安藤昇と菅原文太 燻っていた脇役の運気を変えた「インテリヤクザ」との出会い

■文太が流した涙の理由


 あなたには「生涯の恩人」がいるだろうか。菅原文太にとって、それは組長から映画俳優に転身した安藤昇だっただろう。人生の転機をもたらしてくれたからだ。ふたりの出会いは1965年夏。脇役として燻っていた文太は、安藤の自叙伝を映像化した作品「血と掟」への出演を皮切りに、5本で共演を果たした。共演が続くうちに、文太は安藤の懐の深さに惹かれていく。安藤も文太を受け入れ、目をかけた。やがて文太は、安藤が経営する店に入り浸り、さまざまな相談を持ち掛けるようになる。『仁義なき戦い 菅原文太伝』(松田美智子・著)から青年・文太の知られざる日々を紹介する。

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 28歳の文太が、とめどなく涙を流したことがある。

 松竹入社後、2作目となる「学生重役」(監督・堀内真直/61年)に出演したときだった。主演は川津祐介で、島かおりと三上真一郎が共演している。文太は学生重役の一人で、脇役である。三上は高校在学中から役者志望で、ツテを頼って松竹に入社。18歳で映画デビューを果たし、美少年俳優と呼ばれた。文太と初共演したときは21歳だった。

■「こんな筈じゃなかったんだ!」


 その日、文太と三上は撮影を終え、伊勢佐木町で飲んだ。酔った文太は三上を自宅マンションに連れて行った。そこで三上は思いがけない光景を目にする。

 三上の「チンピラ役者の万華鏡」(「映画論叢」12号)というエッセイの中に、文太が早稲田大学の学生帽を持ち出してきて、強く握りしめ、こう語るくだりがある。

〈「こんな筈じゃなかったんだ!(中略)こんなことになるんだったら、松竹に来るんじゃなかった。約束が違う。約束が違うんだ。松竹は冷たい」〉

 文太はそう言ってすすり泣いたという。

〈「何のために俺は早稲田に行ったんだ。こんなことになるんだったら、役者になるんじゃなかった。こんな筈じゃなかった。松竹は汚い!」〉(同)

 愚痴に近い嘆きの言葉を、何度も繰り返した。

〈どうやら松竹は文ちゃんに美味しい話をしたようだ。(中略)菅原文太は松竹に来るべきではなかった。彼の頬を止め処もなく流れる涙を見て思った〉(同)

 文太は移籍2作目にして、松竹に失望していたのだ。新東宝では何本かの主役を演じたのに、松竹のデビューは「三味線とオートバイ」の端役である。続く「学生重役」も脇役とあれば、先行きが不安になるのも分かるが、初回から二日酔いでロケをすっぽかすようなことをしたのだから、会社の印象は悪い。また、移籍した“ハンサムタワー”の中では吉田輝雄が特別扱いで、いい役がついていた。人気も出演料も上だったので、嫉妬心もあったのだろう。自分だけが冷や飯を食わされているという感覚ではなかったか。


■役者業に対する執念


 三上は文太の涙を見て驚くが、その涙の意味について、こう解釈する。

〈あれは菅原文太の役者業に対する執念、言い換えれば彼が胸の奥深く抱き続けた、役者根性の表れだったと思うのだ〉(同)

 そして、自分でも空しい言葉だと思いながらも、文太を励ました。

〈文ちゃん、君に必ずスポット・ライトが当たる日がくる。俺のいうことに間違いない。その日まで頑張るんだ〉(同)

 松竹は白井松次郎と大谷竹次郎の兄弟が創業した会社だが、兄弟に続いて社長になった城戸四郎は、それまでのスター主義を退けて、監督第一主義を掲げた。城戸の下、小津安二郎、木下惠介、山田洋次らの監督が市井の人々を描いた作品を製作し、松竹の黄金期を築いた。だが、文太が移籍した61年の配給収入は大手5社の中で最下位に転落していた。

〈松竹つまり大船撮影所というのは、私が見た限り個性の強い役者は好まなかったようだ。おまけに一に監督、二に監督、三四がなくて五に監督の世界なら、会社の約束なんぞ空手形同然なのだ。(中略)夢と希望を持って伝統ある松竹にやってきた若きハンサム・タワー菅原文太(中略)。日々膨らむ後悔と猜疑が生み出す不安に苛まれていても可笑しくない〉(同)

 文太は三上の前で松竹入社を深く後悔しているかのように嘆いたが、結果的には、入社したことで次の道が開かれた。

 移籍から3年目の63年、30歳を迎える年、文太はようやく鬱屈した思いが炸裂するような作品に出会った。木下惠介監督・原作・脚本の「死闘の伝説」である。

 木下にしては暴力描写が多い映画で、惹句は〈戦争末期の定住者と疎開者の争いを描いた異色バイオレンス作品!〉とある。文太を配役したのは木下で、撮影所を歩く文太のギラギラした目にインパクトを感じたからだという。

 舞台は北海道の寒村。東京から疎開してきた黄枝子(岩下志麻)に、村長の息子・鷹森剛一(文太)との縁談が持ち上がる。剛一は中国戦線で負傷し、足が不自由なため、いつも馬に乗っていた。同じく戦場から帰還した黄枝子の兄・秀行(加藤剛)は、縁談を断る。剛一が戦場で犯した残虐行為を目撃していたからだった。

 破談のあとで惨劇が始まるのだが、山道を歩く岩下志麻を、馬に乗った文太が嬲(なぶ)るようにして追いかけるシーンは、実に印象的である。剛一の冷酷かつ非情な性格が見事に表現されており、こんなに憎々しい悪役が演じられるのかと、驚くほどだ。木下監督のきめ細かな演技指導もあって、文太はこれまでの外見重視とは異なる役柄に、初めて俳優らしい仕事をしたという感想を持つ。また、50日におよぶ北海道ロケで、映画の楽しさを知った。

〈そのへんのあたりから幾らか仕事を一所懸命やり始めたような気がせんでもない〉(「キネマ旬報」2015年2月上旬号)

「死闘の伝説」が公開された2年後、松竹移籍5年目の文太は、生涯の恩人といってもいい人物と出会う。安藤昇である。


■インテリヤクザ


 文太にとって28本目の松竹映画となる「血と掟」(監督・湯浅浪男)は、安藤の自叙伝『激動』を映像化した作品で、安藤の映画デビュー作である。二人はここで初めて顔を合わせた。

 このとき安藤は39歳。その人生は波乱に満ちていた。下北沢を拠点にする愚連隊から出発した安藤は、52年に渋谷で東興業(安藤組)を設立。組ではスーツの着用を推奨し、刺青、指詰め、薬物の使用、売買などを禁止した。

 最新のファッションを身に着け、当時では珍しい外国車を乗り回す安藤は、インテリヤクザと呼ばれ、警察も一目置く存在だった。警察官に安藤のファンがいて、幹部に組のバッジをねだったというエピソードがある。最盛期の構成員は530人以上。大学の運動部に所属する若者が多く、伝説のヤクザ花形敬や、のちに作家になる安部譲二がいた。

 安藤は映画出演の前年まで前橋刑務所に服役していた。58年、組員に実業家・横井英樹の襲撃を命じたことで殺人未遂罪に問われ、8年の懲役刑を受けたが、64年に仮釈放となったのである。その後、若い組員が死亡したため、東興業(安藤組)の解散を決意。カタギになった。

 安藤に俳優になる気はなかったが、組を解散したことで資産がほぼ無くなっていた。そこに松竹の関係者が現れ、目の前に現金を積んだという。

〈プロデューサーがオレに主演して欲しいと言ってきたのだ(中略)。並の役者じゃ、安藤組長のイメージがわきません。と、上手い事を言う。だが役者の柄じゃない。何度も断ったが(中略)結局、根負けしてやむなく主演したのである〉(安藤昇『王者の煩悩』コアマガジン)

「血と掟」で安藤は安藤組長を、文太は花形敬を演じている。

 文太が安藤昇に会ったのは65年夏、松竹大船の撮影所だった。安藤の名前は知っていたし、どんな経歴の持ち主かも承知していたが、目の前に立っている人物は、小柄で痩身。数々の修羅場をくぐり抜けてきたにも拘わらず、物腰が柔らかくて、威圧感はなかった。

 この映画が上映されたあとで明らかになったのは、安藤が契約金2千万円、1本の出演料が500万円という破格の待遇で松竹と専属契約を交わしていたことだった。しかも、俳優の経験がないのに、最初から主役で迎えられるという大物ぶりだ。安藤の知名度が極めて高いのは分かるが、出演料が20万円であり、何年も脇役で燻(くすぶ)っている文太には、面白くなかった。

 松竹の狙いは当たった。ヤクザから映画俳優への転身が話題になり、安藤が自身の人生を演じたこともあって「血と掟」はこの年の配給収入1位になった。傾きかけていた松竹の経営が持ち直すほどの収入だったという。

 映画が当たればシリーズ化するのはどの会社も同じだが、続いて製作された「掟」シリーズのうち、文太は、「逃亡と掟」「炎と掟」に出演している。

 また同年、安藤は評論家の大宅壮一と対談した。そのとき、安藤が記念の色紙を頼むと、大宅は即座に「男の顔は履歴書だ」と書いている。この言葉は、65年の流行語にもなった。

 男の中の男の顔と呼ばれた安藤の左頬には、深く長い傷跡がある。20代の頃、ヤクザ同士の喧嘩でつけられたもので、それが凄みを感じさせる一因になっているのだが、本人は不本意だった。著作の中で悔いている。

〈とうとうやくざのレッテルを派手に顔につけちまった。両親が見たら、どんなに嘆き悲しむことだろう。妻はどんな顔をするだろう〉(安藤昇『やくざと抗争』徳間文庫)

 文太が松竹で安藤と共演したのは5本だが、最も印象的な演技を見せたのは、66年公開の「男の顔は履歴書」(監督・加藤泰)である。

 物語は安藤が演じる町医者の弟役・伊丹十三と、朝鮮人の娘を演じる真理明美の恋を中心に描かれる。文太は、闇市を乗っ取るために、住民を追い出そうとして暴れる在日朝鮮人たちの一人だ。乱暴狼藉の限りを尽くすグループの中でも、文太の暴れぶりは抜きん出ていた。

 弾けるというか、実に大胆で、演技に迷いがない。文太がこれまで多く演じた色白で頼りない二枚目とは、正反対の人物像である。近寄る者に牙をむく狂犬のようだ。かつて「死闘の伝説」で演じた村長の息子役と通じる、内面からの暴力性を感じさせた。

 共演が続くうちに、文太は安藤の懐の深さに惹かれていく。安藤は組長だった頃から、自分を慕い寄ってくる人間を拒まない。文太のことも受け入れ、目をかけた。やがて文太は、安藤が経営する店に入り浸り、相談を持ち掛けるようになる。

■酒と女の日々


 松竹では仕事が途切れることはなかったが、給料の遅配があり、収入は不安定だった。

 文太は、上京後に覚えた処世術について、こう語る。

〈東京に出て来て10年も経てばこっちもかなりすれっからしになって、タダで酒を飲んだり、女をモノにしたりして、したたかに生きていくやり口を覚え始める時代でしょう(笑)。月給は安かったけれども何とか飯は食えたし〉(前出「キネマ旬報」)

 タダ酒は、安藤が青山で経営していた「アスコット」というサパークラブに通い、毎晩のように飲んだ。いつもカウンターの隅に陣取り、安藤が「飲み代は出世払いでいい」と言ってくれたので、一円も払わなかった。

 食事については、安藤組組員だった安部譲二の世話になった。同じく青山で安部が経営していたレストラン「サウサリト」のランチを食べ、毎回ツケにした。150円のランチのツケを1万8千円もためていたという。文太は当時、神宮前のアパートに住んでいたので、安部のレストランまでは徒歩数分の距離だった。

〈いや、譲二さんの店どころか、安藤(昇)さんがやってた青山の店も、踏み倒したのはおれひとりだから。「文ちゃんだけは、しょうがないなあ」なんていわれて。それはもう、数限りなく踏み倒しているんだよ(笑)〉(「アサヒ芸能」89年8月17日号)

 あっけらかんと語るので嫌味はないのだが、前述の「女をモノにした」手管については、えぐみが出てくる。

〈5、6年も都会に住めばね、女をたらしこむからくりも、野良犬みたいにわかってくるよ。一度バーの女を抱くと、次から飲み代がタダになる。せっぱつまった男の手管よ(中略)。あのころは、貧乏な野良犬を温かく包んでくれるような女がいたんだよ〉(「女性セブン」77年9月22日号)


■「菅原文太」という名前を変えたい――


 当時の文太にとって安藤は、誰より頼りになる相手だった。安藤とはもっぱら酒と女の話をしていたが、ある夜、文太は真剣な表情で安藤に相談を持ち掛ける。

〈「安藤さん、改名しようと思うんですが……。」と、相談されたことがある。俺より10歳ほど下だから、30代の前半になるかな。将来のことを考えれば、あせりもするだろう。その気持ちは、よくわかったけど〉(前出「キネマ旬報」)

 実際の年齢は7歳差だが、文太が一世代下に思えたのだろう。安藤は「いい名前だから、そのままやった方がいいよ」と改名に反対した。

 安藤があからさまな嘘をついたとは思えないし、この夜のことが記憶に印象的に残っていたので語ったのだろう。文太が改名を相談したというのは事実に思えるが、文太の仙台一高の同期生・佐藤稔は別の証言をする。

「菅原文太という名前を変えなかったのは、要するに、逃げたお母さんに分かるように、ですね。そうしたら、有名になったら出て来たそうですから」

 改名を実行しなかったのは、幼い頃自分を置いて家を出た実母に会いたいがため、という話には説得力がある。しかし、それは結果であって、改名を考えたという証言の否定にはならない。運気を変えたいという気持ちは強かったはずだ。

 67年、文太は「シンガポールの夜は更けて」(監督・市村泰一)、「宴」(監督・五所平之助)、「恋をしようよ カリブの花」(監督・宮崎守)、「人妻椿」(監督・市村泰一)の4本に出演した。女優が主人公の映画が続き、相変わらずの脇役で、この先も文太のための企画は期待できそうにない。スターなど夢のまた夢である。このまま俳優を続けていくのか……。

 松竹に移籍して6年。もはや若いとはいえず、34歳になっていた。ジリジリするような焦りはあるが、どうしていいか分からなかった。

 安藤が東映に誘われて移籍を決めたのは、この年である。

 移籍に向けて具体的に動いたのは、東映の大物プロデューサー・俊藤浩滋だった。「緋牡丹博徒」シリーズに主演した藤純子(現・富司純子)の実父で、寺島しのぶは孫になる。

 俊藤は2年前、「血と掟」を観たときから、安藤を意識していた。

〈ええマスクやなぁ……芝居は素人なんだけど、そこが実に魅力的だった。なんともリアルな迫力があって、ふとした一瞬の目つきなんか怖いほど鋭い。本物の顔をしているなぁと感心した〉(俊藤浩滋・山根貞男共著『任侠映画伝』)

 俊藤に移籍を乞われた安藤は、五社協定(専属監督や俳優の引き抜き、貸し出しの禁止)という映画界最大の慣習を「そんなもん、知らねえ」の一言で突っぱね、それを通した。松竹からは五社協定破りだと強く非難されたが、「知ったことか」と一蹴した。俊藤はその後、安藤の出演作のほとんどを手掛けることになる。

 そして、安藤によって、文太がついに「こここそが、俺の生きる場所だと直感した」という、東映への扉が開かれる。

デイリー新潮編集部

2021年7月21日 掲載

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