芸能生活52年 「由紀さおり」が振り返る「ドリフ」「家族ゲーム」「2度の挫折」

芸能生活52年 「由紀さおり」が振り返る「ドリフ」「家族ゲーム」「2度の挫折」

由紀さおり(左)と姉の安田祥子

 ベテラン歌手の由紀さおり(75)が単独インタビューに応じ、50年余の芸能生活を振り返った。デビュー曲「夜明けのスキャット」(1969年)など往年のヒット曲の秘話を明かしたほか、ザ・ドリフターズとの共演の思い出、女優活動のこぼれ話などを語った。

 由紀さおりは、ドリフがメインを務めていたTBSの伝説的バラエティ「8時だョ!全員集合」(1969年10月〜1985年9月)の常連ゲストだった。数えてみたところ、50回以上出ている。ゲストとしては最多出演者だ。

 ドリフと所属芸能プロが一緒だったわけではないし、持ち歌も「手紙」(1970年)、「恋文」(1973年)などムーディな曲が多く、ドリフとはイメージが違う。どうして共演が多かったのだろう。

「まず私が『夜明けのスキャット』でデビューしたのは1969年で、『全員集合』が始まった年と同じという縁があるんです。それと、あの番組は視聴率が30%も40%もあったので、コントの合間に歌わせていただけたら、凄いチャンスになったんですよ」(由紀、以下カギ括弧は全て)

 もちろん歌手なら誰でもゲストになれたわけではない。由紀はヒット曲が多かった上、故・いかりや長介さんからコメディエンヌとしての才能を高く評価されていたことから頻繁に招かれた。

「最初はちょっとしたコントみたいなものを、いかりやさんから『こうやって、ああやって』と口立てで教えていただきました」

 やがて本格的なコントにも参加するようになり、ついにはオチの一言まで任せられるようになった。

 公演先は地方の市民会館が中心。テレビ画面で見ると立派なステージとセットだったものの、実際にはガタガタと音を立てるような代物だった。

「それを隠すためにダーッとカーテンを引いて(笑)。ステージ上はホコリも酷く、大変だったんですよ」


■志村けんさんとの交流、そして映画出演


 故・志村けんさんがドリフの付き人になったのは1968年で、正式加入は1974年4月だから、由紀はずっと知っている。

「本当に一生懸命な人でした。先輩たちの世話をするだけでなく、合間に奇声を発したり、変な格好をしたり、常にギャグをやろうとしていた。良い意味でエキセントリックな人でしたね」

 フジテレビ「志村けんのバカ殿様」(1986年〜2020年)の初期には腰元の1人として登場していた。「全員集合」組からの援軍だった。

「私は志村さんに『年齢詐称め!』と、とがめられ、斬られちゃうって筋書きなんですけどね(笑)」

「全員集合」がきっかけとなって出演したのが日本映画史に残る名作「家族ゲーム」(1983年)。3流大学に通う7年生のぶっ飛んだ家庭教師に故・松田優作さんが扮し、俗っぽい父親を故・伊丹十三さん、高校受験を控えた中学3年生の次男を宮川一朗太(55)が演じた。由紀はちょっと軽くて気の良い母親役。「全員集合」での由紀に惚れ込んだ故・森田芳光監督に口説かれての出演だった。

「森田さんから、『全員集合』のままで良いですから、調布の日活撮影所に遊びに来て下さいと言われたんですよ」

 だが、森田監督は由紀の女優としての才能をちゃんと見抜いていた。この映画で由紀は第7回日本アカデミー賞の優秀助演女優賞などを受賞する。その後、映画やドラマへの出演が相次ぐようになる。

「あの映画の時はお昼になるとみんなで食堂に行き、テーブルを囲んだんですが、伊丹さんと優作さんは見事なくらいに映画の話しかしない。『あの映画のあのシーンのあのカットは良かった』とか。伊丹さんは撮影の空き時間が出来ると、スクーターで新宿へ行ってしまい、映画を観てくる。その後はまた優作さんと観てきた映画の話でした」

 伊丹さんが監督として世に出た「お葬式」の公開は翌1984年のことだった。

「森田さんも伊丹さんも優作さんも逝ってしまい、それは残念ですが、お子様たちが活躍されてますから……。お3人とも安心してらっしゃるのではないでしょうか」


■CMソング界に参入も…


 苦労のない芸能生活だったように見える。「夜明けのスキャット」がいきなり160万枚も売れた。2011年にはピンク・マルティーニとのコラボレーション「1969」が50ヵ国以上でCD発売・配信され、大ヒットした。

 だが、本人は何度か挫折感を味わっているという。

「幼いころから、ひばり児童合唱団に所属していて、そこでオーディションに受かり、ソロデビューさせてもらったんですけど、世には出られなかったんですよ」

 本名の安田章子で「ヒッチハイク娘」などを歌った1965年から1966年のことだ。

「当時は歌手がみんなで新聞社に売り込みに行ったんですが、ヒットの兆しがある人とない人では扱いが全く違うんです。私なんて見向きもされませんでしたよ」

 その後、NHK「おかあさんといっしょ」でうたのおねえさんを務める一方、「おもちゃのチャチャチャ」などをつくった作曲家の故・越部信義さんに薦められ、CMソング界に参入し、約300曲も歌った。

「当時はレコード歌手としてはダメだったわけです(笑)」

 だが、やがてCM界の巨匠でもあった故・いずみたくさんのCMソングも歌うようになり、これが「夜明けのスキャット」につながった。いずみさんが音楽を担当していたTBSラジオの深夜放送のオープニング曲を「好きなようなように歌ってごらん」と任されたのだが、それが「夜明けの――」だった。

♪ルルル ラララ……いずみさんの言葉通り、由紀は思ったままのスキャット(意味のない音)を歌にした。

 オープニング曲なので最初はレコード化の予定がなかった。ところが、放送が始まった途端、大反響となり、急きょレコード化することに。それに合わせ、作詞家の山上路夫氏(85)がスキャットではない2コーラス目の詞を書いた。

「『もしかしたら自分はこの業界に残れるかもしれない』と思ったのは翌1970年の『手紙』がヒットした時ですね」

 作詞は故・なかにし礼さんだった。

「あらためて、なかにしさんの洞察力を痛感しています。まだ女の人から別れ話を切り出せるような時代じゃなかったんですが、この歌の女性は置き手紙をして自分で出て行きます。なかにしさんは時代を先取りしていました」


■2度目の挫折は「紅白卒業」


 その後も「挽歌」(1974年)「う・ふ・ふ」(1977年)などがヒットするが、2度目の挫折を1979年に経験した。10回連続出場していたNHK紅白歌合戦を「卒業」という扱いになったのだ。紅白が歌手たちの大きな目標だった時代だ。

「あの時は自分が歌を歌っていて良いのか、自分が歌うべき歌はどういう歌なのかを考え込んでしまいました。まだ若かったですからね」

 ところが、紅白への出場はそこで終わることはなかった。姉の声楽家・安田祥子(80)と1985年に童謡アルバム「あの時、この歌」を出し、1986年から童謡コンサートを行っていたところ、このアルバムがヒットし、同年の日本レコード大賞企画賞を受賞。1987年に再び紅白に招かれたのだ。

 この年の紅白では「赤とんぼ〜どこかに帰ろう」を歌った。その後もソロで2回出場。1992年には同じ「赤とんぼ」でトリを務めた。1989年からは安田と一緒に計10回出ている。卒業はどこかへ行ってしまった。

 現在はコンサートツアーに臨んでいる。12月9日には安田と一緒に横浜・関内ホールのステージに立つ。

「姉が『もうちょっと歌いたい』と言っているうちは、私も頑張ってくっ付いていこうと思います。やれるところまでやって、散っていくのが良いのかなって。フフフ」

 人知れず由紀が味わっていた2度の挫折。たぶん、それが本人をより強くしたのだろう。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て、2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長を歴任し、2019年4月に退社し独立。

デイリー新潮編集部

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