DJ KOO、どん底時代に小室哲哉と運命の出会い。「正直、最初は偏見があった」

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1970年代のディスコ黎明期(れいめいき)からDJとして活動してきたDJ KOOさん。1992年、小室哲哉ファミリーの中枢を担う「TRF」(デビュー当時の表記はtrf)のDJ担当でリーダーに。DJ、ミュージシャン、サウンドクリエイターとして活躍。

金髪のロン毛にサングラスという、一見コワモテの風貌とは正反対の天然真面目キャラが注目を集め、近年はバラエティー番組でも引っ張りだこに。素顔は家族をこよなく愛し、何事にも全力で取り組むDJ KOOさんにインタビュー。

4月30日(火)「肉フェス」

◆ジュリーが大好きで音楽の世界へ

一人っ子だったKOOさんは、小さい頃は少々内気で一人で遊ぶのが好きだったという。暮らしていた家の1階で母親がスナックを経営。店ではいつも音楽が流れており、家の押入れには使わなくなったレコードがたくさんあったため、小さいときから音楽がいつも身近にあったという。

「母のスナックでいつも音楽が流れていましたからね。昭和のムード歌謡とか、そういう音楽をいっぱい聴いていました。僕は沢田研二さんがすごい好きでね。小学校の高学年の時には“新御三家”の郷ひろみさん、野口五郎さん、西城秀樹さんがすごい人気だったんですよ。でも、僕はジュリー(沢田研二)が好きで、なんか男のかっこよさに惹かれてね。

それでジュリーをたどっていくと“ザ・タイガース”というグループサウンズで、アルバムを買ったら英語の曲ばかりなんですよ。その頃のグループサウンズってオリジナル曲よりコピーをやっていることが多かったので、そこで“ザ・ローリング・ストーンズ”とかを知って洋楽にハマっていきました。ザ・ビートルズ、ピンク・フロイドもよく聴いていましたね」

−最初はギタリストを目指していたそうですね−

「そうです。ボーカリストよりもギタリストに憧れてね。親戚がやっている飲食店で手伝いをして、そのお金で中学生のときに一番安いギターとアンプのセットを買って練習していました。友だちとツインギターのユニットを組んだりしてね。高校の文化祭でも演奏したりしていたんですけど、卒業する頃には何となく自分の力量がわかるじゃないですか。これじゃあギターで食べて行くのは無理だなって(笑)」

−高校ではラグビー部に所属されていたとか−

「入るつもりはなかったんですけど、ガラの悪い先輩が1年生の教室に押しかけてきて仮入部だからと言われて名前を書かせられたんですよ。それで無理やり入部させられたんですけど、めちゃめちゃ厳しかったですね。今だったら大問題になるぐらいシゴかれました。でも、そこで先輩には絶対服従の縦社会のルールは身につきました」

高校卒業後、専門学校に進んだKOOさん。ちょうどディスコブームだったこともあり、初めてディスコに足を踏み入れた瞬間、自分が求めていたものを見つけたという感じがしたという。

「フロアに人があふれていてすごい熱気でね、ブースにいてたった一人で大勢のお客さんを踊らせるDJってすごいなあって思って…。もう惚れ込んじゃったんですよ。『やりたい』って。それで上野にある店で給料ゼロの見習いDJになったんです」

−見習いDJからスタートして、わりと早くに一人前になったそうですね−

「そうですね。約1年でした。やっぱり高校時代にラグビー部にいたというのが大きかったですね。1年生のときからすごい鍛えられたんですよ。先輩のいう不条理なことも当たり前にやらなくちゃいけなかったので、縦社会には慣れていましたからね。DJの見習いであるとか、修業というのは自分にすごく合っていたんです。

上野から新宿の歌舞伎町に移って見習いをやっていたときも、全然レコードは回せないんだけれども、先輩のお使いとかがいっぱいあって。『ラーメン買って来い』って言われたら、他のどこの見習いより早く新宿で1番おいしいラーメンを買いに行けるような気合はあったので、結構早く一人前のDJに上がることができました」

※DJ KOOプロフィル
1961年8月8日生まれ。東京都出身。小学生時代、沢田研二に憧れて音楽の道を志す。高校卒業後、ディスコに通い始め、DJの見習いを経て、人気ディスコでDJをつとめる。1986年、リミックス・ユニット「The JG’s」を結成。日本初のノンストップ・ミックスCDを制作。多くのアーティストのリミックスも手掛ける。1992年、小室哲哉と出会い、押しかけ付き人に。その後「trf」を結成して、1993年、セカンドシングル『EZ DO DANCE』の大ヒット以降、さまざまな記録を樹立。近年はバラエティー番組でも人気を集めている。

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◆DJの仕事が激減、日払いの清掃バイトで生活

DJとして一人前になり、順風満帆な生活が続くと思われていた1984年、「風営法」が改正され、ディスコの営業時間が大幅に短縮されることになり、KOOさんもDJの仕事が激減したという。

「海外でレコーディングをしたりして、DJ界では結構リスペクトされるようなポジションにいたんですけど、風営法が変わったりしてDJの仕事がなくなってくるんですね。そうなってくると、給料が多い人から切られちゃうんですよ。それで僕も切られてしまって、機材も買えなくなったんですけど、それがちょうど30歳位のときにDJの仕事がなくなって…」

−そのときにはもう結婚されていたんですよね−

「そうです。だから、お金は家に入れなくちゃいけないじゃないですか。それで清掃業のバイトをやりました。その日に行ってお金を日払いでもらうというバイトです。朝7時に入って、10時にお茶の休憩、12時に昼食、17時に終了という、DJ時代には想像もつかないような生活を送っていたんですけど、だんだん清掃業のバイトの比重が大きくなっちゃってね。

30歳ちょっと過ぎのときに『あれ、俺はもしかしたらこのままもう音楽という道はなくて、こういう現場の仕事をやっていかなくちゃいけないのかなあ』って初めて思いましたね」

−奥様は何かおっしゃいました?−

「いや、何も言わなかったです。うちの奥さんとはDJのときに結婚したんですけど、そのときにも別に何も言わなかったし、DJの仕事がなくなったときにも『お金を入れてね』なんてことは全然言わなかったですね」

−それはすごいですね−

「今考えれば、そうですね。でも、自分で楽器を買うのにいっぱい借金してローンを組んでいたので、それは働かなくちゃなぁと思いましたね、そこはね」

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◆どん底時代に小室哲哉さんと運命の出会い

清掃員としての仕事にも慣れた頃、横浜ベイサイドクラブで小室哲哉さんが開催するレイブイベント(ダンス音楽のイベント)のDJをやらないかというオファーが舞い込み、久しぶりにDJの仕事をすることになったKOOさんは、初めて小室哲哉さんと対面することに。

「正直、最初は偏見があったんですよ。小室さんはポップスの人で、『俺たちはアンダーグラウンドだぜ』っていうような斜に構えたところがあったんだけど、スタジオに行ったら実際の小室さんはアンダーグラウンドどころじゃないマニアックな、突き詰めるような音の作り方をしていたんですよね。まるで科学者みたいな感じで、自分がそれまで会ったことのない人でした、小室さんという人は。周りにそういう人はいなかったです」

−初対面でかなりカルチャーショックを受けて−

「そうです。そのスタジオの環境、それから小室哲哉という、音楽というか、音をゼロから作り出す人に惚れ込んでしまいました。そのときに覚えているのが、僕は清掃業だったじゃないですか。だから手がボロボロで擦り傷だらけでね。青タンとかもいっぱいあって、全然ミュージシャンとかDJっぽくないんですよ(笑)。それを隠しながら小室さんにごあいさつをしていましたね。

それで小室さんに『このスタジオに明日も伺ってもいいですか』って言ったら、小室さんが普通に『あぁ、いいよ』って言ってくれたんですよ。それからもう毎日のように通って、通って、押し掛け弟子になりました(笑)」

−清掃業のバイトは?−

「辞めました。ちょこちょこ入るDJの仕事だけで何とか食いつないでいました。そのときも奥さんに『小室さんのところで勉強したい。もう一回やり直したい』ということを話したら、『じゃあやりなさい』って普通に言ってくれたんですよね。『じゃぁ、生活はどうするの?』とか、そういうことは一言も言わなかったですね」

小室さんの秀でた才能、音楽に対する深い知識や向き合い方に惚れ込んだKOOさんは、イベントのリハーサルやアルバム制作に立ち会いながら雑用をこなしていたという。そして1992年、「trf」(現在はTRF)が結成されるが、当初は固定されたメンバーではなく、流動的でイベントによってメンバーも人数も違っていたそう。

「最初はベイサイドクラブで小室さんがイベントをやるための要員で、11人とか12人ぐらいいたんですよね。だから、誰も『trf』がグループ名という形では捉えてなかったですね」

TRFは1993年2月25日にデビューするが、その時点でもまだイベント限定のようなグループだったという。それが大きく変わったのはロンドンでレコーディングされた2枚目のシングル『EZ DO DANCE』。KOOさんはデビュー曲と同じようにラップを入れたが、自分が固定メンバーだとは考えてもいなかったという。それから間もなく、TRFはDJ KOOさん、ボーカルのYU−KIさん、ダンサーのSAMさん、ETSUさん、CHIHARUさんの5人が固定メンバーとなる。

−5人が固定メンバーになったということを聞いたときはいかがでした?−

「『これからこの5人でやるみたいだよ』ってひとごとみたいな感じでしたね(笑)」

−数々のミリオンヒットを記録して日本の音楽シーンを塗り替えていくグループとして認知されていくわけですが−

「でも出始めた頃はDJがまだあまり認知されていなくてね。YU−KIはボーカルで歌っていて、SAMたちは踊っているからダンサーだとわかりやすいポジションじゃないですか。でも、それまで僕たちみたいなユニットがなかったから、DJってわかりにくい存在だったんですよね。だから『あいつは何をやっているんだ?』って散々言われましたよ(笑)。リーダーをやることになったのも、一番年長だったのと、僕だけ具体的なポジション性が乏しかったからだと思いますよ」

−KOOさんのドレッドヘアも印象的でした−

「よく言われます(笑)。あれはTRFを結成した頃、小室さんがUKバンドの『ジーザス・ジョーンズ』のジャケットを見て『KOOちゃん、こういう風にしなよ』って言ったんですよ。それで実際にドレッドヘアにしたら、『本当にやっちゃったの?』って驚いていましたから、半分冗談だったんでしょうね(笑)。奥さんは『落ち武者みたい』って絶句してました(笑)」

当時はまだ日本ではほとんど見かけなかったドレッドヘアだが、セカンドシングル『EZ DO DANCE』の頃には、KOOさんのトレードマークに。そしてTRFはミリオンヒットを連発し、日本の音楽シーンを塗り替えていく。次回後編では家族への愛にあふれた子煩悩な素顔、バラエティー番組に対する思いも紹介。(津島令子)

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