フジ「遠藤龍之介」新社長が語った父・遠藤周作 就職決定時の忘れられない言葉

 5月15日、フジテレビは役員会で、遠藤龍之介専務(62)の新社長就任を決めた。6月下旬の株主総会で正式決定する。既に報じられている通り、遠藤新社長は、作家・遠藤周作を父にもつ。生誕90周年にあたる2013年、当時常務だった遠藤新社長は「週刊新潮」の取材に応じ、知られざる父と子の物語を明かした。(以下は13年4月11日号掲載のもの)

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 父はサラリーマンではないので、いつも家にいてものを書いていました。たまに煮詰まるのでしょうね。あれは私が2、3歳の頃でしょうか、ある日、母の留守中、突然僕のところに画用紙とクレヨンを持ってきて“絵を描いてやる”と言う。見ていると黒いクレヨンでまず2階建ての家を描く。2階には子供が一人いる。“太郎君は今一人でお留守番をしています”と父は言うので、“僕と一緒だ。僕も今日はお留守番だもん”と応じると、父は“そうだね。同じだね”と言いながら今度は赤いクレヨンを持って、家が燃える絵を描く“家は火事になってしまいました。お父さん、お母さんは助けにいけず、太郎君は哀れ、死んでしまいました”などと言うものですから、僕は泣くわけですよ。それを見た父は満足げに書斎に戻っていく。それが最初の記憶です。

 小学校に入った頃、こんなこともありました。朝食で秋刀魚の塩焼きを食べていると、父が“龍之介、お前が食べた秋刀魚の中に、実は釣り針が入っている”と言い出したのです。僕は怖くなって“お父さん、釣り針が体の中に入るとどうなるの?”と尋ねると、“今、釣り針はお前の血管を通っている。いずれ心臓に届いて死んでしまうのだ”。父親にそんなことを言われれば普通はびっくりして泣きますよね(笑)。

 好奇心の強い人でもありました。私が高校生の頃のことです。どこかで手品を習ってきて、家族の前で披露するのです。元々手先が器用な人ではないので、見ているとタネが分かってしまう。でも本人は必死でやっているから、気がつかない振りをして、私と母は驚いた真似をする。それが暗黙のルールでした。

 手品はびっくりしてあげれば良かったのですが、そのうち催眠術に凝り始めました。家に帰ってくると、僕に催眠術を掛けてくるわけです。“お前は段々眠くなる”と。例の暗黙のルールにのっとって掛かった振りをするのですが、すると今度は“お前の体は今や鉄板のように硬くなって、何を落されても全く痛みを感じない”と言って、いきなり体の上にテレビをバーンと乗っけられ、悶絶したこともあります。色々ありましたが、家族を退屈させないということでは人後に落ちない父親だったと思います。

 でも、仕事をしている時は近寄りがたい雰囲気のある人でした。私が小さい時、父は夜に仕事をしていました。夜の10時、11時から仕事を始めて、朝の5時、6時頃まで書き続けるスタイル。それが50歳近くになると、健康のこともあったのでしょう。朝起きて、普通のサラリーマンのように午前10時くらいから仕事を始めて、夕方の6時ぐらいまでやっていました。

 自宅の2階は全て父のフロアで、そのエリアには余程のことがない限り、私の方から近づくことはありませんでした。きっと子供心に、普段、私に見せない顔で机に向っている姿を見るのが恐がったのでしょうね。

 そんな風に息子とのシリアスな人間関係を心のどこかで父は避けていたのかもしれませんが、小学生になった頃でしょうか、初めて父から「教育」じみた言葉がありました。ある日、部屋に呼ばれて約束させられたのは“嘘をつくな。卑怯なマネをするな。弱いものには優しくしろ”の3つです。“この3つを守れば、後は何をしてもいい”と言われましたが、子供ですから嘘をつくこともあり、その時は、普段怒らない父に叱られることもありましたね。

 しかし、成績のことで叱られることはありませんでした。母親の方は通信簿を見て、“算数の勉強をしなさい”などと小言を言うのですが、父は逆で“こんな成績で威張るな。大学受験で浪人した俺はもっと成績が悪かったんだぞ”と言ってくれました。私のプレッシャーをそういうユーモアで軽減してくれたのです。


■8歳の子供の作文にケチ


 そんな父でしたが、作文を書いていて怒られたことがあります。小学3年生の頃だったか、遠足で埼玉県川口市の安行植物園に行った時、感想文が宿題に出ました。ダイニングで、原稿用紙を置いて、“きのう安行のしょく物えんに行きました。お日さまがカンカンてって暑くてとても大変でした”みたいなことを書いていたら、後ろに人の気配があった。振り向くと、父が怖い顔をして見ています。“どうしたの?”と尋ねると、“お前は何を書いているんだ”と聞かれました。“作文の宿題だよ”と答えると父は、“さっきから見ていれば、汗がダラダラとか、お日様がカンカンとか書いている。暑いという表現をするのに、そんなことを書いても伝わらない。暑いと表現するには、日陰の涼しさを書かなければ、分からないじゃないか”と怒鳴ったのです。そんなこと、小学3年生の子供に書けるわけがない。泣いた覚えがあります。もしかすると、自分の子供の文章に関心があったのかもしれませんね。うまくなって欲しいというより、そういう表現、見方を分かって欲しいという気持ちだったと思います。でも、普通は8歳くらいの子供の作文にケチをつける父親なんていないわけで、そういう意味でもユニークな父親だったと思います。

 旅行には何回も連れて行ってもらいましたが、昭和40年頃、一度だけ小説の取材旅行に同行したことがあります。『沈黙』の取材で長崎に隠れキリシタンの取材に行くとき、父は母に“息子を連れて行きたい”と言ったようです。小さいからまだ分からないかもしれないけど、自分が小説を書く時にどんなことを考えているのかを、見せてやりたいと思ったのでしょう。取材先では漁村の古い家の奥に隠されたマリア観音像をじっと見ていたり、海岸線で車を停めて浜に行き、いつまでも戻ってこなかったりしました。私は幼かったので、時間を持て余すこともずいぶんありましたが、その内容について父は私に丁寧に説明することはありませんでした。恐らく取材している父親の姿を見て、何かを感じるんだぞ、ということだったと思います。

 その『沈黙』の取材で、現在『遠藤周作文学館』が建っている長崎市外海地区に行った時、水平線の彼方から宣教師を乗せた船が来るイメージが見え、『沈黙』の構想が固まったと言っていたようです。

 私が本を読むようになったキッカケは、小学4年か5年の誕生日でした。前年までは、誕生日にはおもちゃを買い与えてくれていたのですが、その日の父は、“今日は特別なものをプレゼントしてやる”と言って私を駅前の本屋に伴いました。そしてツカツカとレジまで歩いていき、店の主人に、“私は物書きの遠藤と言いますけど、これは私の息子です。これからこの子が来て本を買う時は全部私が払いますので、請求書を回して下さい”と言いました。当時の私と言えば、少年サンデー、少年マガジンなどの漫画雑誌ばかり読んでいて、母親から“漫画ばかり読んでいないで勉強しなさい”と言われていたものですから、このプレゼントは嬉しかった。とにかく父のお墨付きで漫画が読み放題になったわけですからね。毎日のように本屋に通い、漫画を買い漁りました。ところが、今と違い当時はそれほど種類があった時代ではなく、すぐに読み切ってしまった。すると棚には活字本がある。そこには家によく来る作家の名前がありました。“あ、これは北(杜夫)のおじさんの本だ”と見つけて買ったりしているうち、活字の本を読むようになったのです。今考えると、父の狙いはそれだったのだと思う。


■コルセット姿で記念写真


 そんなことがあって、ユーモア小説や純文学を読むようになりました。父の本も読みましたが、幼い頃から第三の新人と呼ばれる作家の方々が家に来たり、交流がありましたので、“これはあの人の本だ”というように読むようになったのです。中学生ぐらいになると一番分かりやすいのが、北杜夫さんの本でした。『船乗りクプクプの冒険』などを狂喜乱舞して読んだ思い出があります。

 家には北さんの他に劇作家の矢代静一さんなどもよくいらっしゃいましたし、父が『三田文学』の編集長をしている頃は、学生さんがたくさん家に出入りしていました。夏になると、彼等を軽井沢の別荘に連れていくのです。確か、私が13、14歳の頃、軽井沢からの帰り道、学生の運転していた車が前の車にぶつかってしまったことがありました。2、3日経つと、父も私も首が痛む。病院に行くと、鞭打ちで2人とも首にコルセットをはめられてしまって。帰り道、父は何を思ったのか、“2人でこんな格好をすることは滅多にないことだから、銀座で記念写真を撮ろう”と言い出し、写真館に行って並んで写真を撮りました。僕は鞭打ちになったことがショックでしたが、何かギャグみたいで笑っていましたね。車をぶつけた学生に対して、“気にすることはないんだよ”というメッセージを送る意味もあったのだと思います。

 私が高校生になり、色気付いてからも、父には随分いたずらされました。当時は携帯電話のない時代。ガールフレンドから家に電話が掛かってくることがあります。父は物書き。書斎には電話がありましたから、遠藤家に電話が掛かってくると、父が出る確率が一番高い。“鈴木と申しますが、龍之介君いますか?”といった電話に父が出ると、“ああ、先週末、息子と箱根に遊びに行った鈴木さんですね?”などと言うわけです。でも箱根になんて行っていないから全くの作り話。彼女は別の女の子と行ったと思いますから当然怒って、“違います”と電話を切ってしまう。翌日、学校に行って鈴木さんに会うと機嫌が悪く、何でだろうと思っていたら、父のいたずらだったといったことが何度もありました。父に“お父さん、僕のことで遊ぶのは止めて下さい”と言うと、“真実の愛は障害を乗り越えるものなんだよ”と訳の分からないことを言う。でも何だか面白くて笑った覚えがあります。あれがあの人なりの息子の可愛がり方だったと思います。

 私が慶応大学に進学し、3年生の時にフジテレビに就職が決まりました。書斎に報告に行くと、父は“座れ”と言う。普通の父親なら息子の就職が決まったら、“頑張れよ”とか“辛くても音を上げるなよ”とか言うものでしょう。ところが父はこんな話をしました。“先週、母さんと二人で湘南に食事をしに行った。江ノ島の砂浜を歩いていたら、足が取られて疲れてしまったので、舗装されている国道を歩いた。要するにそういうことだ”と言うのです。私には全く意味が分からず、“どういう意味ですか?”と尋ねると、“お前は本当に物分かりの悪い男だなあ。俺は作家で組織も守ってくれないから一人で歩かなければいけない。歩きにくい砂浜だったけどな。だけど砂浜は振り返って見ると、自分の足跡が見えるじゃないか。お前はこれからサラリーマンになる。色々なところで守ってもらえるし、歩きやすい舗装路を行く。歩きやすいかも知れないが、10年、20年経って振り返ってみた時、自分の足跡は見えないんだぞ”と言われました。せっかく就職が決まったのに、父親にそんなことを言われてすごくショックでした。


■“馬鹿なことを言うな”


 会社に入って1年くらい経った頃、独り暮らしをしていた私は、年始の挨拶に行きました。その時、多分聞かれるだろうなと思っていた質問がありました。“どうだ、舗装路の歩き心地は?”と。私は答えを用意していて、“すごく快適ですが、お父さんの嗅いだことのない排気ガスを吸っております”と返すと、父は何も言わず、ニヤッと笑っていましたね。

 結果的に父の最後の作品となった『深い河』については忘れられないエピソードがあります。普段の父は家族が自分の作品を読むことをすごく嫌がったので、本当は読んでいても、口に出さないのが、遠藤家では暗黙の了解でした。ところが、『深い河』はいつもと違った。当時、私は結婚をして別所帯を持っていたのですが、父から献本がありました。例のないことです。

 何故だろうと、『深い河』を読み始めた時、“これは父の最後の作品になるのではないか”という予感を抱きました。『深い河』は大河的小説で、彼の今までの作品の主人公たちが名前や性別を替えて登場しています。例えば、『わたしが・棄てた・女』の森田ミツ、『おバカさん』のガストン、『沈黙』のキチジローのようなキャラクターが集大成のように入ってきている。“これを書いてしまったら、この人は他に書くものがあるのだろうか?”という思いがしました。その予感は的中し、数年後に亡くなってしまいます。

 父の闘病は3年半に及びました。最初に腎臓が悪くなり、腹膜透析をする体になってしまった。腎臓移植で適合するのは身内が一番だと思い、私の腎臓を一つあげると父に提案すると怒られました。私の子供はまだ小さかったのですが、“馬鹿なことを言うな。これから2人の子供を育てていかなければいけないお前から、臓器をもらってまで生き長らえたいとは思わない”と言われました。

 後半の1年間は意識が戻ったり失われたり、混濁した状態が続きます。ユーモアに富み、気力溢れていた父が日に日に陰っていくのを見るのは辛いものがありました。そうして平成8年9月29日、父は静かに息を引き取りました。73歳でした。

 当然のことですが、作家には年表が残っています。自分のこの年齢の頃、父は何をしていたのだろうか、と時々思うのです。父はいつも私の年齢の遥か先をいっています。芸術院会員になり、芥川賞選考委員になったり、文化勲章を受章したり、もちろん私とはジャンルは違いますが、あの人はすごかったんだな、とつくづく思うわけですよ。

 もう亡くなって17年になります。時代は随分変わりました。父が生きていたら、どんなエッセイを書いただろうか。今のネット社会や、国難、あるいは政治不信について、どんな風に観ただろうかと興味があります。会合などで遠藤周作の息子だと言うと“ファンです”と言って、話を聞かれることがあります。人を引きつける魅力は今も生きているのでしょうね。

「週刊新潮」2013年4月11日号初出/2019年5月21日 掲載

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