村田吉弘、「閑古鳥が鳴く店」を3年で予約が取れない店に!満を持して「赤坂 菊乃井」で東京進出

フランス料理のシェフになるために訪れたパリで、日本料理の道に進む決意をして帰国した村田吉弘さん。

名古屋で3年間修行した後、「菊乃井本店」に戻るが、1年後、「露庵 菊乃井木屋町店」を開店。フランスでの経験を発揮し、はじめは閑古鳥が鳴いていたお店を3年間で予約が取れないと言われる有名店に。

そして東京のデパートに惣菜店を出し、1日限定100個の稲荷寿司が「幻の稲荷寿司」と話題になり、2004年、満を持して「赤坂 菊乃井」を開店。京都・祇園の「菊乃井本店」はミシュランの三つ星の常連であり、「露庵 菊乃井木屋町店」と「赤坂 菊乃井」はミシュランの二つ星の常連としても知られている。

◆毎月5万円の返済は簡単だと思ったが…

1976年、3年間の修業を終えて、「菊乃井本店」に戻った村田さんだったが、1年で本店を出ることに…。

「菊乃井に戻ったら、僕はいきなり専務。跡取りやから何もさせてもらえない。鍋を洗ってると、料理長に『息子はんはそんなことせんでもよろしい』と言われ、ええとこしかでけへんのですよ。

魚をおろすようなええ仕事が来るんです。それって、そこにそれまでいたやつは降格するわけですよ。中途半端なんです。

会社でもよくあるでしょう?御曹司は、あてにしていいのか、あてにしたらいかんのか、わからんみたいな、ああいう状態やね。

それに店の人たちも、僕が入って行くと、しゃべっていても話をやめてしまう。このままだと店の雰囲気も悪くなると思ったので、本店に帰って1年後,自分で店をやることにして。

それで、おやじに『300万円くれ』って言ったら『なんでお前に金をやんねん。貸したるから毎月5万円ずつ返せ』って言われて、木屋町に店を出しました。300万円で改装して。

最初は『300万くらい、毎月5万の返済ぐらいはすぐできるやろう』って思っていたんやけど、返せへんねん、それが(笑)」

−どういう状態だったのですか−

「オープンしてすぐは本店からのお客さんがいっぱい来はるよね。でも、しばらくすると、誰も来てくれへんようになって」

−何がいけなかったのですか?−

「それはね。火の粉がちゃんと起こるところで魚を焼くのは簡単よ。油の温度がちゃんと整っているところで天ぷらを揚げるのは簡単。

だけど、名古屋の料亭で使っていた器具と違うから何もできへん。火の粉が三つくらいしかないところで、小さいフライパンで天ぷらを揚げたらベタベタになるわね。

それで、基礎がわかっていないから、何でベタベタになるのかわからへんねん。鮎を焼くいうても、炭で焼いたらパリッと焼けるわね。そやけど、天火のガスで焼いたら、『なんじゃ?この鮎は』って自分でも思うくらいの鮎しか焼けんわけや。

それは結局、やってきたことが作業であるということやね。そやから、調理の論理を勉強しないといかんと思って、当時出版されていた料理書は、和洋中を問わず、全部読んだね。

それで、フランスで流行っていた真空調理というのも、フランスで知り合いになった人に原文を日本語に直してもらって、日本で最初に真空調理をやったのは僕ちゃうかな」

−すごい勢いでいろいろなことを吸収して実践されていったわけですね−

「そうやね。結局、お客さんが誰も来はらへんから、カウンターに座って本を読んでいるしかないわけ。片っ端から読んだね」

◆父親の古くからの友人のアドバイスが転機に

お客さんが来ず、開店休業状態だった村田さんの転機は、父親の古くからの友人のアドバイスだったという。

「京料理『たん熊』の先代がおやじと友だちで、3日に1回くらい来てくれはるわけ。それで、『ちょっとこれ食べてください』って出すと、『こんなもの食えへんで』って言うて、『これはこうしたらどうや、ああしたらどうや』って、いろいろ教えてくれはるわけ。

ある日、『木の芽あえ』をおやじが作っていたのと同じように作って出して、『それ甘くないですか』って聞いたら、『甘いと思ったら、甘くないのを出さんかいや』って言わはったんですよ。

だから、『これはおやじのレシピですねん。おやじと同じように作らんと菊乃井の味ではなくなるでしょう?』って言ったら、『お前はアホか。自分が最善やと思うものを出して、それであかんかったら、店閉めたらええけども、自分がこれあかんなあと思いながら人に出して、それで店が潰れたら悔いが残るやろ?自分の思うようにやらんかい』って言われて、好きなことをやるようになったんですよ。

そやから、フランスで新しい料理法も色々見てるんで、そういうことをやってみるようになったんやけど、おやじは、『お前、けったいなものばかり作るなあ』って言ってましたけどね(笑)。

そやけど、今で言うたら時代に合ったんだろうね。日本料理で低温調理をやったんは僕が最初。フランス語の原文の本を友人に訳してもらって、ラッピング調理法、真空調理、低音調理をやったらこれがおもしろい、僕の思うようにやりだしてからお客さんが来るようになって、3年で予約が取れへん店になったから」

−チョコレートとかおせんべいを材料に使うようになったのは?−

「あれはテレビ番組で、ディレクターが、『普通にやったら面白くないので』って言ったから、『ほなラムネを入れようか?ラムネはコーンスターチやから、とろみは付く。チョコレートは、苦味があって、深みが出るから煮込みものにチョコレートを入れたらおいしくなるよ』とか」

−色々と意外なものを使われていましたね−

「そう。理屈は一緒やから、理屈さえわかっていれば何を入れてもいいんですよ」

−東京に進出されたのは?−

「54歳のときに『赤坂 菊乃井』を出したんやけど、この店があかんかったら、本店まで危ういぞというくらいの金額やったね。

そやから東京で失敗できひんから、最初は菊乃井を直接出すのではなく物販からですよ。16年ぐらい前のことやけど、東京はけったいなところで、百貨店に行っても日本の食べ物があまりないねんね。

春になって竹の子を食べたいと思っても、竹の子を炊いて売っているところはないねん。そやから、裾野を広げるためにも、日本のおじいちゃん、おばあちゃん、子どものためにも、ちゃんとおからの炊いたのも、ひじきの炊いたのも売りたいなあと思って作ったのが最初。お惣菜とお弁当の店を出店しました」

−そうしたら、ものすごい評判になって−

「まぁまぁ。そんなことをやっている店がなかったのでね。二子玉川からはじめて、今、日本橋、新宿、横浜、関東の四大高島屋全部に店があります」

−1日限定100個の「幻の稲荷寿司」が評判に−

「そうですね。あっという間に売り切れて知名度も上がったところで、『赤坂 菊乃井』をオープンしました」

◆満を持して「赤坂 菊乃井」をオープン

東京・赤坂の竹林に囲まれた石畳の小道を上がって行ったところにある「赤坂 菊乃井」。門から玄関までのストロークが長く、清閑な佇まいの京数寄屋建築が印象的。

−お店の門から玄関までのストロークがかなりありますし、広いですね−

「そうやね。旗竿敷地(道路に接する出入口部分が細い通路上の敷地になっていて、その奥に家の敷地がある形状の土地)やったから消防署がうるさいんで、横のビルも買うて300坪ある。借金の塊やけど、次の代は楽しよるわな(笑)」

東京出店前から食に関するプロデュースの仕事も引き受けるようになり、回転ずし店や、シンガポールエアラインの機内食もプロデュース。機内で出す会席料理が話題になり、ほかの航空会社でも和食がメニューに加わるようになったという。

日本料理や京都文化に関する著書も多く、テレビ番組にも多数出演。2013年の和食のユネスコ無形文化遺産登録の際には中心的な役割を果たしたといい、2018年には「多年日本料理人としてよく職務に精励したこと」として、黄綬褒章受章、料理人初の文化功労者に選出されるなど数々の賞を受賞している。

−お店のほかにも色々なことをされていますね−

「一般社団法人『全日本・食学会』とNPO法人『日本料理アカデミー』の理事長をやっていて、両方合わせて1,000人の料理人のトップにいるわけやからね。日本政府がやろうとしている『ソサエティ5.0』などについてもミシュランと話したりしていますよ」

京都の「菊乃井本店」はミシュランの三つ星の常連であり、木屋町店と赤坂店はミシュランの二つ星の常連でもある。

−ミシュランの常連店としても知られていますが、従業員の方もすごく多いですね−

「菊乃井調理場だけで100人。人を育てることも仕事のうちやからね。見て盗めるようなものだったら教えてあげればいいし、自分で学べるような内容なら誰でもできる。

そういう表面的な技術の話ではなくて、それを超えたところに本質がある。一子相伝とよく言うけど、それは技術のことではなくて、ものの見方や考え方が伝えられているんやと思う。

『全日本・食学会』は、和・洋・中を問わず全部のシェフが700人で、日本料理だけで300人。

うちの息子はいま博士課程やね。息子と言っても、うちは娘しかできてへんから娘婿やけど、もともと優秀やから、頭がいい。それで、全然違うことをやってたんだけど、今、調理場に入って一生懸命やってはる。

そやから、英語もしゃべれて、農科学博士でというやつが料理でやっていくというのが、世界のためには必要なんでしょう。日本料理のためには必要なんでしょう」

−ユネスコの文化遺産登録にも尽力されて−

「あれで世界中に日本料理店が増えましたね。アラン・デュカスが、『フランス料理のユネスコ登録では僕がやったけど、日本ではお前がやるべきや』って言うからやったんやけどね(笑)」

−料理人としてはじめて文化功労者にも選ばれて−

「そうですね。料理、食を文化の枠のなかに入れることが目的やって、僕は文化功労者に選ばれるとは思ってなかったんやけども、あげると言わはるからもらおうと」

−日本遺産大使としても活動されていますね−

「お役に立てることやったらやらしていただいたらいいのではないかと。ただ、自分の役に立つことをやろうと思っているだけで、別に僕は有名になりたいとか、名誉が欲しいとか思ったことはないんやけどね。

みんなが無事に食べていけて、みんな独立していければと。今、日本人が1億2,600万人やけど、それが50年後に8,000万人になったときに、60歳以上が45%、働けない人が30%、あとの25%が75%を食べさせなきゃあかん国になる。

そのときに自給率はいま39%やけど、19%になると言われている。19%でアジアの経済発展終わってるわけよ。ほな、貧乏な国になっているわけ。

貧乏な国で自給率が19%だと、子どもが飢えるねん。そやからそれを防ぐためには、日本料理を世界の料理にして第一生産物を世界に売っていかなあかんわけ。

それで、観光立国にして世界中から観光客に来てもらって、日本中の日本遺産にバラっとバラけて行ってもらうということが必要なんや。そのためにいろんな活動しているだけです」

−これだけ忙しかったらホッとする時間などないのでは?−

「いやいやホッとしてばかりですよ。仕事はみんながしてくれはるから(笑)。今は東京と京都を行ったり来たりやけど、コロナウイルス感染拡大防止になってからはこれで2回目。

食を通じて社会に貢献するというのが仕事やから、補助金もらえるからといって閉めるのではなく、ひとりでも行きたいという人がいたらやる。

それで家からは出られないけど食べたいという人には弁当を作るというのが仕事。うちの先先代、じいさんなんかはB-29が飛んできて、大阪が焼け野原になっているときも暖簾かけていたそうですからね」

−自粛要請期間はお店をやりながら医療従事者の方にお弁当を?−

「そうです。医療従事者の支援は北海道から九州までやりましたね。そやから、結局北海道から九州まで困窮している病院に、僕はメディアには一切出えへんけど、みんなやった人らには出てもろうた。

それは500円で作ってもらって、1,000円払うてあげるねん。ほなら作った料理人は1個につき500円儲かるから、1日20食作って、それを25日やったら、彼らは家賃が払える。

『全日本・食学会』のメンバーである若い人らに潰れてほしくないからね。医療従事者の方々も、あれだけしんどいことをしてはるんやから、ちょっとぐらいおいしいものを食べてもらわないかん。

そやから、それでやったんやけども、食中毒が起こらんかとヒヤヒヤした。そのかわり、お金がものすごくいるやん?僕は理事長やから、理事長は金を集めることが仕事やからね。若い料理人たちが潰れないようにやっていかんと」

和食文化を世界に普及させるには、日本料理を作れるのが日本人だけではダメ。海外でも本物の日本料理の調理人を目指してもらえるように、和食の魅力を世界に発信し続けていきたいと話す。バイタリティーにあふれ、強いリーダーシップを感じさせる。(津島令子)



※「赤坂 菊乃井」
住所 東京都港区赤坂6-13-8
電話 03(3568)6055
東京メトロ千代田線/赤坂(東京都)駅 徒歩8分
営業時間:月〜土 昼:午後12:00〜12:30 夜:17:00〜19:30までのご入店
定休日:毎週日曜日、毎月第1月曜日、毎月第3月曜日



※「日本遺産大使」
文化庁が、日本遺産に広く関心を持ってもらえるよう、国内外に発信力があり、それぞれの個性溢(あふ)れる表現力で「日本遺産」の魅力をアピールできる著名人を任命。

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