菅原文太を東映看板スターにした二人 ヤクザのようなプロデューサーと「おやっさん」と呼んだ先輩俳優

菅原文太を東映看板スターにした二人 ヤクザのようなプロデューサーと「おやっさん」と呼んだ先輩俳優

菅原文太(左)と若山富三郎

 運も実力のうちという。いや、実力が運のうちなのかもしれないが、ともかく菅原文太は俳優としての運に恵まれた。遅咲きで燻ったせいで任侠映画の隆盛に乗り遅れたが、おかげでその退潮に巻き込まれずにすんだ。安藤昇との出会いが最後の舞台・東映への移籍へとつながり、移籍後はさらに二人の恩人と出会うことになる。スター・文太を生み出した人の合縁奇縁について、『仁義なき戦い 菅原文太伝』(新潮社)の著者、松田美智子氏が紹介する。


■伝説の芸妓「そめ」との出会い


 菅原文太が松竹から東映に移籍したのは1967年、34歳のときだが、移籍から間もなく恩人が二人できた。

 一人は東映任侠映画の生みの親とされる俊藤浩滋プロデューサー、もう一人は、文太が「おやっさん」と呼ぶようになる若山富三郎である。二人とも、実に個性的で、波乱万丈の人生を送っている。

 まず、俊藤プロデューサーはヤクザのしきたりに詳しく、その筋の人間と親しかったことから、本物のヤクザと思われていたが、実際に盃を貰ったことはない。戦時中、神戸の五島組の賭場に入り浸っていたのは事実でも、当時の俊藤は会社員で、あくまで素人の客という立場だった。酒も薬もやらず、経理に明るかった俊藤は、やがて五島組の親分・大野福次郎の信頼をえて、五島組関係の興行を手伝うようになる。

 俊藤は若い頃から映画が好きで、幼馴染みの菅谷政雄(通称ボンノ・のちの山口組幹部)とよく映画館に通っていた。自分が映画製作に興味を持つようになるのは戦後、マキノ雅弘監督と知り合ったのがきっかけだったというが、これには、ある女性が関わっていた。祇園で伝説の芸妓だった「そめ」こと上羽秀である。俊藤は京都で遊んでいるうちに、ダンスホールで秀と出会い、深い仲になった。自宅に妻と三人の子供がいるにも関わらず、京都で彼女と同棲を始めたのだ。三人の子供のうち、次女がのちに女優になる藤純子である。

 上羽秀もまた、俊藤と出会ったときには“旦那”がいた。15歳で芸妓デビューした秀は、たぐい稀なる美貌が評判になり、たちまち祇園で一番の売れっ子になった。京都の財界人たちが集まり、「おそめを鑑賞する会」というお座敷を設けたほどである。

 19歳で松竹の役員に落籍された秀は、京都市内に家を買って貰い、母と妹と同居するようになった。秀が俊藤と出会ったのは22歳のときで、まもなく妊娠。“旦那”に打明け、別れてくれるよう頼んだという。

 ある映画関係者は、皮肉を交えて語った。

「当時の俊藤さんは無職で、金も持っていなかった。たいした男だよ。顔と度胸で高嶺の花を落としたんだから。松竹の旦那も度量が大きかったな。妊娠した彼女に家と手切れ金を渡して別れてやったんだ」


■現役の組員に指導を仰ぐ


 女児を出産した秀は48年、木屋町に会員制の小さなバー「おそめ」を開店。さらに55年には東京に進出し、銀座に店を構えた。秀の接客が評判を呼び、大仏次郎、川端康成、源氏鶏太、川口松太郎、東郷青児、岩田専太郎、横山隆一、マキノ雅弘、中曽根康弘、宇野宗佑、水原茂、別当薫、扇谷正造、池島信平ら各界の名士が集う場所になった。俊藤は、「おそめ」の経営に携わることで幅広い人脈を築く。この人脈がのちの俊藤の人生のバックボーンとなったのは確かである。

 客の一人だった岡田茂(当時は東京撮影所所長)は、こう回想する。

《俊藤さんがつくったクラブに行ったりして、京都でよく一緒に遊んでいた。ところがある日、俊藤さんがまじめな顔をして、僕のところに来て、こう言う。「俺をプロデューサーにしてくれないか」》(岡田茂『岡田茂自伝 波瀾万丈の映画人生』角川書店)

 岡田が承知してくれたことで、プロデューサー人生がスタートした。俊藤は64年の「博徒」(小沢茂弘監督)を皮切りに、任侠映画を中心に製作していく。賭博のシーンでは現役の組員を連れて来て指導を仰ぐなど、リアリティに拘った。本人が著作の中で心情を語っている。

《その思いの底には、私が若い時分から本物のやくざに接してきたということがある。で、これがやくざなんだ、という映画を自分なりに撮りたいなあと強烈に思った》(俊藤浩滋・山根貞男『任侠映画伝』講談社)

 任侠映画は大きなブームとなり、それまで燻っていた鶴田浩二、高倉健をスターに押し上げた。この成功を受け、俊藤は東映で押しも押されもしないプロデューサーにのし上がる。俊藤の前に文太が現れたのは67年。同年に松竹から移籍してきた安藤昇の紹介だった。

《とりあえず『極道』にキャスティングした。山城新伍や待田京介と同じ若山の子分役で。頼まれたので使うたが、やっぱりちょっと変わっていて、これは使い方によってはいけるなと思い、脇役を何本もやらせたあと、主役に持ってきた》(前出『任侠映画伝』)

 このあと俊藤は、文太を主役にして「現代やくざ」「関東テキヤ一家」「まむしの兄弟」などのシリーズを製作。「仁義なき戦い」の監督に深作欣二、脚本に笠原和夫、広能昌三役に文太を選んだのも俊藤である。俊藤が製作した作品への出演回数は70本以上。文太が鶴田浩二、高倉健に次ぐ東映看板スターになれたのは、俊藤の力が大きい。

《あとで考えたら、文太はタイミングが良かった。主役をやれるやつは誰かいないか、誰かいないかと思うてるときに、彼がうまくぐぐっと出てきたから。もしそうじゃなかったら、文太の位置に待田京介をもってきたやろう》(前出『任侠映画伝』)


■純粋な淋しがりや


 東映における文太の恩人はもう一人いる。

 実力はあるのに役に恵まれず、新東宝、東映、大映、東映と渡り歩いてきた若山富三郎である。若山と文太の縁は、俊藤が68年公開「極道」(山下耕作監督)に文太を配役したことから始まった。

 文太は若山主演の映画に常連として出演するようになり、「文太」「おやっさん」と呼び合う関係になる。若山は東映では新人扱いだった文太に目をかけ、文太が主演した「現代やくざ 与太者の掟」(降旗康男監督)や「新宿の与太者」(高桑信監督)では、脇に回って盛り立ててくれた。

 また、若山といるときの飲食代は払わずに済んだ。若山は文太の他に大部屋の俳優も連れて豪遊するので、出演料が二日で消えたこともある。

 太っ腹で、後輩の面倒見がいい若山だが、問題はその親分気質だった。若山の一番弟子だった山城新伍が、当時を回想している。

《おやっさんにしてみれば、文ちゃんのことは立派に自分の子分だと思っている。(中略)安藤昇という元組長で自身のことを映画化して役者として名をなした人物から、自分が文ちゃんを預かったというような意識があったのだ。たぶん、安藤さんは「頼みますね」と言った程度に過ぎないのだろうが》(山城新伍『おこりんぼさびしんぼ』廣済堂文庫)

 若山は運動神経がよく、太った身体でトンボを切る。また、弟の勝新太郎が「お兄ちゃんには適わない」と認めるほど殺陣が抜群に上手い。柔道は黒帯の腕前だった。欠点は、気が短いためすぐに手が出ることである。文太も平手で殴られたことがあった。殴るにはそれなりの理由があったものの、若山は自責の念にかられ、翌日には文太にウイスキーを持っていった。文太は顔を腫らしていたという。

《「おい、文太、おまえ、酒、好きだろう? これ、家にあったからよ」どこかで買ったに違いない、きれいに包装したばっかりのウイスキーだったりするのだ》(前出『おこりんぼさびしんぼ』)

 若山は下戸なので、家に酒は置いていない。「悪魔の飲み物」と呼んで、むしろ嫌っていたのだが、断りきれずに酒を飲み、死にかけたことがある。

 ある日、高倉健がマムシ酒を差し入れにきた。若山が喘息持ちと聞いたからである。これで元気になってほしい、という高倉の思いに、若山は礼を言い、その場でコップに入ったマムシ酒を飲みほした。間もなく、若山の顔は腫れ上がり、歪んだマスクのように変形した。異常に興奮し、訳が分からないことを喋りまくる。病院に運ばれる事態になった。

 文太が東映に移籍して4年後、若山が文太を怒鳴りつけるという出来事があった。文太の主演作が増え、スター意識が出てきた頃だった。若山と共演していた映画の現場に、文太が大幅に遅れてきたのだ。二日酔いによる遅刻だった。若山は「役者ができん顔にしたろか!」と怒りをぶつけてきた。若山の迫力に押されたのか、以後、文太が遅刻をすることはなくなったという。

 男には強面だが、女の前では純情だったという若山は、一度離婚を経験したあとは、一人を貫いた。「若山組」と呼ばれる撮影所の取り巻きたちが家族だった。

 山城新伍によれば、《おやっさんはもともと、人が周りにわんさといなければならない、純粋な淋しがりやなのだ》という。

 さびしんぼの若山は、弟の勝新太郎、中村玉緒、清川虹子らと賑やかに麻雀の卓を囲んでいる最中に倒れ、息を引き取った。死因は急性心不全。鶴田浩二と同じく、享年62だった。

デイリー新潮取材班

2021年9月2日 掲載

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