有馬稲子、ノーベル賞作家を電車で“ナンパ”。以来…親代わり務めてもらう間柄に

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1965年、萬屋錦之介(中村錦之助)さんとの結婚生活は破綻した有馬稲子さんだったが、舞台の仕事は次々と舞い込み、翌年『風と共に去りぬ』(脚本演出:菊田一夫)のスカーレット・オハラを演じることになる。

有馬さんは文字通り、からだを張って階段を転げ落ち、本物の馬まで登場する『風と共に去りぬ』は大評判となるが、有馬さんには、きちんと基礎を積み重ねていないというコンプレックスがあり、ひとり悩んでいたという。そして有馬さんは驚きの決断をする。

五所平之助監督『雲がちぎれる時』の現場で(1961年)

◆女優デビュー17年、「劇団 民藝」でイチから修業し直し

『風と共に去りぬ』の舞台を終えた有馬さんは、そのまま商業演劇の道を進むべきか、それとも思い切って新劇で勉強し直すべきか選択することに。そして一から俳優修業をやり直すべく、宇野重吉さんが創設した「劇団 民藝」に入ることを選んだという。

「『商業演劇では主役で活躍し、スターと呼ばれているのに何で今から民藝なの?物好きな』って色々な人に言われたけど、それでも私は行って良かったと思いますよ。

『風と共に去りぬ』をやったとき、スカーレット・オハラというのは、ああいう白黒がはっきりしている役だから私もできるけど、これから先年齢を重ねていって、年をとった役をやることになったときには私の演技力じゃダメだと思ったの。だから、勉強しようと思って、宇野さんに言って民藝に入っちゃったわけ」

−「劇団 民藝」ではいかがでした?−

「本読みから普通の商業演劇でやっている本読みとは全然違いました。とにかく最初の『思い出のチェーホフ』という芝居は、立って手紙を語るだけの芝居。立ち稽古なしで1カ月間ただ読むだけ。そりゃ絞られましたね。でも良かった。台本というのはこういうことを読むのかというのがわかりましたからね。

それまでは台本を受け取ると、ただセリフを覚えてるだけだったのよ。何で『ここで笑う』と書いてあるのか。なぜ急にヒステリックになるのかとかね、ト書きに書いてあるでしょう? それはなぜなのかって考えさせられたんですよ。それが民藝に行ってすごく良かったことだと思います」

−仕事も順調で、美人女優として映画の話も次々にあったのに、あえて民藝へというところがすごいですね−

「勉強が好きなんですよ。それで宇野さんが好きだった。宇野さんに惚れていたんですよ(笑)。尊敬していましたからね。だから宇野さんに付いて、ちゃんとした女優になろうと思っていました」

−そのときにはずっと「劇団 民藝」でやろうと思っていたのですか−

「そうです。でも、結果的には民藝の芝居のチケットを売りに行った先の人と結婚してやめることになっちゃったわけですから、それが私のバカなところなんですけどね(笑)。

宇野さんは『徹底的に有馬稲子の改造をするつもりだったのに、こんなに早くやめることになるとは思わなかった』ってすごくガッカリしたみたい。2年ぐらいでやめてしまいましたからね」

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◆2度目の結婚で今度こそ“幸せな家庭”を夢見ていたが…

すでにスター女優だった有馬さんだが、「劇団 民藝」では新入りの劇団員として、初舞台の際にはチケットをたくさん売らなければと頑張っていたという。そのときに紹介されたのが、のちに再婚することになる男性だった。

不動産業の社長だったその人は、見るからに豪快で快活。有馬さんが持っていたチケット70枚を全部買ってくれたという。

1969年に再婚。有馬さんはその年、NHKの大河ドラマ『天と地と』に出演。男まさりの怪力の持ち主で、鎧兜を身に付けて馬に乗り、戦場をかけめぐる猛女・松江を演じて話題に。劇団の旅公演に加え、撮影、取材…多忙を極めていく。

「夫婦が夫婦らしくあるためには、ある程度一緒に過ごす時間が必要です。『お前の仕事のために、自分を犠牲にしろと言うのか!』というような怒号が飛び交うようになって、民藝をやめることにしました。それで少し時間の余裕ができたので、大好きな家事もできるようになって夫婦の関係も修復できると思ったんですけどね」

−結局、2回目のご結婚はどのくらい続いたのですか?−

「14年ぐらいです。私が前に失敗しているから、この結婚だけは完遂しなきゃと思ったのが間違いだったんですよ。だから、夫の会社が倒産して、私の田園調布の家も集めていた絵画やなんかも全部売ってしまったんです」

−ご家庭がそういう悲惨な状況にあるなか、次々と良いお仕事をされていました。それでも結婚生活を維持したいという思いは強かったわけですか−

「そうです。バカだからね。この結婚は守らなきゃと思ったのが、いけなかった。つまり彼が、それに甘えちゃって、自力で何がなんでも頑張るということにならなかったんですよ。明日食べるものがなかったら働くでしょう?私と一緒にいると生活ができちゃいますから、次第に昼間からお酒を飲むようになって、私が仕事から帰るともうぐでんぐでん」

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◆「はなれ瞽女おりん」684回上演、人工関節は名誉の勲章

夫の会社が倒産したのは1980年、有馬さんにライフワークとなる舞台「はなれ瞽女おりん」(原作:水上勉、演出:木村光一)の稽古が始まった頃。離婚の話し合いは5年に及んだという。

−そんな状況のなか、舞台公演をよく続けられましたね−

「『はなれ瞽女おりん』だったからですよ。『はなれ瞽女おりん』だけで684回やりましたけど、それだけやってたわけじゃないんですよ。それは1年のうちの4カ月で、あとは『越前竹人形』とか、井上ひさしの『雨』、リリアン・ヘルマンの『噂の二人』など、他の芝居もいっぱいやっていましたから」

−『越前竹人形』の公演も228回ですし、有馬さんは長い舞台公演が多いですね−

「そうですね。なかなか良い芝居をやっていたんですよ。舞台がこんなに好きじゃなかったらもっとテレビで活躍していましたね。舞台が好きで好きで、良い仕事ばかりだったんです」

−『はなれ瞽女おりん』の公演回数は684回、それも移動しての旅公演ですからすごいですね−

「684カ所ぐらい行っているわけですからね。仙台などは5日間ぐらいありましたけど、それでも680カ所ぐらいは行ってるんですよ。イギリスのロンドンやスイスでもやりました。海外公演も入れて684回。これはすごいことですよ。

同じ劇場で1カ月公演をするのとはまた違いますからね。それを24年間、四半世紀ですよ。1980年にこの芝居を始めて、終わったのが2004年。40代の後半から始めたんですけど、終わったときには70歳になっていましたよ(笑)」

−すごいですね。膝を傷めたと聞きましたが−

「右膝の手術をしました。おりんを始めて2年目ぐらいから、膝に水がたまるようになっちゃって、舞台がお客さんのほうに向かって斜めになっていて、それがクルクルクルクル回るんですよ。その上でバランスをとって歩きながら演技をしているから、ずっと膝に負担がかかっちゃっているのね。

それでもう2年目ぐらいから膝が痛くて『痛い、痛い』って言いながら壁をつたって歩いていましたよ。結局手術をしたのは全部が終わってからでしたけど、旅公演の間、ずっとお医者様のところに行ってました。仙台に行ったら仙台の病院、そして他のところに行ったらまたそこの病院で整形外科に行って水を抜いてもらって。

次の公演先の病院に『何月何日に行きますからお願いします』と予約をして、駅に着いたらとにかくすぐに病院に行くんですよ。3日ぐらいすると、膝に水がたまっちゃうから3日に1度は抜かないとダメなわけ」

−水を抜くのは痛いですよね−

「そう、痛いの。それで公演の先々でとにかく病院に行くものだから、整形外科の診察券が膨大にありましたよ。12,3センチ分はあったんじゃないかしら。膝が今は人工関節になっていますけど、私は名誉の負傷だと思っていますよ。

でも一番言いたいのは、回り舞台を支えてくれたスタッフ。役者が15人ぐらいで、スタッフを入れて20人ぐらいの編成でずっと全国を回っていたんですけど、スタッフが一番にやらなきゃいけないことは、舞台を解体してトラックに積んで移動して、公演先に着くなり、また舞台を作るわけですよ。

それで手製の回り舞台だから、舞台の下にスタッフが3人入って回すんですよ。役者のセリフを聞いて、そのセリフをきっかけにして回すんだけど、これが本当に大変なの。

舞台が回ると季節が変わり、時が変わり、話が変わるんだけど、芝居の間ずっと回ってるわけですからね。舞台の下に入って回してるんですよ。

私はこの作品で賞をもらったけど、スタッフに賞をあげたかったですね。本当に良くやってくれたんです。みんなおりんが好きでね。『おりんをやる』って言うと、役者さんもスタッフもみんな喜んで来るんです。だから同じようなスタッフでキャスト。『おりん劇団』ていうくらいでしたよ(笑)。そんなことは滅多にないですけどね。良い作品でした」

−原作者の水上勉さんは有馬さんの一人芝居の脚本も書かれていたそうですね−

「すごいでしょう?まだおりんが始まったばかりの頃ですよ、水上先生から台本を渡されたのは。何だろうと思ったら『一人芝居 はなれ瞽女おりん』って書いてあって。私のために台本を作ってくださっていたんですよ。『有馬さんが年をとったら、これを一人でやりなさい』って脚本を書いてくださったの。本当にありがたかったです。

今年は水上先生の生誕100年という節目の年でもありますし、ご恩返しのためにも先生が書いてくださった脚本を基に、『一人語り はなれ瞽女おりん』を10月26日(土)に水上先生が作られた福井の『若州一滴文庫』でやることが決まっているので、今その準備をしています。

旅公演は大変でしたけど、面白い話がたくさんありましたから、それもいれながらやろうと思って、その脚本を書いているところです」

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◆ノーベル文学賞の川端康成を電車でナンパ?

文壇の大御所をはじめ、多くの人に愛され、良い作品にたくさん出会ってきた有馬さん。川端康成さんとも驚きのエピソードが。

「川端先生が原作を書かれた『川のある下町の話』という映画に出ていたんですけど、先生にお会いしたことはなかったの。

ある日、電車で先生をお見かけしたら、膝に大きな風呂敷包みをのせて座ってらして。私は何とかお話したいと思っていたので、新橋に着いたとき『先生、お荷物をお持ちしましょう』って言って荷物を持ったんですけど、それが軽くてね(笑)。お持ちするほどのものじゃなかったんですけどね。

でも、この歴史的な出会い以来、『ノーベル賞作家を電車のなかでナンパした女優』という、晴れがましいあだ名をいただくことになりました(笑)。川端先生は必ず銀座の画廊にいらっしゃるのね。だから、私もよくご一緒させていただいて色々なことを教わりましたし、おいしいお食事もたくさんごちそうしていただきました」

川端康成さんは、1954年に有馬さんが岸惠子さん、久我美子さんとともに、五社協定(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)に反旗を翻して作った「文芸プロダクションにんじんくらぶ」の顧問も引き受けて活動を応援してくれたという。

「あのときは『文壇が全部ついている』と言ったくらい、率先して応援してくださって、それから錦ちゃん(萬屋錦之介)と結婚するときにはご夫婦で親代わりを買って出てくださいました。

錦ちゃんは歌舞伎の人だからすごい親戚がたくさんいらっしゃるわけですよ。私は色々な事情があって良い親戚がいなかったので、川端先生ご夫妻のおかげで胸を張ってお嫁に行くことができました。再婚したときも川端先生のところにごあいさつに行きましたよ、一緒に」

−何かおっしゃっていました?−

「いえ何もおっしゃらなかったけど、心のなかでは『こいつもまたダメだな』って思ったんじゃないかしら(笑)」

−9月20日(金)には川端康成さん原案の映画『葬式の名人』が公開されます−

「昨年出版された『有馬稲子 わが愛と残酷の映画史』(筑摩書房)を共著した樋口尚文さんの監督作で、私は若くして突然亡くなった父親と幼い息子をつなぐ謎めいた役で出ています。撮影は昨年で、ものすごく暑い日でしたけど、やっぱり現場は良いですね。今はとにかく『一人語り はなれ瞽女おりん』の脚本を仕上げるために一生懸命頑張っているところ。絶対に成功させないと!」

現在は横浜にあるレストランや温泉も完備したケアマンションでひとり暮らしをしている有馬さん。一昨年、出演されていたドラマ『やすらぎの郷』(テレビ朝日系)とオーバーラップする。

中庭には「稲子」と有馬さんが大好きな画家・モネをかけあわせて名付けられた「モネコガーデン」があり、同じマンションに住む方たちとすてきな花壇作りもしている。

2015年に喉のポリープの手術を受けたそうだが、張りのある声からは全くそのことを感じさせない。映画全盛期の「銀幕のスタア」ならではの全身から華やかなオーラがあふれだすすてきな人。(津島令子)

※『一人語り はなれ瞽女おりん』
10月26日(土)
「水上文学と竹人形文楽の里 若州一滴文庫」(福井県大飯郡おおい町岡田)にて上演
出演:有馬稲子

2018 ″The Master of Funerals″ Film partners

※映画『葬式の名人』
8月16日(金)茨木市先行/9月20日(金)全国ロードショー
配給:ティ・ジョイ
監督:樋口尚文 出演:前田敦子 高良健吾 白洲迅 尾上寛之 中西美帆 有馬稲子

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