松島トモ子、10日の間にライオンとヒョウに襲われて…10mほど引きずられるも、後遺症なく奇跡の回復

©テレビ朝日

3歳からバレエを習い始め、ニュースで「小さな豆バレリーナ」として取り上げられたことがきっかけで阪東妻三郎さんにスカウトされ、4歳で映画デビュー。約80本の映画に主演。雑誌『少女』の表紙を10年間一人で務め、歌手、リポーターとしても活躍。1986年にはテレビの仕事で訪れたケニアでライオンに襲われ、その10日後にはヒョウに襲われるという衝撃のアクシデントに見舞われたことも。

近年はお母さまの介護生活を送りながら舞台、テレビをはじめ、多方面でマルチな活動を続け、12月20日(金)には恒例の「松島トモ子コンサート」の公演も控えている松島トモ子さんにインタビュー。

3歳

◆阪東妻三郎さんにスカウトされて映画デビュー

戦争終結直前に旧満州(現在の中国東北部)で生まれ、生後間もなく母と2人で日本へと引き揚げてきた松島トモ子さん。日本に帰る引き揚げ船での航海は過酷で、伝染病がはやり、体力のない多くの幼い子どもが次々と命を落としていったという。そして松島さんは3歳から「石井漠舞踊研究所」に入門。バレエを習い始めることに。

「満州から引き上げてきたので、食べるものがあまりなくて栄養失調状態というか、足が曲がっていたんですね。それで母が足をまっすぐに、丈夫にするためにね、バレエを習わせることにしたみたいです。

私は音楽が鳴り出すとすぐに踊ったりしていたので、これは踊りが好きなんだなと思ったんじゃないかしら。当時はまだ珍しかったのね、ちっちゃい子がバレエを習いに行くのは」

−当時の映像を拝見しましたが、可愛らしくて目立っていましたね−

「お姉さんたちの間でひとり小さな子がチョロチョロしていましたからね。お目にとまったみたいで、当初は『みんながバレエ熱に浮かされている』という取材でいらしたんですけど、急遽(きゅうきょ)タイトルを『小さな豆バレリーナ』になって。

それをご覧になった阪東妻三郎さんにスカウトされて映画に出ることになったんです。でも、あの頃はまだ活動写真という世界で、一般家庭の娘が映画に出るということは、まずあり得なかったというか…。

うちは大した家ではないですけど、親戚なんかは『松島さんの家のお嬢ちゃんが映画に出る』って言って泣いたっていうぐらい(笑)。

祖母も母も大反対だし、私も『これは身を落としたな』っていう思いはありました。当時は、映画に出ることは全然良いことではなかったんですよ」

−それなのに、よく芸能界に入ることを許してくれましたね−

「その頃、家に祖母と祖母付きのお手伝いさんが2人と、祖父が残して行った祖父の運転手さんがいて。そこへ私と母が入ったんですけど、祖母は昔の人ですから、女が働くと言うことが考えられないというか。ご主人様がお給料持ってきてというのが普通だと思っていたんだけど、ご主人様が一人もいないんですよ、父は戦争で、祖父は結核で亡くなったので。

母は津田塾大学で英文タイピストの資格も取っていましたけど、私が祖母にまったくなつかなかったものですから、母が働きに行くというのはね。それに母と娘が一緒にいられる働き場所なんて今だってなかなかないですよね。

だから、2人一緒にいられるっていうことで、母は私が映画の仕事をすることを納得したんじゃないかな。まだ4歳ですから、撮影現場に付いて来てずっと一緒にいられる、それだけのために引き受けたんだと思います」

映画デビューをするやいなや大人気となり、松島さんの髪型を真似(まね)して「トモ子ちゃんカット」をする女の子が続出。バレエを習い始める子どもたちも大幅に増えたという。

−当時のことは覚えていますか−

「バレエの初舞台の3歳のときのことも、4歳で初めて映画の撮影でアップを撮られたときのことも鮮明に覚えています。自覚はありました。

敗戦直後ということもあって、日本中のおじさんもおばさんも元気がなかったのよね。なんとなく。だから、おじさんとかおばさんに元気をあげるんだという思いでやっていました。私自身は非常に貢献しているつもりで」

−雑誌『少女』の表紙はお一人で10年間つとめたそうですね−

「5歳から15歳までの10年間だったと思います。『少女』の他にもいっぱいあったのね。『りぼん』だとか『なかよし』だとか。そういう雑誌のグラビアもみんな私だったから、めちゃくちゃに忙しかったの」

−学校にはちゃんと行けていたのですか?−

「それがお約束で仕事をやることにしたんですけど、早退はするし、遅刻はするし…。でも、我が家には家庭教師が住み込みでいましたし、恵まれていましたね」

−映画、雑誌、そして歌も歌われて。『おもちゃのチャチャチャ』も松島さんが歌っていたそうですね−

「はい。私が歌うのは、だいたいが映画の主題歌だったんですけど、コマーシャルソングもいっぱい歌っていたし、そういう延長でやったんだと思います」

−ものすごい数のお仕事をされていたのですね−

「そうですね。あの頃は映画の黄金期でしたから、5、6本は同時に撮っていました。あまりにもいろいろ同時にやっていたので、とにかく忙しかったわね」

※松島トモ子プロフィル
1945年7月10日生まれ。旧満州国奉天生まれ。母子2人で引き揚げを体験。1949年、4歳のときに芸能界デビュー。嵐寛寿郎主演映画『鞍馬天狗』、『サザエさん』シリーズなど多くの映画に出演。映画の主題歌をはじめ、歌手としても活躍。17歳のときにアメリカに2年半留学し、帰国後はミュージカル、テレビのリポーター、ラジオのパーソナリティー、CM、『ひょっこりひょうたん島』(NHK)の声優など幅広い分野で活動している。

©テレビ朝日

◆10日の間にライオン、そしてヒョウに襲われて…

1962年、17歳のときに松島さんは、日本の高校からアメリカの高校に留学することに。

−留学を決意されたのは?−

「アメリカ留学は当時の高校生にとって夢だったし、私は仕事と学校で疲れ果てていたのでしょうね。仕事が嫌いではなかったですけど、このままいったら変てこなおとなになっちゃうなぁって感じで。

母は祖父の仕事の関係で、香港ではイギリス系の学校に行っていたし、家ではあまり留学ということが突飛なことではなかったんですね。だから、『どうぞ、どうぞ』という感じで(笑)。

1ドルが360円の時代で、なかなか行くのも大変でしたね。ニューヨークでは高校の寄宿舎に入って勉強して、卒業してからマーサ・グラハムのダンス・スクールから奨学金をもらって、ちょっと教えていたこともあります」

−日本に帰ったらミュージカルをと考えてらしたんですか−

「思いましたけど、2年半も日本を離れていたので、私なんかもうとっくのとうに忘れられていると思っていたんですね。そうしたら羽田空港にものすごい数の取材陣の方たちが来てくださったけど、誰もミュージカルなんてご存じなかったですね(笑)」

−帰国後はリポーターもやってらっしゃいましたし、本当に幅広い分野でご活躍されて−

「あの頃は英語がしゃべれる人が少なかったんですよね。英語と日本語がしゃべれる人が。それで30代ぐらいからリポーターもやっていました」

ジョージ・アダムソンと

1986年、『TIME21』(日本テレビ系)の撮影でケニアを訪れていた松島さんは、10日の間にライオンとヒョウに立て続けに襲われるというアクシデントに見舞われてしまう。その衝撃的なニュースはワイドショーなどでも大きく取り上げられた。

−あのときは本当に驚きました。どんな状況だったのですか−

「『野生のエルザ』の作者のジョイ・アダムソンの夫であるジョージ・アダムソンの取材だったんですね。ジョージと一緒にナイロビのコラ動物保護区で、ジョージによって餌付けされたメスばかり7頭のライオンの群れといるときでした。

ジョージがジープに乗り込み、片方の足を車の外にたらして無線機で『第2ポイントでライオン7頭発見』というような無線をやっていて。

野生なんですけど餌やりをしているので、みんなお腹(なか)がいっぱいになって昼寝をしていたんですよ、ライオンが。そうしたら、小さなライオンが近くにいたので、(車の横で)ジョージの足に寄りかかるような格好で見ていたんですけど、みんな寝ていると思って、もう1頭いたことに気がつかなかったんですね。

それで『後ろにライオンがいるな』って思ったら、トトトトトッて私のところに近づいて目の前に来て、『ライオンだ、危ない』って思ったら頭にものすごい痛みを感じ、そのときから意識がないんです。

私はオレンジ色みたいなサファリスーツを着ていたんですけど、スタッフの方たちは『目の前を赤いものがサーッと通り抜けた』って言っていました。

爪かなんかを引っ掛けて10mぐらい引きずられていて、スタッフが『ジョージ、ジョージ』って呼んだんですけど、彼はそのとき81歳でしたから、耳が遠くて聞こえなかったみたいで。

やっとその群のなかからライオンを追い払って、私を抱いて『トモから目を離すんじゃなかった』って言うのが聞こえて意識が戻って。それでやっと救出されたんですよね」

−引きずられてライオンの群れのなかに連れて行かれちゃったということですか−

「そうです。7頭いたっていうんですけど、そこに横たわっていたって言いますから、餌状態ですよね。ライオンたちはその前に餌をもらってお腹(なか)いっぱい食べていたから食べられなかったけど、じゃれていたんでしょうね、私はボロボロ。

辺鄙(へんぴ)なところですからね。病院もないし、薬もないという感じで、フライングドクターがナイロビから飛んでくるまで待たなければいけない。事故が起こったのが夕方7時過ぎだったんだけど、もう暗いから飛べないんです。日が昇るまで飛べないの」

−痛みもすごかったと思いますが、ケガはどのような状態でした?−

「頭に爪をひっかけたみたいで、サファリの帽子はかぶっていたんですけど、叩(たた)いたのかひっかけたのかよくわからない跡がありました。それで着ていたサファリジャケットは、昆布みたいにズタズタに裂けていました」

−そこで撮影中止にならなかったのですか?−

「その日の撮影は一応終わっていたんですね。それで、ジョージのテントに戻ったんですけど、そのときはものすごい血が流れていて。頭と背中に引っかいた跡がいっぱいあったのと、足ですね。

日が昇ってからフライングドクターが飛んできて、ナイロビホスピタルに入って、10日間ぐらい入院だと言われたんですけど、3日で抜け出して」

−撮影に戻ったわけですか?−

「そうです。全然(カメラを)回してないですからね。着いた第1日目に私がライオンにやられたので、これはちょっとプロとしていかがなものかと…。

今もそうなのかどうかがわからないですけど、アフリカの奥地に入るのには相当いろんなものがいるんですね。黄熱病とかマラリアとかこれらの予防接種など、準備でひと月ぐらいかかったと思うんすよね。

それにアフリカに行くのは30何時間かかりますからね。それで全くカメラを回していないっていうのは、日本に帰れないというか、申し訳ないと思って」

−それを松島さんご自身が決断されて−

「そうそう。スタッフからは言えませんよね、そんなことは。昔はテレビ局もお金がありましたから、スタッフが何カ月も滞在してジョージ・アダムソンの生活を撮りに行っているわけですよ。それで彼の日常生活を撮影していて、最後に、リポーターの私が行って話を聞くということになっていたんです。私も残念。あこがれのジョージとの共演シーンも撮っていない。その第1日目にやられてしまったら帰れないですよね。撮影分が全部残っているわけだから」

−今の時代なら大騒ぎになって中止になると思いますが−

「フライングドクターが飛ぶところに通信社があって新聞記者がいますから情報は筒抜けですよ。だからそのときもすぐに記事が出ました。コンプライアンスは今みたいにうるさくはなかったけど情報はすごかったですよ。だからNHKで第一報が出て」

松島さんを襲ったヒョウ

ライオンに襲われて病院に運び込まれた松島さんだったが、10日間は入院の必要があると言われたにも関わらず、入院3日目に病院を抜け出して撮影に戻ったという。そして6日後、今度はヒョウの襲撃を受けることに。

「アフリカに行って10日目でしたね。ライオンの次にヒョウにもというのは、いくらなんでもまずいということで隠そうとしたんですよね。

またフライングドクターが飛んで来ているんですから、通信社、新聞記者、大使館はわかっているんですよ。アフリカでもライオンの次にヒョウに噛まれる人なんて、あまりいないですから、大きなところは止めたとしても、やっぱり口づてに漏れるわけですよね。

私はアフリカでは有名人でも何でもないですけど、ジョージ・アダムソンという人は、ナイロビでは神みたいな存在ですから、そこで2度も事故を起こしたらえらい騒ぎになるということで隠したんじゃないですか、テレビ局もね。でも隠しきれませんよね」

−どういう状況だったのですか−

「ジョージがライオンと暮らしているという場所ですから、観光客が入ってくるようなところではないんです。

それでヒョウは、パリのレストランで飼われていたんですけど、大きくなっちゃって手に負えなくなったので、野生に戻す訓練をジョージの弟子のトニーがしていたみたい。そんなことまでは聞いていなかったんですよね」

−それでは全く予期せぬヒョウの出現で襲われてしまったということですか−

「そうです。トニーのテント、テレビスタッフのテント、私のテントは離れていましたけど、安全のためにそれぞれ4m50cmのフェンスで囲まれていて、そのなかでみんな寝泊まりしていたんです。その日は『夕飯を食べにおいで』とトニーに言われ、私とスタッフがトニーのテントに行ったんですけど、トニーに『トモ子、いいものを見せてあげる』と言われて、ちょっとテントの外に出たのね。もちろんフェンスのなかですよ。

でも、ヒョウは木にのぼるので、乗り越えて入って来てうずくまっていたのね。私は全然気がつかなくて、いきなり体当たりされて倒れたところを首に噛みつかれて」

−ライオンのときとは比べ物にならないほど大変な状況だったそうですね−

「そうですね。見た目にはライオンの傷の方が、出血が多かったんですけど、ヒョウは首に噛み付いているので。

ああいう猛獣の傷は、ピンホールみたいに小さいんですけど、中が砕けちゃうんです。骨がガリガリガリって砕ける音が聞こえましたからね。『第4頸椎粉砕骨折』でした」

−第4頸椎粉砕骨折というのは、松島さんのように後遺症もなくというケースは珍しいと聞きました−

「麻痺がなくてというのはね。だから日本に帰ってからなんですけど、私の首の骨の写真をニューヨークの学会に出したみたいですよ」

−そのぐらい奇跡的な回復をされたということですね。ヒョウのときには何日ぐらい入院されたのですか−

「3日位でしたね。それでその後、撮影に戻ったんですよ。まだ3シーンぐらい残っていたので」

−撮影に戻ったんですか−

「そうです。今考えるとナレーションにしておけば良かったなあと思うんですけど、また病院を出て戻ったんです。自分でもバカじゃないかと思うんですけどね(笑)。

それで当初の予定分は全て撮影をして帰国したんですけど、ライオンとヒョウで日本中が大騒ぎですよね。それで番組が『それでも私はライオンが好き』というタイトルに変わって。

ジョージを延々と撮ったシーンはカットされていましたけど、ヒョウのことは隠したかったから無理のある構成になっていましたけどね」

帰国したときには成田空港に多くの報道陣が詰めかけ、ワイドショーなどでも大きく取り上げられた。首にコルセットを装着し、頭に布を巻きつけた痛々しい姿は今でもよく覚えている。

「あれはライオンの傷を縫ったときに、傷を縫うためにバリカンか何かで髪の毛を剃ったので、どうにもならない状態で、ネッカチーフか何かを巻いていたんですけど、下は包帯だったと思います」

帰国した翌日に昭和医大病院に入院し、数カ月に渡る入院生活を送ることになった松島さん。幸いなことに後遺症はないそうだが、噛まれた場所があと1ミリ違っていたら、死んでいたか、全身麻痺になっていたかもしれないと言われたという。次回後編では芸能界の父でもある永六輔さん、お母さまの介護生活を紹介。(津島令子)

※「松島トモ子コンサート」Vol.17
12月20日(金)成城ホール
午後1時00分開場 開演1時30分
お問い合わせ K・企画 Tel:03(3419)6318

※著書『老々介護の幸せ(仮題)』12月上梓予定
著者:松島トモ子 出版元:飛鳥新社
母・志奈枝さんとの介護生活、歩みについて自ら記した著書

関連記事(外部サイト)