうどご両親が離婚された頃ですか−

「4年の頃に別居しはじめて5年生のときに離婚しているので、だいたい重なっていますね。ですから、本当の父は私が芸能界に行きたいと思っていたことを知らないかもしれないです」

−お母さまが再婚されたのが音楽関係の方だったとか−

「はい。歌も上手かったですし、自分が叶(かな)えられなかった夢を私に託したみたいなところがあったので、一生懸命応援してくれていましたね」

−夢を実現するための環境はとても良かったということですね−

「でも、最初は反対していました。なれるわけがないと思っていたからだと思いますけど、『そんな怖い世界はやめなさい』って。ですから自分でこっそりいろいろオーディションに応募したりしてやり続けていたので、最後は諦めて応援するようになったという感じです」

−レッスンに通いはじめたのもご自身で?−

「いいえ、それは母が船橋でスナックをやっていたので、そこのお客さんの関係で鈴木淳先生という演歌の先生をご紹介していただいて、『演歌じゃないんだけどなあ』と思いながら、その先生の六本木にある教室に高校の授業が終わった後、通っていました」

−レッスンはどうでした?−

「私以外の生徒さんがみんな演歌歌手を希望されている方ばかりだったので、『私はここじゃないと思うんだけどなあ』って思っていましたけど、それしかツテがないから一生懸命やるしかないという感じで2年くらい通っていました。

学校が遠かったので、授業が終わると六本木まで慌てて電車を乗り継いで走って、六本木駅を降りてからも芋洗坂をダッシュしていかないと時間に間に合わないんですよ。だからいつも芋洗坂で吐きそうになりながら走って、必死でレッスンに行っていました」

1984年、高校1年生のとき、田中さんは「第3回ミスマガジン」の準グランプリを受賞する。田中さんが芸能界を目指していることを知っているクラスメイトの皆さんが応援してくれたという。

「ミスマガジンのときは、みんな一生懸命ハガキを書いてくれて、結局1万何千通というハガキが多分いっていると思います。本当にありがたかったです」

※田中美奈子プロフィル
1967年9月12日生まれ。千葉県出身。1987年、オーディションで「’87イエイエガールズ」に選ばれ、「ワンサカ娘」と呼ばれる。1989年、月9ドラマ『君の瞳に恋してる!』でドラマデビュー。1989年、『涙の太陽』で歌手デビュー。超ミニスカートの美脚が話題に。『もう誰も愛さない』、『独眼竜政宗』(NHK)、『幸せの時間』(フジテレビ系)、主演映画『DOOR III』(黒沢清監督)、主演映画『ヘヴンズ・ドア 殺人症候群』(石川二郎監督)、映画『冷たいキス』(曽根剛監督)などドラマ、映画、CMに多数出演。動物愛護活動、動物共生型マンションのプロデュース、パラオ共和国親善大使、キャンプグッズブランド「MOIMOI」を新たに立ち上げるなどマルチな活躍を続けている。

 

◆レナウンのイエイエガールのオーディションに

「ミスマガジン」の準ミスグランプリに選ばれた田中さんは、1987年、レナウンのキャンペーンガールをつとめる「イエイエガール」のオーディションを受けることに。

「最終選考の20人に残ったときには、もう周りを見た段階で、すごい意識が高いし、顔もきれいで整っている人ばかりだったし、無理だと思ったから発表される前に私は荷物を持って片付けに入っていたんです。

皆さんすごかったです。本格的にモデルをやっていらっしゃる方も応募されていたので、全然プロ意識が違うというか。私なんかもうド素人だから、全然歯が立たないなって思って、サッサと帰ろうと思っていたら番号を呼ばれたので、ビックリしました」

−その前年までは身長が167cm以上という条件があったみたいですね−

「そうです。やっぱりモデル志向の洋服なので、ファッションショーもやりますし、そういう方面の方が選ばれていたんですけど、私たちのときはたまたま歌を歌うということだったので、身長はあまり関係なくタレント志向になっていて。それだから通ったんですよね」

−決まったと聞いたときはどうでした?−

「びっくりしましたけど、すごいうれしかったです。でも、まさか準ミスに選ばれるとは思ってなかったので、ありがたいなあって思いました。副賞でレナウンの洋服がもらえたので、『洋服をもらって帰りましょう』って(笑)」

−決まった後は、いろいろあるのでは?−

「そうですね。優勝した人はオスカーさんに入るということが決まっていたんですけど、最初に私服でオーディションをして、次の審査が水着だったんです。

私服で私はハイソックスを履いていたんですね。そのときにオスカーの方に『そのハイソックスはちょっと子どもっぽいから履かないで出たほうがいいわよ』って言われたんですけど、私は靴からアクセサリー、洋服まで全部トータルして考えていたので、『いいです、このままで。これで落ちても全然私は大丈夫ですから』って言って、ハイソックスを履いて出たんですよ。我を通したっていうか(笑)。

普通は、素直に『そうですか。はいわかりました』って言うんでしょうけど、自分でこだわって選んだんだから、それでダメだったら本望だみたいな感じでした。でも、それで準ミスに選ばれたんですけど」

−それで3人で「’87イエイエガールズ」を結成することに。3人での活動はどんな感じでした?−

「レコーディングというのが初めてだったのでうれしかったし、ドーナツ版のレコードだったんですけど、自分たちがジャケ写のレコードがあるということがうれしくて。

3人すごく仲がよかったので、みんなでしょっちゅう集まっては喫茶店に入って、『〇〇というカフェですけど、レナウンのイエイエガールズのイエイエソングをお願いします』って有線のリクエストの電話をかけていました。

3人で曲がかかるのをお茶をしながら待って、かかると『かかった、かかった』って(笑)。それでまたちょっとすると別の喫茶店に行って、そこからまた電話したりとかして。そんな地道な活動をしていましたね」

 

◆ディスコのお立ち台で3時間踊り続けて

「’87イエイエガールズ」結成時はちょうどバブル期でもあり、3人でよくディスコにも繰り出していたという。

「ちょうどディスコブームで、マハラジャ系のところとコラボをして、ディスコバージョンを作ってくださったんです。それで、私たち3人がマハラジャ系のディスコに行くと、そのイエイエソングをかけてあげるということになっていたんですね。

だからスケジュールが合うと、週1では必ず『キング&クイーン』に行って、『来ましたよ、かけて』って言ってかけてもらっていました」

−それでお立ち台に?−

「はい。お立ち台に上って3時間くらい踊って、『さようなら』って帰ってきちゃう」

−めちゃめちゃ目立ちますよね−

「いやいや、きれいな人がいっぱいいますから、そういう人たちがみんなお立ち台に上って踊っていましたから」

−でも、男の人たちがワサワサ寄ってきたでしょう?−

「踊りたくて行っているので、男の人たちには見向きもしないでひたすら踊って、帰ってきていました。ディスコの黒服の人たちには、『見ていて気持ちいい。ナンパされても全然行かないね。そこまでなびかないと気持ちいいよ』って言われていました(笑)」

−お立ち台で3時間踊り続けるというのはすごいですね−

「今ではもう考えられないですね(笑)。しかもハイヒールを履いて踊り続けていたので。今は仕事以外でヒール履けないですもん。もうダメです。仕事のとき以外はベタ靴。運動靴です」

−ディスコでワンレン&ミニのボディコンにバッチリメイクも決めて踊っているというイメージが今でもあります。バブルを象徴する存在でしたね。女性は田中さんで男性は石田純一さん−

「そうですよね。だいたいそういうときに名前が出るのは限られていますよね。石田さんとよく一緒に呼ばれますもん。『また一緒ですね』って(笑)」

−田中さんは今も変わらないですよね、スタイルも−

「そんなことないです。前にそのイメージのままワイモバイルのコマーシャルの話が来たときに、『昔の映像を使ってください』って言ったんですよ。技術的に今ならできるじゃないですか。だけどダメだって言われて。

それを撮影する4日くらい前に言われたんですよ。『ちょっと待ってくださいよ』って言ったんだけど、用意されていた衣装が伸縮性がある素材だったから、ピッタピタでものすごく小さかったんですよ。『ウワーッ、終わった』って思いました(笑)」

−衣装もピッタリ合っていてタイムスリップしたみたいな感じでした−

「ピッタリじゃないですよ(笑)。最悪でしたね。『この歳になって、まさかまたボディコンを着させられるとは』って思いました」

 

◆女優、歌手として超多忙な日々を送ることに

1989年、田中さんは月9ドラマ『君の瞳に恋してる!』に出演することに。

「月9、トレンディードラマに出させてもらえると聞いてとてもうれしかったです。『何もお芝居の勉強をしていないのに、行ってこいと言われても』って、ちょっと不安でしたけど」

−撮影はいかがでした−

「初めてのことばかりで、すごいテンションが上がりましたよね。でも、すごく楽しかったので、ドラマもやりたいって思いました」

−『涙の太陽』で歌手としてもデビューされて、スケジュールが大変だったのでは?−

「はい。寝る時間がなかったです。あの当時は歌番組もいっぱいあったし、歌とバラエティが一緒になっている番組とか営業もあったじゃないですか。

いろいろ地方に行ったり、レコード店を回って営業したり、ラジオに出たりとか。だから家に帰るのは、シャワーを浴びて着替えるだけという日が続きましたね」

−寝られるのは車の中や新幹線の移動の時間だけという感じですか−

「そうです。移動時間が唯一寝られる時間でした。レコーディングのときも自分の歌を吹き込んだ後、練習している間にソファで横になって寝るという感じでした。

私はレコーディングしているときに、『このまま息をしなくても大丈夫かも』って思った記憶があるんですよ。それぐらい過酷だったんですよね。

それで『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)に出たときに、ダンスミュージックだったのですごいハードで、鍼を打ってもらって何とか本番に臨んで歌い終わった後、裏で椅子に座って水をもらったら手が震えていて、そこからもう記憶がなくなっていました。

気がついたら生放送が終わっていて、そのまま病院に連れていかれて点滴。絶対にどこか悪いと思って期待していたんですけど、血液検査や精密検査をしたら、『どこも悪くないです。栄養失調だけです』って言われて。

そのとき39kgになっちゃったんですね。母が私の足を見て『美奈ちゃん、足が骸骨みたい』って言って。それで『もう辞めたい』って言ったら、『じゃあ、辞めれば?』って言うんですよ(笑)。

普通は親だったら『そんなこと言わないで頑張りなさいよ』って言いそうじゃないですか。それなのに『辞めれば?』って。ずいぶん薄情な親だなあって思ったんですけど」

−でも『辞めれば?』って言われたら辞められないですよね−

「そうですよね。それをわかっていてあえて言ったと思うんですけど。よく『獅子の子を親は崖から突き落とす』って言いますけど、うちの親は突き落とした後に上から石を投げるタイプなので(笑)。鍛えられました。ですから、その当時は病院と現場の往復、その運転はずっと父がやってくれていたんです」

−それは安心ですね。悪い虫も近寄れないし−

「はい。現場に付いてきてくれたし、病院にも連れていってくれるのも父だったので、ずっとボディーガードがいるみたいな感じでした。気兼ねしなくて何でも言えるし、すごく助けられました」

歌番組にも多数出演しながら田中さんは『ゴリラ・警視庁捜査第8班』、『もう誰も愛さない』、映画『眠らない街 新宿鮫』など話題作に次々と出演することに。次回はその撮影裏話なども紹介。(津島令子)

ヘアメイク:佐々木広美

※「MOIMOI」
女性目線のキャンプグッズなどを作るために田中美奈子さんが立ち上げたブランド。環境に優しい食器、アメニティグッズ、ウェア、石鹸、ボディーソープ、エコバックなど幅広く展開。

※日本RV協会公式「キャンピングカーアンバサダー」
夫で俳優の岡田太郎さんとともにご夫婦で日本RV協会公式「キャンピングカーアンバサダー」に就任。家族4人で2020年には約3週間かけて九州、2021年には1カ月かけて北海道を回り、キャンプ生活を満喫。キャンピングカーに関するトークイベントも数多く行っている。

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