アイドルの「成長物語」、原点は伝説の番組「スター誕生!」だった 「完成品」より「下手な人」を選んだ阿久悠の先見性

アイドルの「成長物語」、原点は伝説の番組「スター誕生!」だった 「完成品」より「下手な人」を選んだ阿久悠の先見性

「伝説のコンサート“山口百恵 1980.10.5 日本武道館”」(2021年1月30日 NHK総合テレビにて放送 )

 アイドルファンの間では、“推し(好きなアーティスト)”を応援する醍醐味は「成長を見届けること」にあるとされる。実は、こうした慣習の原点は、あのスター発掘番組にあった――。気鋭の社会学者・周東美材が「お茶の間の人気者」を通じて日本文化を論考する。

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 日本のポピュラー音楽には、世界的に見ても稀有な特徴が存在する。それは、「未熟さ」への指向である。

 卓越した歌唱力ではなく、若さや親しみやすさによって人気を得る「女性アイドル」、ジュニアから育成されてデビューする「ジャニーズタレント」、未婚女性だけでレビューを上演する「宝塚歌劇団」など、あてはまる例を挙げればきりがない。いずれも、見る者は歌い手の成長過程自体を楽しむ。成長途上ゆえの可愛らしさやアマチュア性が応援され、愛好される。実力や完成度の高さは、むしろ敬遠されることすらある。このような芸能の成立背景をまとめたのが拙著『「未熟さ」の系譜』(新潮選書)である。こうした現代のアイドルの「成長物語」の直接的なルーツは、日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生!」であり、そこから生まれた最大のスターが山口百恵である。


■未熟な候補者が合格するシステム


 一定の年齢以上の読者であれば、「スター誕生!」を一度は見たことがあるのではないか。1971(昭和46)年の放送開始以降、巣立ったスターには、「花の中三トリオ」こと森昌子、桜田淳子、山口百恵を代表として、城みちる、片平なぎさ、岩崎宏美、新沼謙治、ピンク・レディー、石野真子、小泉今日子、中森明菜、松本明子、岡田有希子らそうそうたる面々がいる。

 こうしたオーディション番組自体は、なにも日本独自のものではない。海外には「アメリカン・アイドル」「Xファクター」などの人気番組があり、イギリスのボーイズグループであるワン・ダイレクションや女性歌手スーザン・ボイルといった世界的スターもその出身者である。ただし、海外のオーディション番組の最大の特徴は「完成品」が求められることで、歌唱力の不足は致命的な欠点となる。

「スター誕生!」は、これらとはまったく違うコンセプトの番組だった。今では多くの人が山口百恵や中森明菜、岩崎宏美らの歌唱力を高く評価しているが、番組に登場した時点で皆が皆、そのような評価を得ていたわけではない。いや、むしろそのような力を持っていないことが、ここから巣立つ「スター」の条件だったとすらいえるだろう。その点で、この番組は画期的だった。ではなぜ、この番組は最初から完成されたスターではなく、未熟な候補者を合格させていったのだろうか。

 そこには昭和を代表する作詞家、阿久悠の慧眼があった。


■1日千件の応募が


 もともとこの「伝説のオーディション番組」の企画書を作成したのが阿久である。彼は広告代理店の社員としてテレビ番組やCM制作の現場に身を置いたのち、放送作家、作詞家へと転身したキャリアの持ち主。テレビというメディアの特性を熟知していた。

 阿久は「スター誕生!」を通じて、テレビ画面のなかをアイドルの発掘現場へと作り替えた。従来のアイドル的な歌手やタレントは、児童合唱団、レコード会社の内弟子、少女歌劇団、米軍クラブ、芸能プロダクションの養成機関などで音楽修業を積み、テレビへの出演はその結果として実現するものだったが、「スター誕生!」では、逆にテレビに出演することがデビューに先行したのである。

 一連の流れは以下のようなものだった。

 出場を希望する者は、まずはがきで番組宛に応募する。番組スタッフの元に届いた申し込みはがきは1日当たり平均千通にもなり、その応募の9割を少女が占めたという。日本テレビから返信が届くのは約3カ月後で、予選会場には400〜500人、多いときで900人ほどが集まりオーディションを受けた。予選会は全国で行われ、たとえば桜田淳子は秋田予選を受けている。第1次予選では30〜60秒の歌唱時間が与えられ、40〜50人ほどが第2次予選に進み、歌や服装、質問に答える姿などの審査を経て6〜7人ほどがテレビ本番への出演を許された。


■デビュー前から売り込みが可能


 本番のテレビ収録は、予選会の約2週間後に後楽園ホールで行われた。レギュラー審査員は5人、それぞれ100点ずつの持ち点を与えられ、会場の一般審査員500人が1人1点の持ち点を与えられる。審査員の持ち点計千点のうち250点以上を獲得できれば、最後の決戦大会へと進むことができた。

 決戦大会は、おおむね3カ月に1度開かれた。出場者は決戦大会の5日前から合宿に入り、髪形、衣装、発声、振り付けなどの集中的なレッスンを受け、各プロダクションやレコード会社による「下見会」も開かれた。決戦大会では、出場者は客席に居並ぶ「登録会社」の関係者たちの前で歌を披露し、スカウトマンたちは獲得したい出場者がいればプラカードを上げる。プラカードが上がって歓喜にむせび泣く少年少女の姿も、プラカードが上がらずステージから静かに去っていく少年少女の姿も、テレビのカメラはとらえていた。このシーンは、番組のクライマックスとして劇的に演出された。

 プラカードが上がると、日テレのスタッフによる「デビュー委員会」が合格した少年少女や保護者の意向を聞きながら、所属プロダクションやレコード会社を決定し、売り出しに向けたイメージ戦略を練る。また、デビュー曲が決定した新人は3〜5週間にわたって番組内で歌うことが許された。デビュー前からテレビで売り込みをすることができるという、新人歌手としては破格の待遇が彼らには約束されたのである。


■歌のうまい人はいらない


「スター誕生!」以前にも、美空ひばり、島倉千代子、五月みどり、小林幸子、天童よしみ、上沼恵美子、野口五郎など、子ども時代にのど自慢大会で名を上げ、デビューへのきっかけを掴んだ者は少なくなかった。こうした“のど自慢荒らし”の少年少女は、レコード会社の目には新人の有望株と映っていたのだ。

 しかし「スター誕生!」は一風変わっていた。歌のうまい応募者を合格させるという従来のコンテストの方針を採らなかったのである。阿久悠は、このように語っている。

「自分の世界で長く歌い、あるレベル以上の技術を身に付け、少々の自負と、人生の臭みを発散し、歌手というイメージを頭に持っている彼らに、この『スター誕生!』は不向きだった」

 さらに、「下手を選びましょう。それと若さを」「いわゆる上手そうに思える完成品より、未熟でも、何か感じるところのあるひと、というのを選んでいた」とも語り、番組プロデューサーの池田文雄も「歌のうまい人はいらない、これからうまくなる人を捜してる」と表明していた。

「スター誕生!」から最初にデビューし、番組のコンセプトを真っ先に体現した少女が、1971(昭和46)年に出場した森昌子だった。当時13歳だった森は一定の歌唱力をもちながら、その後の成長や変身を予感させる要素を兼ね備え、しかも「どこにでもいる女の子という感じ」を見ている者に抱かせた。


■大人顔負けの歌唱力と幼い顔のギャップ


 以来、応募者は次第に低年齢化し、特に中学生の存在が目立つようになっていく。年長歌手はあまりヒットせず、話題をさらったのは桜田淳子、山口百恵、伊藤咲子、片平なぎさといった中学生出場者だった。

 阿久悠は、テレビを意識した戦略について、次のような見解を示している。

「テレビ時代の天才少女が、ラジオ時代の天才少女と同じとは、どうしても思えなかった」

 ラジオならば歌声だけを味わえばよい。しかしテレビの時代には、大人顔負けの歌唱力と幼い顔のギャップがお茶の間の視聴者から不自然に見えるだろう、と考えたのだ。

 だからこそ「スター誕生!」は、美空ひばりのような「天才少女」ではなく、テレビのなかで違和感なく親しまれる、どこにでもいそうな身近な歌い手を求めた。森昌子のデビューの企画会議では「あなたのクラスメート」というキャッチフレーズが決定し、「家庭の親が見たとき“うちの子もあのような子に育てたい”というようなタレント」となることが目指された。

 こうして、森昌子は1972(昭和47)年、阿久作詞の「せんせい」を歌ってデビューする。


■成長物語を演出する


「スター誕生!」は、デビュー後のアイドルたちに対しても、成長物語を演じさせていった。阿久悠は、次のような文章を残している。

「14歳で、あるいは、15歳でデビューした少女歌手たちを、どのようにして、作品によって年齢をとらせていくかが大きな課題であると、途中から考え始めた。(中略)ぼくらは、常々、どうやって成人式を迎えさせるのがいいのかね、と頭を悩ませていたのである」

「スター誕生!」出身歌手たちの楽曲は、歌い手の成長という意味を織り込まれながら創作された。「未熟でも、何か感じるところのあるひと」を選んでいた同番組は、子ども歌手が「どのように選ばれるか」だけでなく、「どのように育っていくか」というプロセスをも意識していたのである。その成長物語のベースには、番組を支える家族的なムードがあった。

「スター誕生!」出身のタレントたちは、デビュー後も番組出演や地方公演などを通じて番組と関わり続け、ほかの子ども歌手やスタッフたちと寝食を共にする機会も多かった。高校進学の場面では、親ばかりでなく番組スタッフが進路選択をサポートしたほどである。番組出身アイドル、番組スタッフ、レギュラー審査員たちの親しげな関係は、しばしば「スタ誕ファミリー」と呼ばれた。


■成長過程を歌にする私小説風の方法


 この一連の成長物語によってトップクラスの人気を誇ることになったのが、山口百恵であった。1972(昭和47)年に合格した彼女を獲得したCBS・ソニーのプロデューサーの酒井政利は、その第一印象を「ズドンとそこに立っている女の子」だったと語る。当時のアイドルといえば、天地真理のように、雲の上からほほ笑みかける天使のような、メルヘンの主人公的イメージが定番だった。それに比べて、山口は普通の少女にしか見えなかったが、この敏腕プロデューサーは彼女の「大地を踏みしめるようなたくましさ」や、一重まぶたの「古風な顔立ち」に新しいスター歌手の出現を予感したという。

 酒井は、彼女のプロデュース戦略として「成長の過程をそのまま歌にしていく私小説風の方法」を選んだ。その結果、「第1期」から「第3期」に整理される少女の成長物語が演出されていったのである。


■「青い性」路線


 山口百恵の「第1期」は、1973(昭和48)年のデビュー曲「としごろ」から12作目のシングル「愛に走って」までで、作詞家の千家和也と作曲家の都倉俊一を中心に制作された。デビュー曲「としごろ」は、桜田淳子を意識した明るく軽快な、子どもらしい楽曲だったが、これは山口の重くクールなイメージには合っておらず、明らかな失敗作となった。そこで、もっとストレートに山口の「個性」を打ち出すべく、「青い性」路線と呼ばれる企画が始動される。

 セカンド・シングル「青い果実」では「あなたが望むなら 私何をされてもいいわ いけない娘だと 噂されてもいい」と、清純であどけない少女が性に出会う場面が歌い上げられた。この時、彼女は14歳。以降、「禁じられた遊び」「春風のいたずら」で山口はほかのアイドルにはない個性を確立し、「あなたに女の子の一番 大切なものをあげるわ」と歌う「ひと夏の経験」で「青い性」路線はピークを迎えた。ちなみに、この時でも彼女はまだ15歳である。


■「可愛い悪女」へ


 次なる展開として、酒井は作詞家の阿木燿子・作曲家の宇崎竜童夫妻を迎え、成長物語の「第2期」をスタートさせる。その第1弾が、1976(昭和51)年の13枚目のシングル「横須賀ストーリー」だった。この曲で彼女は、愛されていないとわかっていながら欲望に身をゆだねる大人の女性を演じる(ただし本人は17歳)。さらに、「イミテイション・ゴールド」や「プレイバックPart2」では、若い男に対して性的主体となる成熟した女性であり、高級車さえ運転しながら、男性に従属的でもある女性の姿が歌われた。こうした「可愛い悪女」ともいえる曲調は、1978(昭和53)年8月の「絶体絶命」まで続いた。だが、山口に恋人の影が見え隠れし、実際に俳優の三浦友和との「恋人宣言」がなされるに至り、「第2期」の路線は堅持が難しくなっていく。

「第2期」の途中、1977(昭和52)年10月に発表されたさだまさし作詞・作曲の「秋桜(コスモス)」で、山口は、忍耐と諦念の人生を送ってきた母とその娘を歌った。この母は、「日本における母のステレオタイプを完全に担った、哀しく弱く慈愛に満ちた母」であり、苦労するとわかっていながら娘を嫁がせ、自分と同じ人生を歩ませようとする残酷な母でもあった(小倉千加子『増補版 松田聖子論』)。

 こうして「嫁ぐ娘」や「ホーム(故郷・家庭)を求める悪女」といった主題が次第に強調されるようになると、山口は、谷村新司作詞・作曲の「いい日旅立ち」によって「第3期」に入る。かつて車で一人旅に出た悪女は、今度は「母の背中で聞いた歌を道連れに」、「日本のどこかに 私を待ってる人がいる」と信じて再び一人旅に出ていった。


■デビューまでを見せる手法はモーニング娘。などにも影響


山口が「スター誕生!」に登場したのが13歳で、引退が21歳。お茶の間は未熟な女の子が、大人の女性となりキャリアの大きな転機を迎えるという一代記を、8年に凝縮した形で堪能したことになる。

 酒井は、山口の成長後の戦略として「将来はシャンソンなども歌っていったらいいのではないか」と考えていた。だが彼女は、むしろ「女房」として家族のためにキルトを縫う生活を選び、結婚とともにステージにマイクを置いて一切の芸能活動を封印し、現在に至っているのはご存知の通りである。

「スター誕生!」は、1970年代を通じて絶え間なくアイドルを生み出し続けたが、その視聴率は、1978(昭和53)年に28.1%(5月7日放送、ビデオリサーチ)に達してピークを迎えると、それ以降、急速に低迷していく。特に山口の引退、ピンク・レディーの解散宣言、司会の萩本欽一の降板が重なった1980(昭和55)年以降、カメラの前でスターになる意思表示をし、必死にオーディションを勝ち抜くという熱いドキュメントの手法は少年少女の心をときめかせるものではなくなり、同番組は1983(昭和58)年に放送を終了する。

 しかし、デビューまでのプロセスを見せる手法は、その後もモーニング娘。、鈴木亜美、CHEMISTRYらがデビューしたテレビ東京「ASAYAN」、インターネット配信を中心にした日韓合同の「Nizi Project」などに受け継がれている。そして今日も、「未熟な」アイドルの成長物語をお茶の間の人々は応援し続けているのである。

周東美材(しゅうとうよしき)
大東文化大学准教授。1980年群馬県生まれ。早稲田大学卒業、東京大学大学院修了、博士(社会情報学)。大東文化大学社会学部准教授。著書に『童謡の近代』『カワイイ文化とテクノロジーの隠れた関係』(共著)など。

「週刊新潮」2022年6月23日号 掲載

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