【この人の哲学】鎌田俊哉氏 ギターとレコード抱えて家出

【この人の哲学】ジャニーズで30年以上にわたって音楽プロデューサーとして活躍し、「夜空ノムコウ」などあまたのヒット曲を手掛けた鎌田俊哉氏。自身も「子供ばんど」などで活動していた鎌田氏が裏方に回った理由、そしてジャニー喜多川氏や大物ミュージシャンと接する中で得た“哲学”を語っていきます。今回はプロデビューまでの経緯。

 ――前回、「とんでもない経験もしてきたから」トラブルを乗り切れたとおっしゃっていました。まずは音楽を仕事にするまでを教えてください

 鎌田氏:生まれは東京の世田谷です。祖父は海軍の軍人、父親も海軍の通信兵で、戦後、東大法科に戻って、卒業後は会計検査院の院長までなった役人でした。つまり、ものすごく堅い家です。長男の兄はとても大事にされ、火鉢で靴下を温めてもらったり、おかずも僕よりひとつ多い。次男の僕は洋服もおもちゃも全てお古。そんな家で、僕は出来損ないでした(笑い)。

 ――昭和の半ばってまだそういう時代だったんですね。“反骨心”の芽が育ちそうです

 鎌田氏:祖父が海軍でハイカラだったから、家には世界中のSP盤がありました。4歳から家の近くでピアノを習い始め、中学生ぐらいまでやってたんですね。僕は親戚で一番年下。年上のいとこの影響でビートルズやベンチャーズを知って、中学からギターを始めました。

 ――ビートルズを演奏してたんですか

 鎌田氏:いや、ビートルズって難しいんです。彼らは演奏レベル高いですよ。子供でも弾けるフォークソングを覚えて、YMCAに入ってそこで弾いたりしてました。

 ――西城秀樹さんの歌で有名な青少年の団体! 学校生活の方は

 鎌田氏:中学は国立の学芸大附属という堅い学校でした。先生が許してくれて、3年生の時に文化祭でバンドを組んで、キャロルやローリングストーンズを演奏しました。それで高校に進む時、英語のおばあちゃん先生に「あなたは音楽好きだし、超進学校の学芸大の高校は合わない。都立に行った方がいいんじゃない」と勧められて、都立青山に進みました。

 ――不良だったんですか

 鎌田氏:そうじゃないけど、扱いにくかったのかもしれません。学芸大附属高校は東大、京大を目指す人ばかりだったんですよ。でも都立青山も区立中の1番が集まったような学校で、東大、京大を目指すような人ばかり。話が違いました(笑い)。そこでもバンドを続けて、2年生の時、受験で抜ける兄の代わりにバンドに入ったら、そのバンドでデビューすることになったんです。

 ――堅い家で親は許したんですか

 鎌田氏:親父は「大学を出て役人になるべき」という人だったので、絶対許してくれません。だから書き置きして家出したんです。ギターとレコード30枚ぐらい、ビートルズやレッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド…なんかを持って。

 ――家出! どこに行ったんですか

 鎌田氏:同級生がいいやつばかりで「俺たちはまだ夢を見つけてないけど、鎌田は見つけた」と守ってくれ、いろんな人の家に泊めてもらいました。担任が気づいて「鎌田はお前らの家にいるだろ」と言っても、しらを切ってくれてね。そのうち親も諦め、担任が「親が帰って来いと言っているから鎌田に伝えろ」と。それで何か月ぶりかで家に帰ったんです。同級生に助けられました。

 ――なんといい友達! 学校の方は

 鎌田氏:出席日数が足りないし、テストも受けてなかったんですが、3年の終わりに校長や担任に呼ばれて「お前に留年されても迷惑だから卒業させる」と。デビューしたバンドは、あまりやりたくないことをやっていたので、高校を卒業してすぐ辞め、子供ばんどに入りました。18歳の時です。 (次週に続く)

★プロフィル=かまだ・としや 東京都世田谷区出身。高校在学中に17歳でプロデビューし、子供ばんど、五十嵐浩晃のツアーバンドなどを経てプロデューサーに。ジャニーズのほかKiroroの「長い間」「未来へ」など数々のヒット曲をプロデュース。現在は中国にも拠点を持つ。悦音堂文化(北京)有限公司代表。カンタナ代表。

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