【時代を変えたロックサムライ 新宿ロフトを生んだ男・平野悠】世界放浪の旅から帰還し「ロフトプラスワン」の立ち上げへ!

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 1984年、平野悠は6つのライブハウスを「新宿ロフト」だけを残し、のれん分けすると、日本を離れ世界放浪の旅に出た。船でウラジオストックへ渡り、シベリア鉄道でモスクワから東欧圏へ。「ポーランドで民主化運動を進めていた連帯のワレサ議長に参加させてくれって言ったけど断られたよ(笑)」

 日本語を教えたり、フルーツを売ったり、働きながら4年間、訪れた国は100超。サハラ砂漠横断に挑戦したときにはマラリアで生死の境をさまようことに。

 一転、カリブ海の心地よい音楽と風景を求めてドミニカへ。気がつくと日本レストランと貿易会社を立ち上げ、知り合った政府要人を口説き、90年に大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」のドミニカ館館長、セニョール・ドン・ヒラノとして帰国。外務省の役人に迎えられていた。

 長い不在から復帰すると「もう一度、人と人が出会って、ときめきを共有する喜び、その原点に戻ろう」との思いが沸き立ち、日本初のトークライブハウス「ロフトプラスワン」をオープン。ヤクザから元首相、犯罪者、オタク、AV女優…とジャンルにとらわれず、言葉でこだわりを発信する人々を招いた。

 歌舞伎町に移転したキャパ500人の「新宿ロフト」が「その歴史は日本のロック史そのものだ!」と賞賛されるのを尻目に、「西新宿ネイキッドロフト」「阿佐ヶ谷ロフトA」「渋谷ロフト9」「大阪ロフトプラスワン」を次々と開店。今や全国で500はくだらないという空前のトークライブハウス・ブームを巻き起こしたのだった。

 「ネットの普及で逆に人の出会いが不自由になるなんてまずいよ。つばが届きそうな距離で会って、新しいひらめきを交換して、それぞれがもっと自由を感じられる次の場所に行かなくっちゃ」

 今年1月には、恩師の長年の頑張りと変わらぬストリート魂に敬意を示し山下達郎が「新宿ロフト」に帰ってきた。キャパ500人の2回公演には、全国から6万もの申し込みがあった。

 愛と平和と喜びを探す魂の自由人、ロック文化請負人、平野悠、74歳。そのマジカル・ミステリーな旅は終わりという言葉を知らない。(室矢憲治)

 ■平野悠(ひらの・ゆう) 「株式会社ロフトプロジェクト」代表取締役、ロフト席亭。1970年に、郵政省を辞め、71年にジャズ喫茶「烏山ロフト」をオープン。82年、「新宿ロフト」だけを残し、各店舗を閉鎖またはのれん分けし、5年間にわたる海外でのバックパッカー生活を経験する。95年には新宿に「ロフトプラスワン」をオープンした。主な著書に『TALKisLOFT 新宿ロフトプラスワン事件簿』。

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