難民キャンプで生まれ、日本へ亡命…パラ出場諦めた男を奮い立たせた“恩師の言葉”

テニスの現役を退いてから、“応援”することを生きがいにしている松岡修造。

現在は2020年に開催される東京オリンピック・パラリンピックに向けて頑張る人たちを、「松岡修造の2020みんなできる宣言」と題して全国各地を駆け巡って応援している。

今回、修造が訪れたのは神奈川県相模原市にある相模湖。そこでボート選手たちに指示を送っている男性が、倉木健治さん(37歳)だ。

©TOKYO応援宣言

倉木さんは障がい者のボート競技『パラローイング』のチーム「湖猿」を設立し、手足だけなく、視覚障がいの選手、さらに知的障がいの選手を集め、日々トレーニングをしている。

2020年東京パラリンピックを目指す日本代表候補も在籍する「湖猿」だが、倉木さんがこのチームを作った背景には、想像を絶する生い立ちがあった。

◆「生まれた時点で不平等」

倉木さんは、カンボジアの内戦の真っ只中、タイの難民キャンプで生まれた。その時点で「生まれた時点で不平等だ」と感じたという。

「僕は、病気などがまん延しているような、普通の環境でないところで生まれました。その時点から、自分が他の人とは違う人生で、不平等じゃないかなと思っているんですよ」(倉木さん)

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倉木さんはその後、カンボジア人の両親とともに日本に亡命したが、5歳の時にポリオに感染。左足には今でも障がいが残っている。

「今、娘が2人いるのですが、娘たちとお風呂に入る時に『お父さんの足、普通じゃないね、怪我をしているの?』と聞かれます。顔には気持ちを出さないようにと思っているのですが、心の中でグッとこらえていることがよくあります」(倉木さん)

そんな倉木さんが、ボートに出会ったのは高校時代。健常者に混じってみるみる力をつけ、その実力は全国トップレベルとなり、自ずとパラリンピック出場という大きな目標が生まれていた。

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◆倉木さんを救った“恩師の言葉”

しかし、倉木さんはまたしても大きな壁にぶつかる。それは“国籍”の問題だった。

倉木さんは難民キャンプで生まれ、日本に亡命してきたため、国籍そのものがなく、日本国籍を取得するのに、申請から7年かかった。

その時、すでに32歳になっていた倉木さんは、足の状態が悪化したこともあり、パラリンピックの夢を諦めかけていた。

「年齢と共に足の状態が悪化して、リオの代表を逃し、パラリンピックへの思いは一度冷めました。でも次が東京ということで、また“熱”が来て、今度は自分でチームを作って出ようと思いました」(倉木さん)

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選手としてのパラリンピックは諦めても、コーチとして戦い続けようと、倉木さんを奮い立たせたのは、「なんとかなるよ」という恩師の言葉だった。

神奈川県立愛川高校時代、様々な部活から「面倒を見られない」と、入部を断られる中、ボート部の遠藤広治先生がかけてくれた言葉が「なんとかなるよ」だった。

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それぞれが障がいを抱える中、パラローイングに励む後輩たちに、今度は倉木さんから「なんとかなるよ」と声をかけ続けている。

倉木さんのできる宣言は「パラローイングで一緒に夢を掴む!」。修造は、東京パラリンピックを見据える倉木さんと選手たちにエールを送った。<制作:TOKYO応援宣言>

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※番組情報:『TOKYO応援宣言』
毎週日曜あさ『サンデーLIVE!!』(午前5:50〜)内で放送、「松岡修造の2020みんなできる宣言」も好評放送中、テレビ朝日系

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