キラーカン、転倒して大ケガ。「99%車いす生活になる…」と言われるも、決死のリハビリで歩けるように

1987年、突然プロレス界を引退してしまったキラーカンさんの決意は、目の前に大金を積まれても変わることはなく、復帰したいと思ったことは一度もなかったという。

引退から2年後、1989年には「スナック カンちゃん」を開店。“伝説の歌手”尾崎豊さんが常連客だったことでも知られ、現在は、東京・新大久保駅のすぐ近くで「キラーカンの店 居酒屋カンちゃん」を経営。プロレス界でもダントツの美声の持ち主でもあり、故・立川談志師匠のお墨付き。2005年にCDデビューをはたし、5月8日(金)には新曲『カンちゃんの人情酒場/カンちゃんののれん酒』が発売された。

◆尾崎豊さんと朝まで飲み明かしたことも

1989年、キラーカンさんは西武新宿線・中井駅のすぐそばで、「スナックカンちゃん」を開店する。現在は東京・新大久保の駅前で営んでいる「キラーカンの店 居酒屋カンちゃん」は、自身9軒目のお店になるという。

「一時は3軒やっていたときがあったんですけど、やっぱり私が店にいないとダメなんですよね。だから、今の店をあと何年かやってやめるつもりです。ここが最後」

−これまでかなりたくさんお店をされてきたのですね−

「今の店が9軒目になりますからね。最初は中井で地下がスナック、それからそのビルの1階で居酒屋。つぎに歌舞伎町のビルの同じ階でスナックと居酒屋をやって、つぎに西新宿で立ち飲み屋、6軒目は綾瀬。それからまた西新宿で1軒、歌舞伎町で1年やって、今の店は新大久保で9軒目」

−尾崎豊さんが通われていたのは最初のお店ですか?−

「そうです。最初の店に尾崎豊さんが、うちのお客さんの外車のディーラー、社長さんに連れられて来たんですけど、俺が好きなのは、三橋美智也さん、春日八郎さん、三波春夫さん、岡晴夫さん、田端義夫さんとかだったしね。

ずっとアメリカにいたから、尾崎豊さんのことはわからなかったんです。そうしたら、お客さんとか、うちで働いていたスタッフの女の子が、『尾崎豊さんでしょう?』って言って、ワーッてなったから、俺もカセットテープを買って聴いてみたんですよ。

それで、尾崎さんがうちの店を『アットホームだ』って、すごく気に入ってくれてね。お母さんと来たり、マネジャーの方と来たり、仲間と来たり、ひとりで来たり…よく来てくれましたよ」

−キラーカンさんのカレーは尾崎さんが大好きだったということで知られていますね−

「そうですね。もともとカレーはメニューにはなかったんです。うちで働いていた女の子が何人かいて、昼間は会社で仕事をして、終わるとそのまま店に来ていたんですよ。

その子たちが食事をしていないから、俺が自分なりにカレーを作ったんです。でも、俺は勉強したわけでもなんでもないし、ちゃんこ鍋とかそういうのはできるけどね。

それで、カレーは玉ねぎやニンジンなんかを炒めて普通にやっていたんだけど、自分なりに考えて、水と牛乳を使うのも良いけど、100%の野菜ジュースを入れたら美味しくなるんじゃないかと思って入れたり、ニンニクを入れたり、チョコレートをいれたり、フルーツチャツネをいれたり、桃やマンゴーの缶詰を買ってきてミキサーにかけていれたり…そうしたらものすごくうまくなって(笑)。

尾崎さんが、『お腹(なか)が減ってるので、何か食べるものはありますか?』って言うから、『女の子に出している、まかない用のカレーならあるけど』って言ったら、『食べたい』って言って。それで出したら、『おいしい。おいしい』って食べてくれたの。

いつもお腹を減らして来て、カレーを食べていましたよ。尾崎さんは一緒に飲むのが好きでね。うちの店からよその店にはいかなかったですね。

うちの店に来て、『カーンさん、明日仕事がないから、一緒に飲みましょうよ』って言って、一緒に飲んでいたら、うちのスタッフの女の子たちも『私たちもいいですか?』って言うから、尾崎さんに聞いたら『いいですよ。一緒に飲みましょうよ』って言ってくれてね。

女の子たちも一緒に飲んだら、次の日寝坊して会社に遅れたって(笑)。よその店に行ったら『尾崎豊だ』って騒がれるのが嫌で、うちの店で飲んでいたんだろうね。

いろいろ話をしたけど、普通の青年だったですよ。俺から見れば、年下だけど、お酒が好きな普通の好青年でした」

−26歳という若さでの死ははやすぎましたね−

「そうですね。亡くなる8日か9日前にも店に来ていて、朝まで一緒に飲んでいましたからね。ビックリしました。はやすぎましたよ」

店内には尾崎さんの写真も飾られ、尾崎さんが好きだったカレーは、今では欠かせないメニュー。尾崎さんの命日である4月25日やお誕生日には多くのファンがお店に訪れるという。

「今年の命日はコロナで自粛期間だったから店を閉めていましたけどね。ファンの方は命日とか誕生日には必ず来ますよ。尾崎さんが来ていたのはこの店ではないんですけど、俺の店だということでね。

みんな『カーンさん』って来てくれます。本当はキラーカンなんだけどね(笑)。アメリカでやっていたとき、リングアナウンサーが『キラー・カーン』って伸ばして言っていたから、現役時代はそれでやっていたんですよ。現役時代を知っている人は、今でも『カーンさん』って言ってますね」

◆立川談志師匠はテレビのイメージと正反対で…

プロレス界きっての美声の持ち主として知られ、歌手としても活躍しているキラーカンさん。立川談志師匠もその歌声に惚れ込んでいたという。

「1970年代のなかばに常磐ハワイアンセンター(福島県いわき市)で新日本プロレスのイベントをやったんですよ。第1部がステージの上で練習風景、第2部が歌の部。

それで俺が三橋美智也さんの『リンゴ村から』を歌った後、大部屋に帰ってきたら、ホテルの人が『三橋美智也さんのリンゴ村を歌った人は誰ですか?立川談志師匠がお呼びです』って言うんですよ。

俺はテレビのイメージしかなかったから、『ワーッ、あの毒舌の人?』って思ったけど、全然違うんですね。面倒見が良くて、気配りも細かくて。

食事に行っても、食べ物が残ったら、『板前さんが一生懸命作ってくれたのに、残すなんてとんでもない話だ』って言って、ビニール袋をもらって、必ずもって帰るんですよ。それで、冷蔵庫に入れて、つぎの日に必ず食べていました。

俺の家は貧しくてね。両親は小澤という姓の子どものいないおじいちゃんとおばあちゃんの家に養子養女として入ったんです。住んでいたのは長屋でトイレも外の共同トイレ。

ところが、俺のおやじはおじいちゃんとうまくいかなくて殴られて、『半年以内に必ず迎えに来る』とおふくろに言い残して小澤家を出て行ってしまいました。俺はおやじの顔も覚えていません。それからおじいちゃんはおふくろに当たるようになって。

それで、俺が保育園のときにおばあちゃんが病気で亡くなって、おじいちゃんはますますおふくろに当たるようになってね。今でも覚えていますが、『かあちゃんをいじめるな!』って、おじいちゃんの足に噛みついたこともありますよ。

でも、おふくろは子ども3人を抱えて行くところもないから、おじいちゃんのところにいたんです。おふくろは町のいろいろな店で注文を聞いて、長岡市の問屋さんに行って仕入れる『便利屋』という仕事をしていました。

弟は小さかったので、俺と兄は小学校が終わると、大きな荷物を背負ったおふくろが、吉田の駅の階段から下りてくるのをまつのが日課でした。

おふくろが階段を下りて来たときにはうれしくて、周りを気にせず、大声を出して喜んだことを今もはっきり覚えていますよ。

それから駅前の駄菓子屋でお菓子を食べさせてもらい、おふくろが運んで来た荷物を注文先に届けて代金を受け取って、注文があったら聞いて来るというのが俺の日課でした。

それからおふくろは家に戻って晩ご飯の支度をするんです。ある日の晩ご飯のおかずは豆腐だったんですけど、それを四つに切って、おじいちゃんと兄弟3人でその豆腐をつぶして醤油をかけて、ご飯の上に乗せて食べるのが大好きでした。

でも、おふくろの分の豆腐がなかったから、そのことを言ったとき、今でもはっきり覚えていますよ。自分はいらないから、俺にいっぱい食べなさいって言ってくれたんです。

そのとき、おふくろはキャベツを湯通しして、酢と醤油をつけておかずにしていました。でも、晩ご飯には味噌汁がいつもありました。越後味噌の味は今でも忘れません。その余った味噌汁のなかにご飯を入れて作った雑炊が、毎日の朝飯でした。

おふくろは本当に苦労して俺たちを育ててくれました。夜中、俺がトイレに起きると、おふくろは薬の勉強をしているんです。それで朝、俺たちが起きたときにはもう便利屋の仕事で長岡に出かけていました。

そうやっておふくろは無理ばかりしていたので、体調を崩してしまったんですけど、運良く町の大きな薬問屋に入ることができました。勉強して薬剤師の資格も取ることができたので、小さな店舗で薬屋をはじめたんです。

俺はおふくろに新しい家を建ててあげるのが夢だったんですけどね。でも、アメリカで8年以上、トップクラスのヒールとして頑張ったのに、なぜかかないませんでした。預金もないし、家も賃貸。結婚式をあげることもできなかったし、親孝行もできませんでした。

おふくろは、いつも俺たちに『いっぱい食べなさい。食べ物を残したらバチが当たるよ』って言っていました。

今の若い人たちは、『おいしい、おいしい』と言いながらも平気で残していきます。残すのが美学と思っているみたいで、店でテーブルを片付けながら涙が出てくることがありますよ。

そのときは談志師匠のことを思い出します。あの人は絶対残さなかった。残ったらもって帰ってつぎの日に食べていたからね。

本当に談志師匠はテレビのイメージとはまったく違っていました。それで俺がアメリカから国際電話をかけて『師匠、俺アメリカ人と結婚して、女の子が生まれたんですよ』って報告したら、『お前のカミさんに会いたいな』って言ってくれて。

ある日電話がかかってきて、『○月○日の飛行機でアトランタに着くから迎えに来いよ』って言うんですよ。それで女房と空港に行ったら、師匠が飛行機から降りて来て…。本当に来てくれたんです。

それぐらいあの人は本当に優しくて面倒見の良い人。うちの店にもよく来てくれました。歌舞伎町で店をやったときも来てくれて、俺を横にしてお客さんみんなに頭を下げるんですよ。

俺のことを小澤って言っていたんですけど、『小澤は良いやつだから、この店をよろしくお願いします』って、みんなに頭を下げて回ってくれるんです。

お客さんはみんな、『えーっ、あの立川談志が?あの生意気な口をきく人が?』って驚いていましたよ。だから、テレビでは、あくまでも自分のキャラクターじゃないですか。本当は全然違うんですよね。

三橋美智也さんにも紹介してくれて、『小澤、歌え』って言われて三橋さんの前で歌ったんですよ。そうしたら三橋さんが、『わー、良いものをもっているな。俺が預かるからプロレスをやめてうちに来い』って言ってくれて。

談志師匠も『三橋さんがこう言ってくれてるんだから、小澤、お前そうしろ』って言ったんだけど、俺はちょうどメキシコに行くことが決まっていたからできませんでした。

だから師匠が亡くなったときは悲しくて、お別れ会に行ったときも、涙が止まらなかったですね。談志師匠のお墓にも行きましたけど、本当にまだまだ生きていて欲しかったです」

◆雪の上で転倒して大ケガ、自殺を考えたことも

プロレスラー時代とは体型が全然違うというが、大きなからだはひときわ目立つ。肌も滑らかで73歳になるとは思えないほど若く見えるが、6年前には大ケガをして自殺しようとしたこともあったという。

「2014年の雪の日に滑って転んじゃって。もともと首を痛めていたんだけど、雪で転んだときに受け身を取っちゃったもので、首をおもいっきりやっちゃったの。

それで、救急車で病院に運ばれたんだけど、付き添ってきてくれたうちの従業員に先生が、『手術をして治っても99%車いす生活になります』って断言したのが俺の耳にも聞こえていたんですよ。

車いすだったら店にも出られないから、その日、みんなが寝静まったとき、窓のところまで何とか這って行って、自殺しようと思ったの。

もう死んでやろうと思った。思い残すことはないから、俺も飛び降りようと思ったんだけど、そうしたら窓が開かなかったんですよ。

だから、窓を割ろうと思ったけど、力が入らないから割れなかった。もっとも、割れるガラスではないみたいだったけどね。

それで、つぎの日に先生が回ってきたとき、『先生、モルヒネを打って殺してください。俺も昨日聞きました99%車いすだって。歩くことは不可能だって。車いすだと入口に段差があるから店にも入れないし、モルヒネを打って殺してください』って言ったんです。

そうしたら、先生が俺に『小澤さん、私も医者だから死ぬ前に私に手術をさせてください。それで、手術の後、あなたが死にたいなら、いつでも死んでください』って言ったんです。

それで手術を受けて、リハビリを受けることになって。3人がかりで車いすに乗せてくれてリハビリ室に行ったら、リハビリをやっている人たちがいるわけですよ。

それを見ていたら『俺もやってやろう』っていう気持ちになって。東京女子医大でも有名になったんだけど、夜中みんなが寝静まっているとき、起きて歩行器に乗って、ナースステーションの周りを30周ぐらいしたんです。

それで、その後、今度は廊下の手すりにつかまって、毎日スクワットを500回以上やったんですよ、汗をかきながら。

病院の看護師さんとかみんなびっくりしていたけど、そのうち歩けるようになっちゃったんですよ。最初リハビリ室に行ったときは、番号が付いたマッチ棒みたいなものを取り上げて同じ番号を書いてあるところに入れることすらできないくらい、首から下がひどい状態だったんですけどね。

でも、『絶対にやってやる』と思って、女子医大から今度は大久保病院に移されるんだけど、そこでも毎晩スクワットやなんかをやっていたから大久保病院でも有名になっちゃって(笑)。

それでそのうちに歩けるようになって。今も右半身はちょっとビリンビリンッてするんだけど、歩けるし、なんでもない」

−すごいですね。昔、鍛えていたからでしょうか−

「そう。先生も、『やっぱり昔鍛えた体ってすごいなあ』って言ってくれました。首の後ろをザックリ開いて、折れた頸椎(けいつい)を戻して、人工の留め金でとまっているんですよ。金具が入っているんです。

でも、こうやって店もやれているし、幸せ者ですよ。退院したとき、区の介護の人が1週間に2回部屋を掃除しに来るとか、食事を作るとか、いろんなことを言いにきたんだけど、全部断った。

人に頼っていたら、自分が動かなくなっちゃうし、店にも出られなくなっちゃうからね。全部自分でやることにして。

だから今、洗濯も掃除も全部自分でやっていますよ、ひとりだからね。でもいいんじゃないですかそれで。今はだいぶ目立たなくなったけど、傷がハッキリしていたときなんか、お客さんがビックリしていましたよ(笑)」

−お元気になって本当に良かったです。今後はどのように?−

「コロナで店も大変だけど、6年ぶりに新曲も出したし、もう一回頑張ってみようと思っています。『老人よ、大志を抱け』で、俺は73歳になったけど、まだ若い者には負けないという気持ちで頑張っているということを見せたいからね。

とても良い曲なんですよ。作詞は談志師匠とも入魂(じっこん)で人気漫才師だった新山ノリロー氏だしね。今は色々と大変だけど、店と歌で頑張りますよ」

アメリカに残った奥様と3人のお子さんたちとは36年間会っていないというが、スマホにはご家族の写真がいっぱい。今年5月には初孫も誕生した。いつかはアメリカに帰ろうと思っているそうだが、まずは新曲『カンちゃんの人情酒場/カンちゃんののれん酒』をヒットさせて、お孫さんに会いに行きたいと話していた。(津島令子)


※「キラーカンの店 居酒屋カンちゃん」
TEL 03-5285-1115
東京都新宿区百人町1丁目6-14-1F
定休日:毎週日曜日 祝日


※『カンちゃんの人情酒場/カンちゃんののれん酒』発売中
作詞:新山ノリロー 作曲:佐神光次郎 編曲:伊戸のりお
発売元:(株)アクセスエンタテインメント

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