京都老舗料亭「菊乃井」三代目・村田吉弘「くそーっ!ちゃうねん」フランスで感じた“日本料理への誤解”

京都・祇園の老舗料亭「菊乃井」の三代目として生まれ、後継ぎとして育てられたものの、大学4年生のときにフランス料理のシェフを目指し、修業のために母親が貯めていた200万円を持って単身フランスへと向かった村田吉弘さん。

フランス語も英語もおぼつかない状態で、辞書が頼りだったという。パリのババンにあるアメリカンホテルの7階の屋根裏部屋を半年間借りて暮らすことになった村田さんは、フランス料理を学ぶはずのパリで、日本料理の道に進む決意をすることに。

◆ランチはソルボンヌ大学に紛れ込んで

フランスで就職活動をするつもりだったが、同じホテルの屋根裏部屋の向かいに暮らし、雇ってもらえるかどうかもわからないまま皿洗いをしながら就職活動を続ける日本人シェフ上柿元勝さんの話を聞いて、村田さんは自分にはムリだと思ったという。

「僕はボンやからめげたね(笑)。彼はその後、あるところでマネージャーの部屋に連れていかれたら、薩摩焼の大きな壺があって、丸に十の字が書いてあったそうなんです。

それで、彼もフランス語をようしゃべれへんので、壺を指して『これは俺のところや』って言うたんですって(笑)。

彼は鹿児島の人間だから『これは俺のところや』って。そうしたらオーナーは、彼がこの薩摩焼を焼いている窯元の息子やと思って、それで雇ってもらえたって(笑)。

それで、同じホテルで一緒に暮らして何か月か経ったとき、彼は就職が決まって出て行ったんですけど、次に会ったときには、神戸の『アラン・シャペル』の料理長として日本に帰って来よったんですよ。

彼とは今も付きおうてますけどね。僕らがいたアメリカンホテルでは、2フラン払うと、2階にあるシャワーが浴びられるわけ。そやけど、もったいないから、ひとり隠れていて2フラン払って、2人で一緒にシャワーを浴びたりしていましたよ(笑)」

−村田さんは、毎日どのようにして過ごされていたのですか−

「僕はプー太郎ですからね。毎日公園で本を読んで、ソルボンヌの学食にお昼を食べに行ってました。

外部の人間は入れないので、黄色人種とか黒人の学生を見つけて、チケットを一緒に買ってくれと頼んで。白人はたいてい買うてくれないから。

向こうの昼飯は、学食もとてもいいんです。デザートまで付いてるんですよ。それで留学生と友だちになって、フランスに来た理由を聞かれたから、『フランス料理を勉強しようと思って来た』って言ったんです。

そうしたら、『日本料理というのは、そばも食うたし、天ぷらも食べたけども、日本人はあんな炭水化物ばかり食べていたら栄養失調になるぞ。だから自国のために勉強して帰った方がいいよ』って言うから、『くそーっ!ちゃうねん』って思うじゃないですか。

腹が立ちますから、『日本料理にはフランス料理とクオリティーが変わらん会席というコース料理があって、おやじやじいさんはそれを作ってきたんや』って、フランス料理を勉強しに来たはずなのに、必死になって日本料理を擁護(ようご)している自分に気づきました」

−ランチ以外の食事はどのように?−

「バゲットとチーズとワイン。バゲットは硬いし、水道水は飲めないから水を買ったら高くてワインと同じくらいなんですよ。それで安物のワインを買ったら、赤玉ポートワインしか飲んだことがないから、『酸っぱい。腐ってる』って思って(笑)。

それで栄養つけなアカンからと思って、チーズ屋に行ったら、種類が多くてどれがどんな味かもわからへん。とりあえずプロセスチーズみたいなチーズを買うたらせっけんみたいなゴリゴリじゃないですか。

まずいと思ったけど、食べなしょうがないんで、その酸っぱいワインを飲みながら、せっけんみたいなチーズをかじって、バゲットを食べるわけですよ。

それで、1週間にいっぺんぐらいはちゃんとレストランにいかなあかんなぁと思って行ったんですけど、当時、日本ではまだ予約をするという習慣がなかったので、レストランに行ったら、ノンやと。リザーブしろと言われて。

リザーブして行ったら、今度はドレスコードで引っ掛かって入れない。それでその次に行ったら、『何回もよう来たな』って、前菜とデザートをサービスしてくれて、『なかなかええところや、フランス』って(笑)」

−お料理はいかがでした?−

「その頃、『鴨のオレンジソース』がはやっていたんですけど、鴨と言えば、鴨ロースか、鴨鍋か、治部煮(じぶに)じゃないですか。

鴨にオレンジなんて気持ち悪いと思って、最初は避けたんですよ。でも、どこに行っても書いてあるので頼んだみたら、鴨の上にマーマレードみたいなのがかかっていて、『失敗したなあ』って思ったんやけど、食べてみたら『うまいやん』って(笑)。

『これはあかんわ』と。僕らは鴨を見たら、料理名を勝手に決めてかかっている。素材を見て、それとこれとがこう合ってというような料理の仕方は、日本にはないなあと。

魚の頭を見たら、あら炊きしようかとか、そういうことしか考えていない。これはいかんなあと。ヨーロッパ中回ったら、どれだけいろんなことがあるのか、わからんなあって思って」

◆「羊の脳みその塩茹で」が子どもの離乳食?

「鴨のオレンジソース」をきっかけにヨーロッパを回って色々な料理を試してみようと思ったという村田さん。フランス料理をあきらめるきっかけとなる出来事もあったという。

「ソルボンヌ大学に行く途中にリュクサンブール公園があって、僕はプータローですから、そこで本を読んでいるわけですよ。そうしたら、乳母車に乗せた子どもに離乳食を食べさせているお母さんが横のベンチにいはって。

ずっと見ていたら子どもに白いものを食べさせていたんです。だから、『豆腐どこかで売ってるんやろうな』って思って、そのお母さんに、『ケスクセ(これなんですか)?』って聞いたんですよ。

『豆腐』って言うてくれはるんやろなって思ったら、何かわけのわからん言葉が返ってきたので、お母さんに辞書を見せて教えてもらったら、『羊の脳みその塩茹で』って書いてあるんですよ。

『羊の脳みその塩茹で』をこんな小さいときから離乳食で食うとるやつに、勝てんなあと思って。そやから、フランス料理はフランス人には負けるわね。1番にはなれない。

世界で1番になれへんことを自ら、挑戦するほどバカらしいことは無いなぁと思って。世界で1番になれるチャンスは日本料理のみにある。だから、日本で1番の日本料理の料理人になろうと思ったんですよ。

それにフランスで食べた日本料理がものすごくまずかったんですよね。こんなまずいのが日本料理だと思われることが恥ずかしかった。日本人のプライドやったんでしょうね」

スチューデントフライトの滞在期間は半年間。滞在期間はヨーロッパ中回ってみることにした村田さんは、パリを拠点にして北欧からスペイン南部のマラガまでさまざまな地を訪れたという。

「野宿もしましたけど、公園だと身ぐるみはがされたり、危険な目にあうから、そういうときは教会の下で寝るんですよ。

虫が飛んでくるし、ちょっと明るいけど、まあまあ寝られるし、教会の下で寝ていると、朝、牧師さんがビックリして牛乳をくれたりするんです。

日本人は幼く見えるし、ボロボロのTシャツにボロボロの靴をはいて、リュックをかついでいるアジア人なんてあまりいませんでしたからね。

トコジラミに噛まれたり、いろんなことがありましたね。生ハムを買ってリュックに入れていたらカビだらけになって、まわりを削ってなかだけ食べたり…しょっちゅう下痢してましたよ」

−コレラの流行もあったそうですね−

「そう。これはやばいと、イタリアで発生したので、とにかく離れようと、そのまま夜通し汽車に乗ってスイスまで行きました。

それで、アフリカに行こうかと思ったんですけど、ちょうどアフリカから来た日本人がいたので話を聞いたら、『物価が安くて、メシは100円で食える。でも、食い物にはハエがたかっているから、それを平気で食えるようだったら行け』って言うんですよ。

それを聞いて『これはムリやなあ』って(笑)。そんなのを食ったら何の病気になるかわからへんしね。アフリカには行ってみたいと今でも思っているんやけどね」

◆日本料理をやると告げたとき、灰皿が飛んで来て…

半年間の滞在を終えて帰国した村田さんは、父親に日本料理の料理人になる決意を伝えることに。

「家に帰って来て、『日本料理をやります』って言ったら、おやじにえらい怒られて、灰皿をバーンと投げられて、『男が志を定めて出て行って、半年かそこいらで前言を翻して帰ってくるって、どういうこっちゃ』って言われて。

それで、まあまあ聞いてくれと。俺はこういう風に思って、やっぱり日本料理があまりにも情けないと。

パリなんかで日本料理屋っていったら、ひどいものだと。あんなにまずいものが日本料理だと思われるのはイヤだ。

日本料理を世界にちゃんと認めてもらうことを一生の仕事にしたいということを伝えたら、おやじが『お前の言うことは1回聞いてやった。だから、次は俺の言うことを聞け』って言って。

名古屋の『か茂免(かもめ)』という老舗料亭が明治生命ビルの15階、1フロアでカウンターも座敷も庭もあるという料亭を作らはったので、そこに修業に行きました」

−修業時代はいかがでした?−

「すぐ上が17歳とかやからね。それで、いきなり裏へ連れていかれて、『お前、俺らより年上で料理屋の息子らしいけれども、俺らのほうが上やからな。なめたらあかんで』って言って、出刃包丁を突きつけられて脅されて。

その店に中央大学を出た先輩がいはって、『あいつらにバカにされないように、ちゃんとあいつらを手なづけるぞと思ったら、俺と一緒に行動せえ』と言われて。

朝は9時から出勤なのに、8時に入って、あいつらのやることを全部やったんですよ。準備とか、あいつらがすることをみんなやって。

それで、晩はみんなが1番嫌がること、ドブや排水溝、トイレ、床など店中の掃除も全部やることになって。

『くさいしなあ』と思ったら、その先輩は『からだみたいに洗ったら終わりやろう』って言って全部脱いで、裸になってダーッてやってはったから。

『やるんやったら、こうやらんと、すごいなあって思ってくれるようなことをやらんとダメや』って言われて、それをやって」

−一緒に裸になってやったのですか?−

「裸になってやりましたよ。その先輩は1回しかやらないけど、僕はずっと、しょっちゅうやってましたけどね。

それで、毎晩ラーメン食べに連れて行ったりとか、ケーキを食べに連れて行ったりしていたら、『おい』って言っていたのが『村田』って言うようになって、『村田君』ってなって、『村田さん』になって(笑)。『次は何しましょう?』みたいになって」

−大学生になるまで厨房に入れてもらえなかったそうですが、色々できるようになったのは早かったですね−

「あんなものは自転車と一緒で、練習すれば誰でもできる。それよりも、うちのおやじが厨房に入れてくれなかったのは、『料理というのは、切ったり貼ったりすることは料理の一部ではあるけれども、それは料理ではない。

料理というのは、これで何を作って、どうやったらお客さんが喜ぶか、味つけはどうなんやっていうことが料理を作ることなんや。

下手に鯛が開けたりすると、料理をなめるやろ。そやから何か自分が、料理ができるような気になるから、それは全然違う』ということで、厨房に入れてくれなかったんです」

−修業時代は何年ぐらいだったのですか−

「3年です。新しい店なので、どんどんやめていくんですよ。だから、もうやらざるを得ない。上のほうに上がっていって、16時間ぐらいずっと働いていました。休みもなしに働いたから、からだを壊して入院もしましたけど、退院してしばらく働いて3年で帰りました」

3年間の修業生活を終えて「菊乃井本店」に帰った村田さんだが、1年後、「露庵 菊乃井木屋町店」を開店することに。次回、後編では、「露庵 菊乃井木屋町店」が予約の取れない店になるまでの道のり、東京進出、コロナウイルスの最前線の医療従事者へのお弁当などを紹介。(津島令子)



※「赤坂 菊乃井」
住所 東京都港区赤坂6-13-8
電話 03(3568)6055
東京メトロ千代田線/赤坂(東京都)駅 徒歩8分
営業時間:月〜土 昼:午後12:00〜12:30 夜:17:00〜19:30までのご入店
定休日:毎週日曜日、毎月第1月曜日、毎月第3月曜日



※「日本遺産大使」
文化庁が、日本遺産に広く関心を持ってもらえるよう、国内外に発信力があり、それぞれの個性溢(あふ)れる表現力で「日本遺産」の魅力をアピールできる著名人を任命。

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