【鎌倉殿の13人】「あんた、やるな」と言わしめた策士「りく=牧の方」の生涯

【鎌倉殿の13人】「あんた、やるな」と言わしめた策士「りく=牧の方」の生涯

宮沢りえ

 権謀渦巻く鎌倉の武家政権を描くNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。幕府内での勢力争いはいよいよ激しさを増し、陰謀、裏切り、密告、トラップを縦横に駆使した、ドス黒い抗争劇が繰り広げられてゆくに違いない。なぜ「違いない」のかといえば、史実がそうなっているからだ。【安田清人/歴史書籍編集者】


■「策士」としての「りく」


 そんな陰惨な物語のなかで、ひときわ異彩を放っているのが、宮沢りえ演じる「りく」であろう。北条時政の後妻にして、北条氏を御家人のなかでも至高の地位につけ、一族の繁栄を勝ち取るために知恵を巡らせ、夫の時政の尻を叩き続ける、実に痛快な女性として描かれている。

 北条氏にとって最大の障壁と目された梶原景時を葬るため、山本耕史演じるメフィラス……もとい三浦義村が弾劾状を作り御家人たちの署名を集める。「りく」は、夫の時政は大物だからといって、まだ誰も署名していない弾劾状の末尾に時政の名を署名させる。やがて一夜にして実に66名もの署名が集まった。景時が御家人たちに嫌われていたのは事実だろう。

 そして、いざ2代目鎌倉殿(のちの2代将軍)頼家のもとに弾劾状を提出しようとすると、「りく」は突如として時政の名が書かれた弾劾状の端を刃物で切り取ってしまう。あっけにとられる周囲をよそに、「りく」は「もし何か咎めを受けるようなことがあれば、時政に累が及びますから」と言い放ち、婉然と微笑む。

 梶原景時の追い落としに賛同する素振りをみせながら、頼家が梶原の肩を持ち、むしろ弾劾状に名を連ねた御家人たちを罰しようする事態を想定して、あらかじめ名前を削ってしまったわけだ。

 これは景時の弾劾状に時政が署名していなかったという「史実」を使ったフィクションだが、「りく」の策士ぶりを存分に描いた場面だった。三浦義村の口をついて出た「あんた、やるな……」に共感した視聴者は少なくだろう。


■時政と牧の方


 この「りく」だが、史料に本名は出てこない。「牧の方」という通称で知られているため、ここから先はこのように記すこととする。

 近年、京都女子大学名誉教授の野口実氏をはじめとする鎌倉時代研究者の手によって、北条時政は伊豆の小領主ではなく、朝廷から任命された在庁官人(地方役人)の出身で、公家社会や朝廷 とも深いつながりを持つ有力者であることが明らかになってきた。

 そして、時政の後妻である牧の方についても、実像が明らかになりつつある。

 牧の方は、駿河国(静岡県)の大岡牧を所領とする牧宗親(まき・むねちか)という武士の娘(もしくは妹)とされている。この牧宗親の姉もしくは妹にあたるのが池禅尼(いけのぜんに)。平清盛の父・忠盛の後妻で、平治の乱に敗れて捕縛された源頼朝の助命を清盛に嘆願してくれた人物だ。

 こうした家に生まれた牧の方は、京都の貴族社会に強力な人脈を持っていた。

 文治元(1185)年、北条時政は頼朝の代官として上洛し、入れ替わりに京を去った源義経を捜索するためと称して守護と地頭の設置を朝廷に認めさせている。これは鎌倉幕府の実質的な成立を意味するとも言われる大きな功績だ。

 もともと京都の公家社会とつながりが深かった時政は、旧知の間柄である院近臣(いんのきしん=後白河院に仕える貴族)である吉田経房(よしだ・つねふさ)を頼り、その導きで、朝廷の事実上のトップである後白河院との交渉を進めたとされている。同時に、妻である牧の方の人脈も大きく寄与していたのだ。

 時政の上洛の2年前、寿永2(1183)年に、平家一門の平頼盛が鎌倉に下っている。これは池禅尼と平忠盛の子で、清盛の異母弟であると同時に牧の方の従兄弟ということになる。

 当時、平家の主流派はすでに都落ちして西日本に逃れていたが、反主流派の立場に置かれていた頼盛は頼朝に接近し、その政権樹立に協力していたのだ。間を取り持ったのは、親族である牧の方であり、その夫の時政だと推測されている。


■比企氏の乱から小御所合戦へ


 その後、頼朝の死、頼家の将軍就任を経て、北条時政は比企能員と厳しく対立。比企氏は北条時政によって滅ぼされた。

 この事件は従来、鎌倉幕府の公式記録とされる『吾妻鏡』の記述を根拠として、比企能員が先に北条時政を討とうとしたために起きたとされ、「比企氏の乱」、「比企能員の変」と呼ばれてきた。しかし、近年の研究では、京都の公家が残した伝聞記録などを元に事件の見直しが進んでいる。

 こうした研究成果によれば、先に仕掛けたのは北条時政であり、比企能員を忙殺したあと、病気で危篤状態となっていた将軍・頼家の嫡男・一幡(いちまん)の御所を襲撃したことから、事実上は時政によるクーデターであったとする見方が有力視されてきているのだ。

『吾妻鏡』は北条氏が執権として幕府を完全に掌握して以降に作られた歴史書なので、北条氏に都合の悪い事実は改竄している可能性があるというのだ。鎌倉歴史文化交流館学芸員の山本みなみ氏は、こうした研究を受けて、この戦いを「小御所合戦」と呼ぶべきだと提唱している。

 比企氏滅亡により、奇跡的に回復した頼家は伊豆に幽閉され、三代将軍には弟の千幡(せんまん)が就任する。その翌年、頼家は北条氏の手によって殺害された。

 ここにおいて、時政はついに幕府の最高権力者の地位を手にしたと考えられる。のちに「執権」と呼ばれる地位に就いたのも、このころとされている。


■発端はケンカ騒動?


 この小御合戦による比企氏の滅亡に、牧の方がどう絡んでいたのかは残念ながら分からない。しかし、千幡が元服して源実朝と名を改め、三代将軍の座に就くと、再び牧の方の存在感が浮上してくる。

 将軍には御台所(正室)が必要ということで、院近臣で権大納言の地位にあった坊門信清の娘に白羽の矢が立った。信清の嫡子・忠清の妻は、時政と牧の方の娘だった。夫妻のもう1人の娘(坊門忠清室の姉)は、源氏一族で後鳥羽院の側近だった平賀朝雅に嫁いでいたので、時政と牧の方のネットワークは朝廷に深く食い込んでいたのだ。

 坊門信清の娘がいよいよ実朝に輿入れすることになり、幕府は若手御家人によるお迎えの使節を京都に送った。その一員に、時政と牧の方の男子が選ばれた。北条政範というまだ16歳の若者だった。若輩ながらすでに従五位下左馬権助(さまごんのすけ)の官位を持ち、時政夫妻は義時ではなくこの政範に北条氏の家督を譲るつもりだったとも言われている。

 後妻が実子を贔屓して家督を継がせようとするのは、歴史上、どこにでも転がっている話で珍しくもない。しかし、すでに義時は幕府の宿老に名を連ねるひとかどの人物で、従五位下相模守(さがみのかみ)の地位もある。

 おそらく時政と牧の方は、鎌倉幕府という「政権」の代表を義時とし、朝廷にも食い込んだ貴顕としての北条氏の代表に政範を据えるつもりだったのではないだろうか。

 ところがこの政範が、京都に到着してまもなく病で死んでしまう。そして、その死には不審な点があるという。政範ら幕府の一行が京都に着くと、京都守護を務めていた平賀朝雅の屋敷で酒宴が開かれた。朝雅は時政と牧の方の娘婿だ。この酒席で、畠山重忠の子・重保と朝雅との間にケンカが起きたのだ。朝雅は義母の牧の方にこのことを報告。重保を讒言(ざんげん)した。当然、牧の方は夫・時政にこれを伝えた。これがきっかけで、畠山重忠と北条時政の対立が深まり、元久2(1205)年の畠山重忠の乱に至ったとされている。

 政範はそのケンカ騒動の直後に亡くなったとされているのだが、なぜか現地・京都での葬儀は行われず、翌日には葬られてしまったとされている。どうも不審だ。

 政範はケンカ騒動の際に殺害されたのではないかと見る研究者もいる。というのも、もともとケンカ騒動の以前から、畠山氏と北条氏は武蔵国(埼玉県)の領有をめぐって相争う関係にあったのだ。その対立を背景にケンカ騒動が起き、時政夫妻の愛息である政範が落命した。そして最終的に、畠山一族は北条氏に討滅された。そう考えるのが自然な流れではないだろうか。


■畠山重忠の乱


 時政と牧の方は北条義時と弟の時房に畠山重忠に謀反の疑いがあると告げ、畠山氏討滅の相談をしたが、2人の息子たちは反対する。重忠が謀反を企むとは思えないと。

 時政夫妻は牧の方の兄・大岡時親を義時のもとに遣わし、謀反は事実なので何としても畠山を打ち取れと伝える。そして時政は畠山重保を鎌倉におびき寄せ、三浦義村を使ってこれを打ち取らせた。

 こうなると、義時も後には引けない。鎌倉に向かっている畠山勢を迎え撃ち、重忠の首を取った。しかし、畠山勢はわずか134騎。謀反を企む数ではない。

 畠山追討は、明らかに時政と牧の方の陰謀だった。これをきっかけに、時政の子である政子と義時は、時政と牧の方を見限ったとされている。御家人たちの時政夫妻に対する反発も、決して軽微ではなかった。


■将軍の首を挿げ替える?


 その2カ月後、今度は時政と牧の方が、将軍の実朝を殺害して平賀朝雅を将軍とする奸謀(かんぼう)が発覚。政子は三浦氏や結城氏らの御家人を時政邸に派遣し、将軍・実朝の身柄を確保して義時の屋敷に移した。事実上のクーデターだ。時政は潔く出家し、翌日には牧の方とともにかつて暮らした伊豆の北条郡に引き上げたという。

 この事件は、権力闘争に取り憑かれた時政の暴走、あるいは年老いて判断力を失った時政を後妻の牧の方が自由に操った挙句、政子と義時によって野望を砕かれて失脚した事件としてこれまで描かれてきた。

 しかし、自らが将軍の座に就けた実朝を殺害してまで、娘婿の平賀朝雅を将軍とする必要があったのだろうか。実朝の乳母は時政の娘である阿波局(「鎌倉殿の13人」では実衣)なので、もっとも影響力を行使できる立場にあったのは北条氏だ。

 平賀朝雅は後鳥羽院との結びつきが深い。その縁で北条氏の権力を固めようと思ったとの説明もあるが、その14年後、実朝が鶴岡八幡宮にて殺害された際、後鳥羽院や朝廷は幕府や北条氏の統治能力を疑い、激しく非難していることを考えると、時政夫妻が在職中の将軍を殺害するという危険な賭けに出たとは、正直考え難い。政子と義時のクーデターに、時政夫妻がおとなしく従ったのも、不自然と言えば不自然だ。

 もしかすると、畠山氏滅亡といういささか強引な権力闘争の始末のつけ方に対し、御家人たちからの不満や恐怖、不審が高まり、北条氏の専横を憎む動きが生まれたのかもしれない。そして、それを収めるための「落とし前」として、時政夫妻が隠居するという判断がなされたのかも。政子と義時のクーデターは、いわば北条氏内部での「出来レース」だった可能性もあるのではないか。


■その後の時政と牧の方


 伊豆に引き込んだ時政について『吾妻鏡』が記すのは、時政が願成就院のかたわらに塔婆を建立したという記事と、建保3(1215)年に時政が亡くなったという記事だけだ。

 ところが、時政が伊豆に移ってもなお、政治的影響力を持ち続けたのではないかとする説もある。

 後鳥羽院が鎌倉に派遣した使者に、慈円という僧侶が書いた書状の一部が残っている。書かれたのは承元3(1209)年から建暦2(1212)年頃と思われ、そこには将軍・実朝や政子、義時、大江広元と並んで、時政を指すと思われる「北条入道」という名が見えるのだ。これは後鳥羽院と時政との間に交流があったことを示すもので、伊豆に隠居後も時政が一定の政治的影響力を持っていたことの証しだと考えられる。

 牧の方はどうか。『吾妻鏡』はやはり何も記していないが、歌人として知られる藤原定家の日記『明月記』には、時政の死後、牧の方が上洛して時政の13回忌供養を行ったことが記されている。

 かつて平賀朝雅の妻だった牧の方の娘は、このときは藤原国通の妻となっていた。時政の供養は、この国通の屋敷内に公卿や殿上人を集め、牧の方が施主となって建立したお堂で開かれたという。伊豆に逼塞(ひっそく)させられ、夫の死後すでに12年が経っているというのに、たいした羽振りの良さだ。

 さらに、13回忌供養を終わらせた牧の方は、京都の公家に嫁がせていた娘たちやその子たちを引き連れ、大坂や奈良のいくつもの大寺院を参詣している。そのにぎにぎしく派手な行動に、書き留めた藤原定家も嘆きの言葉を付しているほどだ。

 牧の方の娘の1人は藤原定家の息子・為家の妻の母にあたることから、この娘を通じて牧の方は、朝廷と幕府が交渉する際に朝廷側の窓口となる関東申次(もうしつぎ)という役職にあった西園寺公経(さいおんじ・きんつね)に、関東すなわち幕府の重要情報を伝える情報ルートとなっていたという。この記事は嘉禄元(1225)年のものなので、時政の死後10年を経てもなお、牧の方は朝廷と幕府の間を取り持つ役割を担っていたことになる。

 牧の方が夫の時政を陰で操る策謀家であったかどうかは疑わしいが、とんでもなくバイタリティ溢れる女性であったことは、どうやら間違いないようだ。

安田清人(やすだ・きよひと)
1968年、福島生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊「歴史読本」(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は編集制作会社「三猿舎」代表。歴史関連メディアの編集、執筆、監修などを手掛けている。

デイリー新潮編集部

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