有馬稲子、21歳で妻子ある有名監督と“禁断の恋”。約7年続くも、ある作品で…

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小津安二郎、内田吐夢、今井正、五所平之助、渋谷実など多くの巨匠と仕事をした有馬稲子さん。銀幕の美人女優という華やかな顔の裏で私生活では苦労の連続だったという。

実の両親は有馬さんが養母と家を出て間もなく別居。宝塚にいた頃から、父と母それぞれから金の無心をされるようになったという。萬屋錦之介(中村錦之助)さん、実業家と2度結婚したが、離婚。20代のときには年上の有名監督と7年半にも及ぶ禁断の恋愛が…。

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◆21歳で年上の巨匠と道ならぬ恋に落ちて…

1953年、宝塚から東宝に移籍した有馬さんは「1953年の顔」というキャッチフレーズで大々的に売り出され、一躍スター女優として注目を集める。連日のように映画の撮影に加え、取材やグラビア撮影に追われる日々のなか、有馬さんは自身の演技力に不安を感じていたという。

「東宝に入るときに俳優座の養成所で勉強させてほしいとお願いしていたんだけど、実際に入ったら映画の撮影や取材で忙しくて養成所に行く時間なんて全然ありませんでした。

俳優は演技力と中身の人間を磨くのが第一と、私はそう信じていたので、それもできていないのにいくら宣伝してもダメだと思っていましたからね。

芸術性のない仕事や取材を断ったりしていたから『生意気だ』とか、ごててぐずぐずと文句をいう『ごてねこ』なんて言われたりしていました(笑)」

そんななか、21歳のときに有馬さんは有名監督と運命的な出会いを果たす。しかし、年上のその監督には妻子があった。

−父性への憧れみたいなものもあったのでしょうか−

「そうね。父親が暴力的で怖い人でしたからね。ほとんどいなかったようなものだったし、年上の男性にすごい憧れがあって。だから、彼とそういう関係になる前も、好きになるのはだいたい年上の人だったわね」

−監督との出会いは?−

「東宝に入社した年(1953年)でした。ものすごく手がきれいでね、絵がうまかったんですよ。これから撮る映画の絵コンテをサラサラって描いていたんだけど、それがものすごくうまかったの。

それにヘビースモーカーでタバコをよく吸っていたけど、きれいな指にタバコをはさんで吸うときは本当にカッコ良かった。彼以上に美しいポーズでタバコを吸う人は見たことがないわね。手がきれいだったっていうのは、忘れられないくらいすてきだった。手に惚れたんじゃないかしら、私(笑)」

−手がきれいな男性というのはポイントが高いですよね。ましてや17歳も年上ですから先生のような存在でもあったのでは?−

「そうですね。やっぱり憧れますよね。年がずいぶん違いましたからね。おじさんだったんだけど、おじさんには見えませんでしたね、彼は。おしゃれでしたからね。着ているものもほんとにしゃれたものを着ていて、時計なんかも。

それに、時代の先端をいく文化の知識が豊富でしたからね、映画や美術館、音楽会にもよく一緒に行きました。『一流のものとそうでないものを見分ける目を持たなければいけないよ』とよく言われましたね」

−そして、師弟の関係から男女の関係に?−

「まだ21歳でねんねでしたから、『妻と別居している、きちんとしたら君と結婚したい』という言葉を信じていたんですよね。よく7年も続いたと思いますけど、感覚としては短かった。なかなか会えなかったから。

私も1年に数本の映画の撮影が入っていたし、彼も忙しい監督でしたから、2カ月に1回会えるかどうかという感じだったんです。それがかえって良くなかった。なかなか会えないから会ったときは余計カーッとなっちゃうわけですよ」

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◆7年間の“不倫”で憔悴(しょうすい)のなか、萬屋錦之介(中村錦之助)と出会い

有馬さんは、有名監督の言葉を信じて待ち続け、その関係は7年間も続いたという。そんなとき、有馬さんは雑誌で萬屋錦之介(中村錦之助)さんと対談することに。対談準備のため、映画『獅子丸一平』を見た有馬さんは錦之介さんの“花のある役者”ぶりに魅了されたという。対談から一年後、二人は内田吐夢監督の映画『浪花の恋の物語』(1959年)で共演することになる。

−『浪花の恋の物語』は今見ても本当にせつなくて美しい作品ですね−

「きれいですね。私の一番美しい映画。それになかなか良い作品ですよ。大阪新町の遊女梅川と、飛脚問屋亀屋(ひきゃくどんやかめや)の養子忠兵衛の悲恋の物語ですけど、東映京都撮影所に初めて入って、一カ月半梅川になりきりました。

そして撮影が始まって10日目に、突然錦ちゃんから結婚を前提のお付き合いをと言われたんですよね。それで、あれよあれよという間にお母様やお兄様、弟さんに紹介されて…」

−そのときにはまだ監督とお付き合いされていたのでは?−

「そうです。彼は猛反対でした。歌舞伎の名門の家の錦ちゃんと結婚してもうまくいくわけがないって。

そうこうしているうちに私が盲腸になって入院したんですけど、手術に4時間もかかっちゃったのね。それでその晩、突然監督が病室に現れて、見舞いの言葉もなく、『錦ちゃんとの結婚をやめろ』って口説き始めたんですよ。ちょうどそこに錦ちゃんが来ちゃって鉢合わせしそうになって…。

彼が病室にいたところに錦ちゃんが友人2、3人と一緒に来て、廊下で私の名前を呼んでるんですよ。そうしたら監督がレインコートをかぶって病室の角の暗いところで小さくなっちゃったんですよ。

錦ちゃんは酔っ払っちゃってるから、『おい、盛子(みつこ:本名)ここか?盲腸なんて病気じゃないんだから頑張れ』」って言って、すぐに帰っちゃったから良かったんですけどね。あれは本当にハラハラしました」

この一件の後、有馬さんはひとりになって落ち着いて考えようと、ヨーロッパに旅立つ。そしてひと月後に帰国したときには錦之介さんとの結婚を決意していたという。

「わが愛」撮影で滞在した民泊でのスナップ(1960年)

◆“梨園の妻”と“舞台女優”の両立も4年で破局…

1961年11月27日、有馬さんと錦之介さんは銀座東急ホテルで結婚式をあげる。京都の900坪の土地にプールと体育館も作り、庭には有馬さんの大好きなバラも70種類以上植えられた豪邸での生活が始まる。

−ご結婚されて女優業は?−

「とてもできません。梨園に嫁いだわけですからね。錦ちゃんは1年365日働いていて、撮影が終わると毎晩スタッフを12、3人連れて帰って来ていたの。錦ちゃんと結婚していたのは4年あまりでしたけど、その間2人だけで晩御飯を食べたことが1回もないんですから。

必ずカメラマンやスチールマンたちを引き連れて帰って来ちゃうの。それが毎晩ですよ(笑)。このうちの何人かはそのまま泊まっていましたから、翌朝は朝食を作って夫を送り出した後、もう一度お姑さまやお兄さまに朝食を作って出すという感じで、夫婦ふたりきりの時間なんて全くありませんでした」

何ごとにも全力投球の有馬さんは家事に力を抜くことも知らず、次第に疲れを感じるようになっていたという。結婚して2年が経とうとしていたとき、有馬さんに『浪花の恋の物語』の舞台出演のオファーが。

「当時の中村扇雀(現・坂田藤十郎)さんが映画『浪花の恋の物語』をご覧になって、『どうしても有馬さんと舞台で浪花の恋の物語をやりたい』って、東宝が1年ぐらい粘られたんですよ。

扇雀さんが錦ちゃんのお母様にお話をしに行ったらしいんだけど、『絶対にダメ』って言われていたんですって。でも、あんまり扇雀さんが熱心におっしゃるので、同じ梨園で断ってばかりいるのまずいことになるといけないと思われたのか、お姑さまが『これ1本だけですよ』って言って出してくださったんです」

『浪花の恋の物語』は、有馬さんにとって宝塚以来の久しぶりの舞台だったが、大好評ですぐに再演が決定。有馬さんは舞台女優として注目を集めることとなり、『浪花の恋の物語』の再演に加え、『奇跡の人』のサリバン先生、『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラも演じることになる。舞台女優として多忙を極め、すれ違い生活を送ることとなった二人は1965年に離婚する。

−『浪花の恋の物語』がきっかけで結婚されたわけですが、離婚することになったのもこの作品だったのですね−

「そうですね。この作品で私は舞台女優になっちゃったわけですからね、変な言い方ですけど。でも皮肉なものですね。今の時代と違って、私の時代は結婚したら、妻は夫や婚家に尽くすのが当たり前でしたからね。

錦ちゃんは私とお姑さんの板挟みになって悩んだと思います。だから私は自分が身を引くのが最善と考えるようになったんですけどね。錦ちゃんは本当に良い人でした。台本を三つぐらい常に持って走り回っていました。働きすぎたんですよね。だから病気になっちゃったんですよ。かわいそうに。

今思うと本当に泣けてくるぐらい良い人で、良い役者だったけど、良い亭主ではなかった。経済のことはまったくわからない人で、船とアメリカ車を同時に買っちゃうんですから」

離婚後、舞台女優として新たなスタートをきった有馬さんは、一から俳優修行をやり直すべく「劇団 民藝」に入り、宇野重吉さんに師事することに。

次回後編では川端康成さんとの出会い、再婚そして泥沼離婚、ライフワークである舞台『はなれ瞽女おりん』の壮絶な舞台裏を紹介。(津島令子)


※『有馬稲子 わが愛と残酷の映画史』筑摩書房
著者:有馬稲子 樋口尚文

※『一人語り はなれ瞽女おりん』
10月26日(土)
「水上文学と竹人形文楽の里 若州一滴文庫」(福井県大飯郡おおい町岡田)にて上演
出演:有馬稲子

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