「石原裕次郎」三十三回忌 名脚本家が振り返る、兄弟分「勝新太郎」との絆

 戦後の日本人がもっとも愛した男というと、1987年7月17日に52歳の若さで逝去した石原裕次郎さんに違いない。だが、亡くなって32年が過ぎ、今日は三十三回忌。一般的には「弔い上げ」で、これが最後の年忌法要だ。事実、裕次郎さんを知らぬ世代も増えている。勝新太郎さん(1997年没、享年65)と兄弟分だったことが語られる機会もほぼなくなった。しかし、二人は紛れもなく固い絆で結ばれていた。

 ***

 勝新太郎さんが主演した映画「座頭市」(1989年)や、故高倉健さん主演の映画「夜叉」(1985年)などを書いた名脚本家の中村努氏(86)が振り返る。

「勝さんと裕次郎さんは本当の兄弟のように仲が良かった。勝さんは『兄弟』と呼んで裕次郎さんをかわいがり、裕次郎さんも勝さんのことを『兄貴』と言い、慕っていました」(同・中村氏)

 裕次郎さんは1934年(昭和9年)生まれで勝さんは1931年(昭和6年)生まれだから、裕次郎さんのほうが3つ年下。デビューも勝さんは1954年(大映)で裕次郎さんは1956年(日活)なので、兄弟の順番に齟齬は生じない。

 とはいえ、裕次郎さんはデビュー2作目「狂った果実」(1956年)の主演によって、早々と大スターになっており、なかなか芽が出なかった勝さんとはずいぶんと格に差があった。裕次郎さんは、よく勝さんを「兄貴」と呼んだものだが…。

「日活の渡哲也さんら弟分は何人もいましたが、自分が頼る相手が芸能界にいなかったせいもあるでしょう」(同・中村氏)

 一方の勝さんは、押しも押されもせぬ大スターの裕次郎さんから「兄貴」と呼ばれることをどう思っていたのだろう。

「そら気分が良かったでしょう。勝さんは性格が素直な人ですから。少し歪んでいましたけれど(笑)」

 二人の関係は昨今の芸能界で目に付くような打算的なものや上辺だけのものではなかった。たとえば、勝さんは裕次郎さんの新たな魅力を引き出そうと、自ら主演する時代劇映画「人斬り」(1969年)に誘った。自分の役は暗殺剣士・岡田以蔵で、裕次郎さんには坂本龍馬役を用意した。

「勝さんは裕次郎さんの面倒をよく見ていましたよ。殺陣はもちろん、刀の握り方から教えた」(同・中村氏)

 勝さんの指導が功を奏し、この映画での裕次郎さんの評価は極めて高かった。

「勝さんとしては誇らしかったはずですね」(同・中村氏)

 だが、そもそも所属映画会社が違った二人が、なぜ知り合ったのか? 裕次郎さんは現代劇ばかりで、勝さんは時代劇中心だったから、畑も違う。

「両方とも大酒飲みという共通点がありましたから(笑)。当時は一流スターが行く店は決まっていましたので、そこで出会ったようです」(同・中村氏)

 親交を深めたのも高級クラブなどの酒場。だが、仲が良すぎたためか、喧嘩をすることもあったという。

「渋谷の道玄坂にあったクラブ(屯喜朋亭=ドンキホーテ)で二人が飲んでいたとき、他愛もないことで言い争いになった。『表に出ろ!』と言い放ったのが勝さん。けれど、表に出た途端、裕次郎さんが『兄貴、これは芝居にしようや』と持ち掛け、事なきを得ました。勝さんからは、こんな言葉は出てこない。喧嘩となったら、最後までいってしまうタイプですから」(同・中村氏)

 勝さんは一人で飲むときも裕次郎さんの歌を好んで歌った。「夜霧よ今夜も有難う」や「粋な別れ」である。実は、勝さんもレコードを何枚か出していたのだが…。

「ぜんぜん売れなかった(笑)。だから『なんで俺のほうが歌はうまいのに、裕次郎のばかり売れるんだ』と悔しがっていましたよ」(同・中村氏)

 中村氏の分析によると、確かに勝さんは歌がうまかったが、こぶしが利き過ぎていた。

「一方で、裕次郎さんの歌は、素人が酒を飲んで気ままに歌っているようで、魅力がありましたね」(同・中村氏)

 二人は生い立ちも違った。裕次郎さんは山下汽船幹部の父を持ち、慶応高から慶大に進んだ(中退)。一方の勝さんは長唄三味線方の杵屋勝東治の次男で、子供のころから長唄と三味線を教え込まれた。

「考えてみたら、この二人が仲良くなるはずがない。でも兄弟分になったのは、裕次郎さんの人柄によるものでしょう。大スターなのに自由で、自分の好きなことをやって。それでいて行儀がよかったです。誰にでも挨拶をした。知っている人を無視するようなことは絶対にしなかった。だから、裕次郎さんの悪口を言う人は一人もいなかったですよ」(同・中村氏)

 そんな裕次郎さんの人柄がスクリーンから、画面から伝わってきたから、戦後の日本人は裕次郎さんを愛したのだろう。裕次郎さんの「自由」は戦後を象徴していた。それでいて日本人の美徳も忘れていなかった。

 勝さんもそんな裕次郎さんにシビれてしまったらしい。大切にしていた主演ドラマ「座頭市物語」(フジ、1974年)や「新・座頭市」(同、1976年)にゲスト出演させ、「新・座頭市」では主題歌まで歌わせた。一方の裕次郎さんも勝さんを「西部警察」(テレビ朝日、1979年)に登場させている。

 また、二人ともプロダクション経営者だった。「石原プロモーション」と「勝プロダクション」。どちらも映画会社やテレビ局と対等の付き合いをすることなどを目的に設立されたが、運営には苦労が付きまとった。

「同じプロダクション経営者だから分かり合えた部分もあったでしょうね」(同・中村氏)

 二人が親しくなるのはごく自然なことだったのかもしれない。だが、裕次郎さんを襲った病魔・肝臓がんによって、その関係は終焉を迎える。

■勝新太郎の弔辞


 1987年8月11日に東京・青山葬儀所で行われた裕次郎さんの本葬で、勝さんは友人代表として弔辞を読むことになった。しかし、憔悴しきっており、しどろもどろの部分も。のちのコカイン騒動(1990年)や自らのがん告白会見(1996年)では終始悠然とし、人を食う発言を繰り返したのに。まるで恋人を失った若者のようだった。

 以下、一部を再録する。

「今日、この弔辞を読めと言われたときに,いいのかなぁ…、俺なんかが弔辞を読んでいいのかなあ…。昨日、『さよなら裕次郎』という本とそれからお兄さんの石原慎太郎氏の書いた文章と読んでいるうちに、とうとう朝になっちゃって…

              (略)

 なんかしゃべることを見つけなくちゃいけない、見つけなくちゃいけないと思って、どうしてもその言葉が出てこない、そうしたら、『兄弟、なんだよお前好きに言えよ、好きなことを言やいいんだよ、来て』。そういう声が聞こえたんで…。ここへ来たら、本当に生きてる時も思いやりがあったけども、死んで肉体がなくなっても、この魂が…この写真の顔が大変楽にさせてくれて…。

              (略)

 役者としては俺のほうが勝ってたんじゃないかな、なんて思いながら、この間、『陽のあたる坂道』とか、いろんなものを見てるうちに、とても追っつかないなと、これは。これは俺たちみたいな、変な演技するとか、そんなもう…そういうもんじゃ、とてもこれはかなわないと。石原裕次郎っていうのは、もう凄いんだと、つくづく思った。生きていながら死んでるやつが多い世の中で、死んで、また生き返っちゃったという、この凄さ、これは、とっても凄い」

 この「兄」の言葉が、「弟」の本質を言い表していたのではないか。

 勝さんはこの10年後の1997年6月、下咽頭がんで逝った。

高堀冬彦/ライター、エディター
1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長。2019年4月退社、独立。

週刊新潮WEB取材班編集

2019年7月17日 掲載

関連記事(外部サイト)