「笑い声は時として凶器になる」 ふかわりょうが五輪を巡る炎上騒動で感じた「周囲の笑い声の残酷さ」

■笑い声が“凶器”に変わる瞬間


 ふかわりょうが刊行したエッセイ集『世の中と足並みがそろわない』(新潮社)は、発売日に即重版するなど話題に。お笑いを仕事にしてきたふかわさんが思う、笑い声が“凶器”になる恐ろしさとは。

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 女性蔑視発言。学生時代の悪行自慢。メダルを噛んだ首長。多くの批判を呼び、大きな炎に包まれましたが、これらに共通していることは、笑い声が聞こえること。いつも、そこに笑いがあること。

 教壇で生徒が教師の尻に蹴りを入れている動画が拡散されたことがありました。教師が蹴られる度に響く笑い声。私が教師の立場だったら、蹴りを入れられることよりも、笑い声の方に痛みを感じます。なぜなら、その笑い声は、彼の行為を肯定しているから。客観的に彼を応援する形になっているから。教師は孤立し、笑い声が凶器に変わっています。


■笑い声を形成するものとは


 この笑い声を形成しているのはなんでしょう。本当に面白いと思っている者。なんとなく雰囲気で流されている者。笑わないとまずいのではという同調圧力に屈した笑い。さまざまな笑いがありますが、それらがミックスされた結果、生徒の蹴りにエネルギーを与えます。笑い声という形で蹴りに加担している。それは、蹴りを受ける者に精神的な痛みを与えます。

 女性蔑視発言も同様、笑いがありました。発した者は蔑視しているつもりはなく、むしろ、みんなが喜ぶと思ったのではないでしょうか。「あの人がいると、長くなるからな」くらいの気持ちで。ここでも、共感して笑う者、権力に屈して笑う者。結果、「そうだそうだ!」と加担する声になります。もしも、あの映像に笑い声がなければ、嫌悪感は若干薄まったかもしれません。

■イエスマンの笑い声で周りが見えなくなる権力者


 誰しも、雰囲気に押されて笑ってしまったものの、あとで冷静に考えたら、あそこは笑うべき状況ではなかった、ということはあるでしょう。場を重んじ、協調性を大切にする習慣の弊害。気を使って笑う人々。そこに権力者がいれば、たくさんのたいこ持ちもいるでしょう。出世のために、上司の駄洒落に爆笑する部下。笑うことで懐に入る。私はあなたに従っているという表明。自己防衛としての笑い。面白いからではなく、意思表示としての笑い。

 しかし、こういう人々に囲まれた環境はやがて、取り返しのつかない発言を誘発します。あの女性蔑視発言は、個人というより、発した人物を取り巻く環境によって生まれた言葉。神輿を担ぐように、普段から彼の発言を持ち上げる空気の末路。えてして権力者に起こりがちなのは、この構造です。イエスマンが集まっていると権力者は聞こえのいい笑い声に囲まれて、本来聞くべき音が聞こえなくなってしまう。


■笑い声に乗せられて……


 かつて、私の現場マネージャーに究極のイエスマンがいました。新人の頑張り屋さんだったのですが、収録後に「どうだった」と聞けば間髪入れずに「良かったです」。たとえ土砂降りでも、私が「いい天気だね」と言えば、「ですね」と言う。私は、自分が腐ってしまうと思いました。ちなみに、チーフ・マネージャーが、泣く子も黙るノーマン。滅多に首を縦に振らない男。間に入っているマネージャーは、「チーフに聞いてみます」と仲介に徹する男。そういう意味では、アクセル、ブレーキ、クラッチと、とてもバランスのとれた素晴らしいチームでしたが。

 学生時代の横暴を尋ねるインタビュー。そこにも笑いがありました。聞き手が笑顔で合いの手を入れれば、話し手も饒舌になり、餅つきのようにテンポよく進む取材。機嫌を損ねるわけにはいきません。ライターも、書くためにたくさん話してほしいわけですから、そこに倫理観や常識を持ち込もうとは思いません。ましてや心酔している人へのそれであれば尚のこと、正義心なんてどこかへ行ってしまいます。当時のインタビュアーが、内心、これはちょっとまずいなと思っていたのかはわかりませんが、たとえそうでなくとも、彼を責める気にはなれません。私自身も当時その記事を目にしていたら、語る人物の魔法にかかっていたかもしれないですから。いずれにしても、聞き手の笑いは、彼の行為を肯定し、被害者に、より痛みを加えることになります。


■タレントの役割


 漫才やコントのツッコミは、ある意味、社会通念。常識の役割。突飛な発言が出たとき、相方が突っ込むことで笑いになる。たとえ不謹慎なことを言ったとしても、「あかんやろ」と制裁を加えることでボケが笑いとともに流れていきます。もちろん、度を超えたものは、突っ込んでも問題視されますが。しかし、そういった制裁を加えないまま、周囲が容認してしまっていると、その空間では笑いで水に流せても、一度外に出回った時、風当たりは計り知れないものになり、やがて炎が立ち昇ることでしょう。(ツッコミという名の訂正や制裁は、いろんな方法がありますが、ここでは一例としてあげています)

「新幹線でスクロールするニュースを見ていたんですよ、そしたらね、鳴き砂の音がラだったっていう。もう、どうでもよくって」という男性二人の会話がかつて放送されました。聞き手の方はもちろん、客席も笑っています。視聴者の私は真顔。喫茶店での会話なら問題ありません。そこでテレビが伝えたのは、「鳴き砂の音がラというニュースはみんながどうでもいいと思っている」ということ。私は、幸か不幸か、このような経験をエネルギーにし、時を経て文章化するタイプですが、どんなハードディスクよりも高画質で私の脳裏というスクリーンに投影されるのは、少なからず、痛みを伴ったからでしょう。もしあの時、聞き手が、「そんなことないでしょ、重要なことだよ」と言えば、鳴き砂の研究者を始め、私のような視聴者の気持ちを汲み取ることができ、お客さんの笑いのベクトルも変わってきます。前者では、「鳴き砂の音がラだとわかることがどうでもいい」に同調する笑いですが、後者は、「どうでもいい」と思う人に対する笑い。テレビタレントというのは、そういった、笑いと配慮を瞬時に判断しながら言葉を発することが仕事だと思っています。なので、時として、自分の意に沿わないことも放たないといけません。仕方ないです、プロなのですから。そんな私も、過去に大事故を起こしたことがあります。


■薄毛をウリにするタレントに放った暴言


 トーク番組に出演した時です。司会は、薄毛を商売道具にしている男性タレント。その方にいたずらされて、返す言葉を探す、当時20代の私。そうして放った言葉が、「この……ハゲ!」。スタジオは一瞬ひやりとしました。その後、客席から上がる「えー!」というブーイング。「ひどい」「言っちゃいけない」という空気。収録ではあるものの、生放送のような完パケスタイルだったので、そのやりとりはそのままお茶の間に流れました。収録後、番組のプロデューサーが私を呼びます。

「ふかわ、言っちゃったらダメなんだよ。このハ……ハ……初めましてとかさ」

 本当にありがたいです。たとえそれを売りにしているとしても、自虐で言うのと、他者から言われるのでは全然違います。あの発言は完全にプロ失格。あの時のスタジオの空気とプロデューサーの言葉が私の体に深く刻み込まれました。


■生徒の容姿で態度を変える教師


 私が中学生の頃に通っていた塾では、可愛い生徒には上品なトーンで、そうでない生徒には、それなりのトーンで名前を呼ぶ先生がいました。相手の美醜で態度を変えるという笑いは、当時、珍しいものではありません。笑い声が響く教室。ひどい扱いを受ける女子生徒が、自分のキャラクターをわかっているように振る舞っていましたが、本心はわかりません。深く傷ついていたなら、先生も、笑う周囲も同罪でしょう。

 天然パーマの人の頭部に焼きそばのあんかけを無理やりかけて面白がっている様子がゴールデンタイムのお茶の間に流れていました。当時は、人が嫌がることをして笑うバラエティーのノリがありました。果たして、胸を痛めた人はどれくらいいたのでしょう。たとえ、やられる側が、これも仕事だと誇りに思っていたとしても、今は放送できません。
 
 子供の頃の遊びにも、仲間はずれを生みやすい構造はありました。缶蹴りや、ジャンケンをして鬼を決める遊び。当時はそれで楽しかったのですが、油断すると、いじめの構図が生まれてしまう。今となっては残酷にすら感じるのは、自分が年を取ったせいでしょうか。なんでもかんでも厳しく取り締まると、手を繋いで走る徒競走や、全員が主役の学芸会になってしまうので、いい湯加減が必要ですが。


■寛容さを保ちながら配慮する社会


 最近は、容姿をいじる笑いについても問題視されるようになりました。とてもデリケートです。国民的アニメを見ても、容姿を面白さに結びつけているものはあります。たとえ本人が自虐でやっていても、今後は、「ブサイク」を笑うことは減っていくでしょう。また、自分自身が容姿で笑いを得てきたのに、今からそのシステムを否定するのは勇気のいること。捉え方によっては、散々CO2を撒き散らしておいて、自国が発展したら、他国にはCO2を出すなというようなもの。だから、人に強要するのではなく、自分で心に留めておけばいいのでしょう。

 太っている人が機敏に踊っていると日本人は笑っていましたが、海外では笑いません。差別云々ではなく、文化の違い。ただ、これからは、国際的な基準が日本での笑いに影響を与えるでしょう。

「いやぁ、すっかり痩せちゃって」

「いや、肥えとるがな」

「すっかりフサフサになっちゃって」

「ハゲとるがな」

 このやり取りを何も考えず笑っていられる世の中はもう来ないかもしれません。「あれ、これって笑っていいのかな」と。かといって、人の容姿に触れられない空気も恐ろしいです。人を傷つけてはいけないけれど、過剰に反応していたら、世の中がとても窮屈で、生きづらくなります。寛容さを保ちながら、配慮する社会であってほしいものです。


■自分もいつかメダルを噛んでしまうかもしれない


 尊敬語、謙譲語、丁寧語。関係性を重んじる国民性。その副反応として、仲間はずれを作ったり、人と違うことを笑ったり、差別的な笑いを生む土壌となっています。集団生活における、歪んだ自己防衛によって生まれる差別。何を面白いと思うかは自由ですが、笑い声は言葉と同様、人を傷つける刃物になりうる。

 愛想笑い、苦笑い、思い出し笑い。状況に応じて、笑い方を使い分ける日本人。中でも、愛想笑いは日本人の特技かもしれません。全く意味をなさないものもあれば、私は、あなたから嫌われたくない、好印象を持たれたい、という意思表明もあり。逆に、嫌いな人には一切愛想笑いをしなかったり。日本では愛想笑いが一つの意思表示の役割があり、社会の潤滑油になっています。しかし、海外に行くと当たり前には見かけません。普段、愛想笑いに囲まれているから、なくなったことで冷たい印象を受けることもあります。

 断る意思を伝える際に、日本人は笑顔を添えてしまいます。その件に関しては断るけど、私を悪く思わないでね、と。これも国民性。笑顔なしに、「結構です」と言ったら、怒らせてしまうかもしれない。しかし、この表情は外国人には不可解に映り、なんで笑っているのかと不気味がられます。周囲の顔色をうかがい、協調性を重んじる風潮が生んだ愛想笑いも、加減や場所を間違えるといい結果に繋がりません。一方で、「まじウケる」と言いながら、顔が全く笑っていない人も日本では多く見受けられます。

 笑いが好きで、この世界に入りました。気がつけば、年下ばかりのスタッフに囲まれ、こんな私でも気を遣われる存在になりました。年を重ねるほど、立場が上になり、誰からも否定されない日々。私もいつか、メダルを噛んでしまうのではないか。そうならないためにも、笑い声の成分をしっかり見極めたいと思います。

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