「竜ちゃんがいなかったら有吉は辞めていた」 高田文夫氏が明かす“竜兵会”の絆

「竜ちゃんがいなかったら有吉は辞めていた」 高田文夫氏が明かす“竜兵会”の絆

上島竜兵さん

 稀代のコメディアン・志村けんさんが急逝して2年。今度は志村さんを師と仰いだ芸人が自ら命を絶った。定番のギャグとリアクション芸で芸能界を生き抜く一方で、彼がこよなく愛したのは酒と後輩芸人。どん底の時代から慕っていた有吉弘行(47)はその死に直面して……。

 ***

「ごめん、ごめんな。もう時間なんだ。遅れるわけにはいかなくて。ありがとう、ありがとうな……」

 今月14日午前、都内の自宅前でダチョウ倶楽部リーダーの肥後克広(59)に声をかけると笑みを交えて応対し、車に乗り込んだ。

 それから約2時間後、肥後の姿は都内の斎場にあった。祭壇の中央にはともに芸能界を生き抜いてきた“戦友”の遺影。相変わらずの笑顔にトレードマークの帽子をかぶり、密葬の参列者を穏やかに迎えているかのようだった。

 貸切状態の斎場の1階には在りし日の故人の写真が飾られ、2階の式場に親交のあった芸人と親族が続々と訪れた。90歳を超えている車椅子の母親は終始涙を流し、妻でタレントの広川ひかるとダチョウ倶楽部の二人は気丈に振る舞っていた。肥後は場を和ませようと旧知の芸人に語りかける。笑いをとろうとしたのか、白いタキシードで現れた芸人もいた。

 生前、好きだった「男はつらいよ」のテーマソングが流れ、故人が安らかな顔で眠る棺に皆が花を手向ける。会場に響くすすり泣く声。中には大声でこう語りかける者もいた。

 なんで電話してくれなかったんだ――。


■35年以上、第一線で活躍


 上島竜兵さん、享年61。東京・中野区にある自宅マンションの一室で意識のない状態で発見されたのは10日深夜のことだった。

 警視庁担当記者によれば、

「第一発見者はひかるさんで、すぐに救急に通報し、上島さんは病院に搬送されましたが、通報から1時間ほどで死亡が確認されました。発見現場の状況から首を吊って自殺を図ったものと見られています」

 神戸で育った上島さんは高校卒業後、俳優を志し上京。出会ったのが同じく俳優を目指していた寺門ジモン(59)だった。その後、お笑いへと転向し、1985年、肥後や南部虎弾とお笑いグループを結成。南部は後に脱退するが、ダチョウ倶楽部として、35年以上の長きにわたり、第一線で活動してきた。


■志村けんさんとの出会い


 ダチョウ倶楽部が頭角を現したのは89年から96年まで放送された「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」(日本テレビ系)だった。

 同番組の構成作家を務めていた、お笑い評論家で江戸川大学教授の西条昇氏が言う。

「ダチョウ倶楽部の三人は、コントをやっていきたいと当初は番組からのオファーを断っていました。実際に出演しても、イマイチなリアクションで出演シーンがカットされていたほどでした。危機感を覚えた三人がオーバーなリアクションで笑わせはじめると、スタッフから“ダチョウのリアクションは面白い”と賞賛を受けるようになったのです」

 上島さんは94年に広川と結婚。さらに、転機となったのは、2年前に新型コロナウイルスで亡くなった志村けんさん(享年70)との出会いだった。紹介したのは元プロレスラーでタレントの川田利明である。川田が語る。

「もともと先輩のプロレスラーが志村さんと知り合いで、ほどなく私も会食する仲になったのです」

 志村さんと上島さんを引き合わせたのはいまから二十数年前だった、と続ける。

「麻布十番の焼き肉屋で深夜、志村さんと食事をしていたら、志村さんが“上島と知り合いなら呼んでくれ”と言うのです。言われるがまま、竜ちゃんに電話すると、“芸能界の大先輩だから畏れ多くて……会うのも嫌だ”とためらっていました。そこで志村さんが私の電話を取り、“いいから、四の五の言わずに来い”と。それが二人の初対面でした」


■会計は高い時で十数万円


 一時代を築いたコメディアンと意気投合した上島さんは、次第に志村さんの番組にも呼ばれるようになる。さらに、2001年にダチョウ倶楽部が文化放送の番組でパーソナリティーに就くと、所属する太田プロの後輩芸人との交流が始まる。これがいまに至るまで連綿と続く「竜兵会」の原型である。

 竜兵会メンバーの証言を集めた『サラリーマン芸人。』(竜兵会著・双葉文庫)によれば、お笑い芸人のデンジャラスや土田晃之らがダチョウ倶楽部のラジオに出るようになり、番組後にギャラの代わりとして飲み会が開かれていたという。

 竜兵会に出入りする芸人も増えていき、その中には、劇団ひとりや有吉弘行もいた。会は東高円寺の居酒屋で開かれることが多かったものの、店は16年に閉店。もう一つの御用達だった新中野の韓国料理店「オジャンドン」の店主によれば、

「15年くらい前に劇団ひとりさんの紹介でいらっしゃって、次第に有吉さんも含めた竜兵会の面々と来るようになりました。ピーク時は週に6回も来店いただき、会計は最も高い時は十数万円にもなった。基本的に上島さんが払い、リーダーの肥後さんが払うこともたまにありました。最後にいらっしゃったのは昨年の10月頃でした」


■“次は有吉だ”


 上島さんは朝7時まで飲み明かすこともあったそうで、

「酒量はかなり多かったですね。お気に入りは芋焼酎ロックで、朝まで飲むときは後輩が先に抜けて、残るのは肥後さんとほかに2人くらいのものでした」(同)

 ある芸能関係者が言う。

「竜兵会はいわば太田プロの芸人の親睦会のようなものです。吉本興業と違い、太田プロは先輩後輩のつながりが従来薄く、この会で強い結束が生まれました。基本は上島さんのなじみの居酒屋で飲むだけなのですが、上島さんが酔い潰れてしまいクダを巻いているところを後輩がツッコむというのが定番でした」

 有吉は96年、「進め!電波少年」(日本テレビ系)で、お笑いコンビの猿岩石として、香港からロンドンまでヒッチハイクで向かう企画に挑戦。大ブレークするも、あっという間にブームは去り、仕事がない状態だった。

「劇団ひとりが売れていた頃、上島さんは竜兵会で“次は有吉だ”“こいつは面白いから”と期待をかけていた。ただ、有吉さんは他の芸人さんの手前、そう言われるのが恥ずかしかったみたいで、“また言ってるよ”と笑っていました。有吉さんが猿岩石の歌をカラオケで歌ったりしたこともありましたね」(同)


■「有吉が異常に面白かった」


 竜兵会に放送作家の高田文夫が参加したことも。その場で有吉を気に入り、ニッポン放送の自身の番組でリポーターとして起用する。いわば有吉に“浮上”のきっかけを与えた形だ。その高田に聞くと、

「俺が仕事もかねて竜兵会に遊びに行ったら、有吉が異常に面白いのよ。どんどん竜ちゃんをいじってツッコんでいく。それで“おもしれえなあお前! ラジオでリポーターやれよ”って。何本かやらせてみると、それをテレビの連中が“面白いじゃん、有吉”と。それで徐々に売れていったんだよね」

 有吉は07年、「アメトーーク!」(テレビ朝日系)に出演した際、品川庄司の品川祐に「おしゃべりクソ野郎」とあだ名を付ける。この独特なあだ名の命名スタイルがスタジオと茶の間を沸かせ、再ブレークを果たす。

「その後、番組ではきつい言葉で先輩の上島さんにツッコんだり、血相を変えて責め立てたりしますけども、有吉さんは上島さんに深い感謝の気持ちを持っていました。過去の番組でも、有吉さんが不遇の時代にサシで飲んでいると、上島さんが有吉さんに“何で売れないんだ”と言って、号泣してくれたという逸話を披露しています。有吉さんも“俺も上島さんのことが好きなんです”とつられて泣いてしまった、と」(芸能記者)

 高田も、

「売れない有吉を竜ちゃんが全部面倒みて、飯食わして、お小遣いあげてさ。すごい世話を焼いたわけ。竜ちゃんが有吉を卑屈にさせなかった。竜ちゃんがいなかったら、芸能界を辞めただろうね。有吉は心から感謝してるよ。毒舌だけど、本当は優しい。竜ちゃんのこと大好きだからさ」


■“元気がないのでは”という声も


 冒頭に触れた葬儀では、涙をこらえる有吉の姿があった。喪主である妻のあいさつが終わると、棺が1階に。この斎場には火葬場が併設されておらず、火葬場のある別の斎場まで移動することになっていた。多くの芸人が霊柩車を見送る中、有吉は親族とともに火葬場まで同行した。

「有吉さんは親族の乗るマイクロバスとは別の車で移動していました。芸人で同行したのはダチョウ倶楽部の二人を含めて4人程度だったと思います」(参列者)

“家族”の一員として旅立ちを見届けた有吉。15日にはパーソナリティーを務めるJFN系のラジオの生放送で、珍しく自身の心情を声を詰まらせながら吐露した。

〈亡くなった日の夕方に特別に顔を見せてもらえて……。ふたり……。なんか悲しいな……〉

 22時前に生放送を終えると、有吉は自身の車で六本木のテレビ朝日へと向かった。悲しみを振り払うために仕事に臨んでいる、と見る者もいる。

 実は有吉を含め、周囲が困惑しているのは、突然の死へ至った経緯が不明だからである。

 キー局関係者は、

「志村さんの死は上島さんにとってもショックだったようですが、昨年の雑誌のインタビューで“ようやく亡くなったことを受け入れられるようになりました”と語っています。ただ、5月8日に放送されたフジテレビのドリフの特番では積極的にボケる様子もなく、“元気がないのでは”と周囲に指摘されていた」


■神輿の重み


 近年は、大好きな酒も控えなければならなかった。

「長引くコロナ禍で飲み会を開けず、また、糖尿病を患い、肝臓も良くなかったみたいで、ドクターストップがかかっていた。自宅の近所でもあまり飲んでいなかったようです」(同)

 前述の『サラリーマン芸人。』には上島さんが自身の死について語るくだりがある。

〈確かにもうあんまり長くないとは思いますね、自分でも。まあ、そんなに長く生きても、しょうがないっていうところもあるけども。それでも毎日飲んでる〉

 事務所関係者がささやく。

「自殺した当日、酒でも飲んで酔っていたのではないかと言われています。酒で衝動的になのか、あるいは、コントの練習で首吊りのまねでもしようとしていたのではないか。遺書はなく、そう考えざるを得ないほど、原因がはっきりしていないのです。長らくダチョウ倶楽部を支えてきた古参の女性マネージャーも当惑しています」

 慕っていた志村さんを追うように泉下の人となった上島さん。

〈俺は御輿(みこし)でいいんだ〉(前掲書)

 自身をそう例え、生前、“担ぎ手”だった有吉ら後輩芸人の活躍を願っていた。

 だが、残された担ぎ手たちがその絆と思い出を笑いに変えるには少し時間が必要なのかもしれない。失われた「御輿」の重みを感じるための時間が。

 ***

■相談窓口

・日本いのちの電話連盟
電話 0570-783-556(午前10時〜午後10時)
https://www.inochinodenwa.org/

・よりそいホットライン(一般社団法人 社会的包摂サポートセンター)
電話 0120-279-338(24時間対応。岩手県・宮城県・福島県からは末尾が226)
https://www.since2011.net/yorisoi/

・厚生労働省「こころの健康相談統一ダイヤル」やSNS相談
電話 0570-064-556(対応時間は自治体により異なる)
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/seikatsuhogo/jisatsu/soudan_info.html

・いのち支える相談窓口一覧(都道府県・政令指定都市別の相談窓口一覧)
https://jssc.ncnp.go.jp/soudan.php

「週刊新潮」2022年5月26日号 掲載

関連記事(外部サイト)