ジャニーズの原点は米軍施設内の「少年野球団」だった 「男性アイドルの歴史」を創ったジャニー喜多川氏

 ジャニー喜多川氏の入院後、所属タレントたちは引っ切りなしに見舞いに駆け付けていた。タレントたちはまるで父親のように慕ってきた人物の容態を心配し、その胸中を素直に吐露していたが、ジャニー氏は残念ながら亡くなった。ジャニー氏は日本の芸能界を長く牽引し、一大「エンターテインメント帝国」を築き上げた功労者。そしてその原点もまた、彼を慕って集まった少年たちとの交流だった。

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 敗戦後に建てられ、米軍兵士及びその家族たちが暮らしていた「ワシントンハイツ」。明治神宮の隣、現在では代々木公園、国立競技場、NHKのある広大な地に、800戸を超える家族住宅が建てられていた。フェンスに囲まれたその敷地内にあるグラウンドで、野球に興じる子供たちの姿があった。

 俳優・歌手として現在も活躍するあおい輝彦氏(71)は、かつてインタビューで少年期についてこう語っていた(NHK「BSファン倶楽部(くらぶ)」)。あおい氏は当時、代々木中学に通う「野球少年」だった。(以下、〈〉内引用は秋尾沙戸子氏著『ワシントンハイツ─GHQが東京に刻んだ戦後─』より)

〈アメリカの駐屯地ワシントンハイツで、ジャニーズ少年野球団が練習をしていたんです。僕は当時近くの初台という所に住んでいて、こんないい環境で、野球ができるのはうらやましいなあって見ていたんですよ。入れないから網の外からね〉

 そんなあおい氏に声をかけた人物がいた。それが後に芸能プロダクション「ジャニーズ事務所」の社長となる、ジャニー喜多川氏だった。ジャニー氏はワシントンハイツの住人で、近隣の日本の子どもたちを集めて野球チームを作り、指導していたのだ。それは野球を通した日米親善のためだったという。あおい氏は大喜びで入団した。

 日本占領とアイドル事務所――、意外な接点だが、ジャニー氏は1931年、日系2世としてロサンゼルスで生を受けていた。戦後、日本のアメリカ大使館で働いていたという情報もあるが、大使館員用の宿舎は別にあった。ワシントンハイツの住人であったという事実から、何らかの軍関係の仕事に就いていたと推測される。朝鮮戦争にも米兵として従軍していた。

「ジャニーズ帝国」とまで称される一大エンターテインメントの世界を築き上げたジャニー氏だが、実は幼いころから芸能には馴染みがあった。父・喜多川諦道(たいどう)は、真言密教の開教師。「リトルトーキョー」にある高野山米国別院を任されていたが、同院の「五十年史」では〈師は芸能に深い趣味を持っていた〉と紹介されている。

 同院を取材したノンフィクション作家の秋尾氏によれば、寺の本堂には奥行きがあり、仏像の前で仕切ると広いステージになるという。これは諦道師の発案で作ったものだった。

■後の「光GENJI」を連想させるエピソードも


〈寺の会堂は約千人が収容可能で、柔剣道などの道場にも、コンサート会場にもなる。厳かな聖堂でありながら、日系人社会のホールとしての役割を果たす。移民の地の寺としては、かなり画期的なアイデアであった〉

 まさにエンターテインメントそのものだ。また母・栄子は日舞の名取で、会堂では踊りの発表会が頻繁に開かれていた。こうした両親に育てられ、幼くしてすでに、ジャニー氏には芸能の素養が育まれていたのであろう。

 1933年に家族でいったん帰国したものの、戦後、再びジャニー氏はリトルトーキョーに姿を現わす。秋尾氏が取材した日系人の信者たちの記憶によれば、〈俳優の田中絹代、山本富士子、歌手の美空ひばりなどの大物スターが日本からやってきて、本堂の舞台でショーを開いた〉という。ジャニー氏は〈カメラマンがスターの写真を撮って、そのブロマイドを売っていた〉そうだ。

 ジャニー氏の姉はメリー喜多川氏。ジャニーズ事務所の副社長となるが、彼女の姿も戦後、高野山米国別院で目撃されていた。再び、信者の回想である。

〈お姉さんのヤッちゃん(メリー氏のこと)も、なんだか若い男の子を日本から連れてきていました。近くのベニスビーチでローラースケートを練習させていたことがあったわ〉

 後の「光GENJI」を連想させるエピソードである。

 さて、「ジャニーズ少年野球団」の中でも、ワシントンハイツにあったジャニー氏の自宅によく遊びに来ていたのが、代々木中学野球部の4人組だった。それが後の、飯野おさみ、真家ひろみ、あおい輝彦、中谷良。ジャニー氏が最初に世に出したアイドルグループ「ジャニーズ」の面々だった。

 先のインタビューで、あおい氏はこう証言している。

〈ある日雨が降って、(野球の)練習ができないんでミュージカル映画「ウエストサイドストーリー」を見に行きました。すごく感激して、野球よりミュージカルのほうがカッコいいと〉

 こうして4人組は、自ら「ミュージカルをやりたい」と言い出したのだった。それを耳にした喜多川氏もまた、喜んだに違いない。その瞬間、現在に連なる輝かしい歴史が始まった。「ジャニーズ」の結成は1962年4月。この後、NHK紅白歌合戦にも出場し、「歌って踊れるアイドル」のパイオニアとして、熱狂的な人気を集めることになる。

 同じ年の11月、「ワシントンハイツ」の日本への返還が始まっている。そして翌年12月、米軍による接収は解除された。そしてその建物は、東京オリンピックの選手村へと転用されたのだった。

〈既存の建物を改修した選手宿舎は男子5900人、女子千名の収容能力を持ち、あらたに「富士食堂」「桜食堂」「女子食堂」の三つの食堂、四つの共同浴場、練習場などの施設が新築された。それまで米軍家族のためにあった劇場は「オリンピック劇場」と名づけられ、そこでは選手のために日本舞踊、郷土芸能、バンド演奏などが連日披露され、盛況を博した〉

 選手村は大会終了後の1964年11月に閉村した。建物も解体され、かつてあった「アメリカの町」は消滅したのであった。

 ちなみにそのちょうど3年後の1967年11月、元ワシントンハイツの跡地内に建てられた渋谷公会堂でのコンサートを最後に、「ジャニーズ」は解散している。

デイリー新潮編集部

2019年7月17日 掲載

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